9 永い夜

 じっと掌を合わせていると、時の流れが速くなるように感じられた。心の中で何も唱えたりせず、ただ淡々と父の回復を祈った。長丁場になったとしても、手ごたえを感じるまでただひたすらに。やがて心に海が見えてきた。いつもの拠り所でもあるあの海だ。父と母が楽しそうに泳いでいた。途中、母はより深い方へと移動する。段々波が激しくなってきた。にも関わらず母は楽しそうにどんどん遠くまで泳いでいってしまう。父は叫んでいた。次の瞬間——母は海面から姿を消した。

 わたしは無我夢中で、思いっきり叫ぶ。

「お母さん!」

「どうした!」

 拓海の声がする。暗闇の中、光を探し求めるようにわたしは自分を取り戻す。どうやら祈りの最中に眠ってしまったようだ。ワンルームの中央に広げられた敷布団の上に横たわったわたしは未だ波打ち際にいた。

「お母さんが……お母さんが……」

「お母さんがどうした?」

「海から突然消えたの……」

 押し黙る拓海。きっとわたしが夢を見ていたのだと捉えているのだろう。現にそんな目をしている。しかし明らかに夢じゃなかった。記憶の中にはっきりと刻まれている現実そのものだった。泳いでる最中、母は「溺れた」のではなく「消えた」のだ。今ここに神父がいたらまた言うのだろう。思い込みを捨てなさい、と。しかし常識では推しはかれないような現実がこの世には存在するのだ。そうなると父の言動はどこまでが真実なのだろう。

 母はレヴィアタンに導かれて海底都市に移動し、そこで幸せに暮らしてる…… 。さすがにそこまでの奇跡は信じられないとしても、母は海から消えた後、どこに行ったのだろう。

「スマホ電源切ってるよね?」と拓海が訊ねる。

 静かに頷いたわたしはもう一度繰り返すように言った。

「お母さん、ほんとに消えたの」

 これ以上困らせるのはもう止めようと思っても、勝手に動いてしまうわたしの唇。再び沈黙がやってくる。あらゆる現象は体験した者にしか分からないし、知り得れない。なのに分かってもらおうとするわたしは何なんだろう。きっとあの映像は瞬間的に見せられたいにしえの出来事なのかもしれない。

 拓海の話によると、わたしの祈りは祈りというより瞑想に近かったようで一時間にも及んだらしい。現在の時刻は午後の三時半。雨は相変わらず勢いが凄く、あちこちの川が氾濫している様子。海はどう? と訊いたところ特に災害はないらしい。

 テレビは静かな音を立てたまま点けっぱなしになっている。上体を起こし画面を見つめると、ニュースが淡々と流れていた。

「明日には止むみたい」と拓海が言った。「色々心配だし、とりあえず今日のところは泊っていったほうがいいよ」

「ありがとう。もう少し横になっててもいい?」

「もちろん。おれはギターの練習してもいいかな?」

 わたしは笑顔で頷いた。待ってました、と言わんばかりに。金属の外れる音がしたのち、丁寧に取り出されたクラシックギター。調弦が始まるとわたしの胸は高鳴った。拓海のギターからはいつも海を連想させられる。

 もちろん今まで聴いていた場所というのもあるが、それだけではない。何やら巨大なスケールを彷彿させられるのだ。小さき者の祈りのように。しばらくすると雨の音に混じって演奏が開始された。その繊細な音の粒たちは、やがて大きな風となって部屋中のあらゆるものを揺らしてゆく。曲名は思い出せないが知っている楽曲だった。暗闇に灯された光を見るように音色は弾む。その指使いひとつひとつをうっとりと眺めていると、どこか別な世界へと誘われてしまいそうで、楽しくもあり怖くもあった。

 わたしが好きなのは、世界に浸ることだ。本の中でもそう、音の中でもそう、自分とは違う誰かがつくった世界に没入することは今棲んでる場所から大きく移動する感覚なのである。それこそが今わたしが求めているオアシスなのだと思う。

 演奏が終わったとき、わたしは横になった状態で拍手をした。

「やっぱ拓海くんのギター大好き」

「ありがとう。なんか照れちゃうね」

「一曲だけリクエストしてもいい?」

 いいよ、と返ってきたと同時に拓海の演奏が始まった。心を見透かされたのだろうか。わたしがリクエストしようとした「舟歌」が始まったのだ。部屋の中なのに潮風が吹いてくるようだった。この曲を聴いてるとどうしても涙が出てきてしまう。遠くで鳴っているような、そんな切ない曲。海を眺めているときもこんな気分になる。そして連想されるのはあの懐かしい日々。父がとても優しかったあの毎日。硝子細工でできたわたしたちの日常は、どんなにせわしなくても誰かのことを想うことで成り立っている。

 わたしの好きな拓海はこういうときなんだと思う。容姿や性格よりも、一生懸命になっているときの彼が一番かっこいい。「好き」はいつの間にか訪れる。

 最後のストロークが決まったとき、拓海は少し長い髪をかきあげて微笑んだ。

「リクエストしたのってこれでしょ」

「なんで分かったの?」

「顔見りゃ分かるよ」

 さっきまで聴こえなかった雨の音が再び鳴ってきた。いつまで続くのだろう。それにしても父は今頃何をしているだろうか。もしも父がこのまま会社に行かず、ずっと家に引き籠ってたらクビになってしまうはず。どうやったら助けてあげられるんだろう。やっぱりさっきのように祈るしかないのだろうか。わたしは再びそのことを拓海に相談した。

「この際、一日中祈ってればいいのかな?」

「そしたらまたおかしく……いや、なんでもない」

「おかしくなってなんかないよ! お母さんが消えちゃった映像は寝てるときじゃなくて、祈ってる最中に見たんだから!」

 まくしたてるわたしを鎮めるように、拓海は素直に謝ってきた。試しにスマホの電源入れてみようかなと思った矢先、コンビニで充電器を買い忘れたことを思い出した。

「コンビニ行ってきてもいいかな? スマホの充電器買い忘れちゃって」

「雨ひどいからもう少し落ち着くまで待ったほうがいいと思うよ。下り坂とか地味に危ないし」

「うーん、そうね。もうちょい待ってみる」

 一応どれくらい充電が残ってるか確かめるためにスマホをオンにすると、残量2%と表示されたと同時にLINEの着信音が鳴った。相手は——父だ。

「拓海くん、どうしよう……」

「試しに出てみて。やばかったらおれに代わって」

 呪われたような顔で画面を見つめるわたしの心臓の音が加速した。小刻みに震える右手で通話ボタンをタップする。

『もしもし、ノヴァ?』

 第一声は思ったよりも柔らかい声だった。わたしは眉間に皺を寄せてそっと呟く。

「お父さん……」

『ノヴァ、色々すまなかったな。お父さんはね、お母さんの元へ行くことにしたんだ』

「え……どういうこと?」

が分かったんだよ。やっと教えてもらったんだ、お母さんにね』

「お母さんに? もしかして……変なこと考えてないよね?」

『変なことも何もあるもんか。海に入口があるんだよ。念ずればどの海からでもお母さんのいる海底都市にワープできるらしい。家族っていうことで特別に選ばれたんだ』

「念ずれば?」

『ノヴァも一緒に行くか。今日は雨だし明日にでも』

「お父さん、怖いこと言わないで……お願いだからもうやめて……」

 わたしは泣き崩れた。降ってる雨よりも凄い勢いで。

『ノヴァ、どうして泣いてるんだ? 嬉しくないのか? やっと家族三人に戻れるんだぞ』

 すると隣で黙っていた拓海が叫ぶように言った。スマートフォンがハンズフリーなので声ははっきりと聴こえている。

「ノヴァをこれ以上悲しませないでください! 海で心中でもしようっていうんですか!」

『またきみか。勘違いしてもらっちゃ困る。きみはまだ若いだろうから分からないんだよ。家族離れ離れになった痛みや辛さが』

 小声で「ちょっと待って」と囁いてからわたしは拓海の口を塞いだ。

「だったら一緒に行こう、お父さん……わたし信じてみる。お父さんのこと……」

『うん。じゃあ明日の朝までにうちに帰ってきなさい。そのあと一緒に海に行こう』

 会社は? と訊こうとした瞬間、バッテリーが切れた。一変して空間に静寂が訪れる。わたしはバッグからポケットティッシュを取り出して、涙と鼻水を拭いた。拓海はいたたまれない様子で俯いている。絶望を感じているのかは分からないが、そのような顔をしている。


 結局夜になっても雨の勢いは変わらなかった。それどころか、より勢いを増しているような音だった。寒さも手伝ってエアコンの温度は28度まで上がっている。そんな中、わたしは拓海と手を繋いで天井を眺めてた。食欲が湧かないどころか、性欲なんて湧いてこない。ただただ押し寄せてくる闇に存在そのものが掻き消されそうになっていた。スマートフォンが使えたら警察か誰かに相談したか、といったらそうとも言えなかった。開き直った訳じゃない。「信じること」の可能性に挑戦してみたかったのだ。一方、拓海はとても寂しそうな顔をして何度も何度も握る手に力を込めてきた。どうして行くの、どうして行くの、と言わんばかりに。

 わたしは瞳を閉ざして祈っていた。もしあのとき見た映像が真実ならば、父の言葉は嘘じゃなくなる。蛍光灯は点けっぱなしだったが、目の前には暗闇しかない。それでもわたしは強く祈った、一縷の光を手繰り寄せるように。

 母が海で泳いでいる最中、忽然と姿を消した後の続きが見たかった。しかしなかなか映像は現れない。次にわたしは父がしていたようにテレパシーを試みた。


 ——お母さん、聴こえる? お母さん、わたしノヴァだよ、今どこにいるの?


 一秒、二秒、三秒、四秒、どんなに待っても返事は聴こえてこない。六十秒までカウントを続けてもダメ。するといよいよ人々に忘却された森林のざわめきのような、とてつもなく大きな悲しみが襲ってくるのだった。このままでは明日の朝まで眠れない気がしてきた。万が一眠ってしまって父との約束を果たせなかったらそれこそ恐怖だ。本当に一人きりになってしまう。

 拓海は起きてるだろうか?

 目を開けて隣を見ると拓海は顔を逆方向に向けて頭を震わせていた。

「拓海くん?」と声を掛けるが返事はない。やはり寝てしまったのだろう。と、そのとき繋ぎ合わせた手から凄い力が伝わってきた。同時に静かな慟哭が聴こえてくる。

「ノヴァ……」

「どうしたの」

「死なないでくれ……」

「拓海くん……大丈夫、わたし生きるから…… 何があっても生きるから……」

 拓海は無言になってしゃくりあげた。わたしも拓海の背中を抱き締めて一緒に泣いた。わたしたちの泣き声は雨の音に混じって音楽を奏でた。

 四方に鮮やかな色彩が漂うような夜だった。時間さえ止まれば明日は来ないのに、と何度も願っては虚しさを抱き締める永い夜だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る