8 ふたりっきり
弥生台に着いたとき、思いのほか過ごしやすそうな街並みにわたしは目を丸くした。横浜にこんなにいい場所があったなんて。
「坂道続くからゆっくり行こう。その前にどっか寄っていく?」
「ちょっとお腹すいたし、買うものあるからコンビニ行きたいな」
歩いていくと駅のすぐ近くにファミリーマートがあった。わたしは二万円ほど入った財布をバッグから取り出し、何を買おうかと店内を物色し始める。一方で拓海は弁当やらジュースやらをカゴの中に勢いよく入れてゆき、颯爽とレジまで進んでいった。その隙にわたしは生理用品や化粧品をカゴの隅に入れ、それらを隠すように蕎麦と緑茶を放り込んだ。
会計を済ませると、拓海は雑誌を立ち読みして待っていた。わたしたちは恋人同士のようにふたつ返事で外に出た。
拓海の住むアパートまでは歩いて十分ほどかかるらしい。桜木町駅からわたしの自宅までと同じ距離である。言われた通りちょっとした坂道があったが、登り切ると平坦な道になってきた。歩く際、わたしたちの間に会話はほとんど交わされなかった。まるで思春期のデートのように、お互いが言葉にならない想いを意識していたのかもしれない。少なくともわたしにとってはそうだ。顔見知りとは言え、一人で男性の家に行くのはこれが初めてだった。
小さな路地に入るとそのアパートはあった。いかにも一人暮らしの男性の家といった外観である。
「ごめん、ちょっとここで待ってて。少し片づけてくる。すぐ終わるから」
そう言って拓海はアパートに入っていった。一階の一番奥の部屋の玄関前でわたしは待つことにした。何だか緊張してきた。いくら過去に男性にモテてきたとは言え、こんなに距離を縮めたことは一度もない。そんなこんなでわたしは未だに処女である。あれこれ考えていると急に玄関のドアが開いた。
「お待たせ。どうぞ入って入って」
ドアの隙間から部屋の中を覗くと、比較的小綺麗な部屋が一望できた。六畳ほどのそのワンルームには小さめのテレビと木製の机が置かれており、脇の方には布団が生々しく畳まれている。
「思ったより綺麗ね」
「あはは。物が少ないだけだよ。さ、その辺に座ってくれ」
言われるがままにわたしは机の前に正座した。時計を見ると正午を少し過ぎたところ。LINE の履歴を見たが、父からも知人からも一切通知は来ていない。安堵すると同時に腹が鳴った。
「お腹空いたから食べるね」
「おれも」
わたしたちは無言のまま割り箸を動かし始めた。やはり外で会うのと室内で二人っきりになるのとでは雰囲気はがらりと変わってしまう。しかし、わたしの苦悩する心情は、たとえ拓海でも察するに余るだろう。蕎麦をすすって体内に流し込んだそのときスマートフォンが突然鳴りだした。
「もしかして……」
「お父さんだったらおれが代わりに出てやる」
すぐさま画面に目を落とすと、予想通り「父」と表示されている。
わたしが「どうしよ」と声のトーンを下げると、拓海が「大丈夫、貸してよ」と言ってスマートフォンを奪い取った。
「もしもし」
『あんた誰だ。うちの娘のスマホだよね、それ』
「ノヴァさんのお父さんですか? ちょっと酷すぎやしませんか!」
『は? きみは誰だね』
「これ以上事態を悪化させないでほしいんです! お願いですからちゃんと精神科に行って治療してください!」
『なに言ってんだがさっぱりわからん。失礼なこと言わないでくれ』
父のその言葉を最後に拓海は通話を切った。わたしは茫然と拓海を見つめ、かける言葉を探している。
「ちょっと荒々しかったかな。なんかごめん」
「いや、いいの。でもやっぱお父さんが心配……」
わたしはスマホを手に取り、父にLINE を打った。
〈いま友達の家だから何も心配しないでください。どうか、お元気で〉
すると、すぐに既読になる。いつ返事が返ってくるか分からずドキドキした。拓海も複雑そうな面持ちでスマートフォンを見つめている。
雨が降ってきた。すべての過去を洗い流してくれるかのように、ざあざあと。拓海は食べ終わった弁当をビニール袋に入れてそっと立ち上がり、窓の外を眺めてこう言った。
「ずいぶん降ってきたね。これじゃしばらく外に出るのはだるいな」
「だよね。わたしこれからどうしよう」
少しの無言が続いた。拓海は机の上のリモコンを手に取りテレビに向かってボタンを押す。速報が流れた。関東全域大雨警報とのこと。どうやら今降ってる雨は段々勢いを増してゆき、電車をはじめとする交通機関にも支障が出るらしい。これでは遣らずの雨となってしまう。
「あーこれはやばいな。もし今日中に止まなかったら——泊まってく?」
不安が募ってきた。曲りなりとも男女二人きりである。何て返事をすればいいのか分からない。そんなわたしの胸中を察したのか、拓海は、
「大丈夫。変なことはしないから」
と、優し気な表情で言った。
うん、と頷くわたし。男性には慣れてるようでいて慣れていないのだったが、実のところセックスに興味はあった。大学の友人にも聞かされたことがある。凄く気持ち
いいよ、と。今まで散々モテてきたのに、処女だなんて言った日には驚かれもしたし、笑われたりもした。一体今までどうやって切り抜けてきたの? って。その度にわたしは変な言い訳で誤魔化してきた。お父さんが厳しいから彼氏つくるの無理なんだ、って。意地悪な友達は更にこう言ってくる。だったらセフレでいいじゃん、とか何とか。だけどわたしは心から好きになった人としか交わりたくない。
「チャンネル変える?」と拓海が訊いてきた。
「なんでもいいよ」
「さっきからボーっとしちゃって、やっぱお父さんのこと考えてる?」
「うん、だって電話とかLINE いつ来るか分かんないし」
「レヴィアタンより恐い?」
「ちょっと、こんなときにふざけないでよ」
「ごめんごめん。ちょっとトイレ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
少し心がほぐれてきたが、問題のひとつにわたしが拓海を好きなのかどうか、というものがあった。まだ出逢って間もないのに、こうやってこの家に来たのも自分の責任だ。それにしても教会で一心不乱に祈ったとき、どうして拓海の顔や声やギターの音色が浮かんできたのだろう。最初はてっきりイエス・キリストの姿でも浮かんでくるのかと思っていた。運命の出逢い、について占いの本で調べたことがある。そこにはこんなことが書かれていた憶えがある。〈ミュージシャン、変わり者、正義感がキーワード〉と。よくよく考えたら見事に当てはまってる。
「ただいま」
「おかえり。あ、やっぱさ。スマホの電源切っておいたほういいよね」
「うん、そのほういいかもね。ただ、このまま放っといて一人で病院行くとは思えないな。あの感じだと」
「どうすりゃいいんだろ。ほんとに困った。もう手詰まり……」
スマートフォンの電源を切った後、わたしは頭を抱えた。全てこの雨が洗い流してくれたらいいのに。嫌なこと全部忘れて雨と一緒に、あの大好きな海へと飛び込めたらいいのに。時々入水自殺する人がいる。彼らはどんな気持ちで死んでいくのだろうか。わたしだったら海に処女を奪い取られ、恍惚の笑みで死んでいくのかもしれない。
「ノヴァって色々考えすぎるタイプでしょ?」まるで心を見透かしてきたかのように拓海が訊いてくる。
「うん。読書してないときでも本の中にいるみたいな、そんな感じ」
「へーそんなに読書が好きなんだ。おれは本読まないからなあ。そういやバイトは?明日から本屋のバイトどうすんの?」
「それも含めてどうしようかなって悩んでるの」
全ては天候次第と思いたかったが、それだけではなかった。色んな要因が重なって大きなハードルを作っているのだ。溜め息をついてテレビから目を逸らすと、壁際に置かれた
ギターケースが視界に入った。それを見ているだけであのメロディたちが耳元で囁きかけてくる。隅にあるカラーボックスには数枚のCD や、譜面らしきものが無造作に陳列されている。それまであれこれ考えてばかりいたので周囲を見回す余裕すらなかったのだ。
「どうかした?」
きょろきょろと首を動かすわたしに気づいた拓海が尋ねてきた。
「どんな音楽聴くのかなって思って。コンポはある?」
「コンポは今壊れてて修理に出してるんだ。聴くのはクラシックとロックだね」
わたしは部屋が無音になるのが怖かった。なぜかというと拓海の存在を変に意識してしまうからだ。結局わたしたちはテレビを眺め茫然としていた。雨はまだまだ止む気配がない。ぼたぼたと地面を叩きつける音を鳴らし続けている。
「そういえばさ」雨の音を遮るようにわたしは切り出した。
「ん?」
「うちのお父さんが言ってた話は全部が全部デタラメではないと思うの。もちろんレヴィアタンがどうのこうのって部分は怪しいかもしれないけど、お母さんがまだ生きてるっていう話はどうしても信じたい部分があって」
「うーん、おれはその辺については下手に口出しできないからなあ」
「だよね」
頭の中の虫がまた騒ぎ始める。もちろん母が海底都市に暮らしてるなんて完全には信じられない。病んでしまった父をただの「精神病」とカテゴライズするだけで片づけるのもいかがなものか。この世には人類が到底辿り着けない未知なる領域がたくさんあるはずだ。
ある閃きが頭の中をよぎった。
父はレヴィアタンという悪魔に憑依されてるのではないだろうか、と。
精神病という枠組みに閉じ込められた人間は、何を喚こうと訴えようと適当にあしらわれ大量の薬を飲まされて入院させられたり、社会から隔離されたりしてしまう。よく聞く話だ。父がああいった状態に変化する際、何の前触れもなかったし、いつも優しく元気で、職場をはじめとする世間でもその人間性を大いに評価されていた。それが突然あれだ。何者からの圧力、または超常現象によっておかしくなってしまったとしか考えられない。わたしは早速その考えを拓海に話した。
「それって映画みたいな話じゃん。シャイニングとかね。まあ確かに可能性ゼロとは言えないよね」
「教会の神父様に電話して話してみようかな。悪魔祓いやってますかって」
「さっきも言ったけどそれはさすがに映画の観すぎだと思う」
「でも少しだけお話したい」
わたしはスマートフォンの電源をオンにし、着歴に残った教会の番号に電話をすることにした。拓海は半ば諦めたような顔でテレビの音量を下げる。
「もしもし。今朝そちらに伺った早坂ですが、神父様はいらっしゃいますか?」
『あーはい、早坂さんですね。その後は大丈夫ですか?』
「今朝はありがとうございました。あの後、友達の家に避難することができたのでとりあえず大丈夫といった感じです。実はある考えが浮かびまして。レヴィアタンって存在に関してなのですが——」
『はい、どんな考えでしょうか』
「レヴィアタンって実際にいる生き物じゃなくて、悪魔っていう概念のことなんじゃないでしょうか? 父はその悪魔に取り憑かれたんじゃないかって考えてるのです」
『確かにレヴィアタンは神が造った獣として旧約聖書のヨブ記やイザヤ書などに出てきますが、お父様は病気だと思います。人間誰しもが心を病んでるんです。誰しもが弱い部分を持って生きています。そこで大事なのは弱いからこそ強くなれるというこ
とです』
「と、言いますと?」
『思い込みという概念にあまり囚われずに生きていくことです。そして自分の弱さを誇ってください。人間は弱ってるときこそ強くなれるからです。つまり自分の弱さと向き合いつつ、大切な方の幸せを願ったり祈ったりしたりしたとき、はじめて本当
の強さが湧き上がってくるということです。あなたにはいいところがたくさんあります。お父様にもたくさんあります。人間いつ亡くなるか分かりません。だからこそ楽しんで生きていってください。今ではインターネットでカウンセリングを受けることができます。それをお父様に勧めてあげてみてはいかがでしょうか』
「分かりました。ちなみに神様への祈りはどこからでも通じますか?」
『もちろんです。教会にわざわざいらっしゃらなくても、遠くからお父様の幸せを祈ってあげてください』
「はい、本当にありがとうございます。毎日祈ってみますね。また何かありましたらよろしくお願いします。では失礼します」
この瞬間わたしは今までの自分と決別できた。全ての言葉を理解できたといえば嘘になるが、大事な部分はしっかりと心に刻まれた。拓海も安心した表情でわたしのことを見つめていた。
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