7 ステラ・マリス
グーグルマップを頼りに二十分ほど歩くと電信柱に教会への案内が貼ってあった。次の信号を右折すれば辿り着くらしい。途中でバイト先に欠勤の連絡をした。これでもう二日連続欠勤となり今後の雲行きは怪しくなった。それにしても家を出てから吐き気はずいぶんと収まったように思える。濁った空気が充満し、狂気の沙汰と言わんばかりの不協和音を奏でていたあの状況。教会に行ったところで解決するのかどうかは分からないが、気休めにはなるだろうと希望を手繰り寄せる。
ようやく教会の姿が見えてきた。予想以上に荘厳で巨大な白い建造物。思わず、「素敵」と独り言を漏らしてしまった。映画のワンシーンを思わせるような桃源郷。美貌を備えたマリア像。たとえクリスチャンではなくても、この建物を見たら多くの人が恍惚として見惚れてしまうだろう。マスクをずらし、リップクリームを塗りながらそっと空を見上げると、美麗なる十字架が雲を覆い隠し、空を征服しているかのように見受けられた——非日常を高らかに謳いあげながら。我に返って前方を見ると入口の奥の方で掃除をしている女性の姿が見えた。
「あのう、すみません」
「おはようございます。どうなさいました?」
「先ほど電話した早坂と申しますが、神父様に要件があって参りました」
「ああ、早坂さんですね。神父様なら礼拝堂におりますよ」
「勝手に入ってもよろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
わたしは女性に案内されて教会の中を歩いてゆく。女性が「こちらです」と告げた瞬間、視界に一枚の絵画のような景色が飛び込んできた。色鮮やかなステンドグラス、綺麗に並べられた木製の椅子、存在感を放つ白い柱。その奥には十字架を背にして立っている男の姿が見受けられた。
「神父様、早坂さんがいらっしゃいましたよ」
女性の一声に、神父と呼ばれた男は振り返った。黒いスーツ姿といった装いの神父は、一般人とはかけ離れた神秘的な雰囲気を纏っている。
「はじめまして、先ほど電話しました早坂です。よろしくお願いします」
「どうぞ前の方の椅子にお掛けになってください」
わたしは緊張の色を隠せないまま、恭しい足取りで焦げ茶色の椅子に向かい腰を掛けた。
神父は優しい笑みを浮かべながら、
「では、お話をお聞きしましょう」
と言って軽く会釈した。
「はい。今日父は会社にも行かず、ソファで寝ています。昨日から様子がおかしくて怖かったんです。一緒に精神病院に行こうって言いましたが、ますます怒っちゃって……。警察に言ってもしょうがないでしょうし、もうどうしたらいいか分からなくなってしまって、こちらに伺いました……」
もっと細かく事情を話すべきと思ったのだが、疲労のせいか言葉が続かない。ただ一心不乱に何かにすがりたかった。
「暴力とかは振られてないんですね?」
「あ、はい、大丈夫です……」
なぜか嘘をついてしまった。確かに頬を叩かれたのに、言うことができなかった。続けて相談したのは今後どうすればいいか、ということだった。
「うーん、困りましたね。親戚の家とかに一時避難したりはできませんか?」
「母方の親戚はイギリスにいます」
「イギリス?」
「はい、わたしハーフなんです。下の名前がノヴァっていうので」
「なるほど。では父方の親戚の方は?」
「北海道にいるので遠くて行けないんです」
わたしは息を前方に向かって細長く吐いた。神父様も顎に手を乗せて何かを考え込んでいる。しばらく間が空いた後、神父様はこう言った。
「カトリックでは勧誘などは一切しません。お祈りを強要することも、です。ただ、あなたのように困ってる方を見過ごすわけにはいきません。宗教的な形でのアドバイスはあまりしませんが、言っておきたいことがあります。まずは自分が一番安らぐ場所を見つけてください。その場所にいて心から落ち着けるのなら、そこに行ってもう一度自分の人生についてよく考えてみてください。そういう場所はございますか?」
「はい——海です」
わたしは即答した。それ以外に答えなど一切なかった。
「海ですか。実は海の星の聖母というのが聖母マリアの古来の呼び方なんです。ラテン語でステラ・マリスと言います。そこで毎年七月の第二日曜日に船員たちのための海の星に捧げるミサを行ってるんですよ。海はカトリックにとっても縁のある場所なんです。日本って島国ですから異国で生まれたキリスト教に対してはどうしても海外のもの、つまり海の外の宗教と捉えがちです。でも実際は海って国と国の境にすぎないし、光の道でもあるんですね。それはそうと、早坂さんのお母さまのお話は伺いましたが、災難でしたね……。ただ、こう考えてください。お母さまの肉体がなくなっても魂は永遠に滅びないのです。今も必ずノヴァさんのことを見守っておりますよ」
その後、神父は更なる詳細を聞いてくれた上、一緒に神様に祈ってくれた。元々教会に通ったり、洗礼を受けたりする願望は一切なかったのだが「祈り」に対しては一度真摯に向き合ってみたかった。ちなみに祈りの最中、頬に涙が伝っていたのはどのタイミングからか、はっきりと覚えていない。
「また何かありましたらいつでもお越しください。お電話でも構いませんからね」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
教会を後にするとき、両手で固く握手をしてくれた神父の愛に満ちた眼差しがいつまでも心に残るような気がした。人の体温はこんなにまで温かかったのか、と知ったかけがえのない瞬間だった。
石川町から根岸線で横浜まで揺られ、そこからみなとみらい線に乗り換えた。平日の午前とだけあって車内は比較的空いていた。わたしはお気に入りの音楽を聴くことすら忘れて、瞑想するかのように目を閉ざし無になるよう試みたのだが、幻聴のように木霊する父の声からは逃れることができなかった。頭の中には虫がいるように思う。それは鳴くのだ、夏の五月蠅い蝉のように。
ようやくみなとみらいに到着すると、人々のせわしなく歩く姿が静止画に見えた。もし、この世が一枚の絵画だったらどんなに楽しいことだろう。何にも邪魔されずにじっくりと眺められるし、煩わしい事象が全て芸術に変わるのだ。悦びとしか言いようがない。わたしは急ぎ足で海岸沿いを歩いた。拓海はいるだろうか。しかし、あの美しく切ないメロディは聴こえてこなかった。わたしは待つことにした。神父様と一緒に祈ったとき、聴こえてきたのは拓海の奏でるメロディであり、海そのものの「声」だったのだ。
(もう一度試してみようかな……)
人気のない場所に移動していると、やがて以前と同じ場所が見つかった。わたしは柵の隙間から右手を入れて、海水に浸ける。左手でアクアマリンをしっかりと握り締めながら。瞳を閉ざし、想いの丈を海に伝えてゆく。全神経を右手に集中させていると、何かが身体に入ってくるような気がした。乾いた砂漠で途方に暮れた旅人の心を癒すオアシスのような何かが。
誰かがわたしの名前を呼んでいる。ノヴァ! ノヴァ! と大きな声で。わたしは無意識に心の中で叫んでいた。(お母さん! お母さん!)と。
しかし返事はなかった。自分を呼び続けているのは誰の声なのか分からない。ただ、わたしは奇跡がこの場で起きることを心から信じていた。次の瞬間、誰かがわたしの肩を叩いた。意識を取り戻し、振り返るとそこには懐かしい顔があった。
「拓海くん……!」
「何やってんだ、ノヴァ」
わたしは慌てて右手を海水から引き抜き、前のめりになっていた体勢を元に戻す。
「もしかして、さっきの声は…… 」
「ずっと呼んでたんだぞ」
拓海は旧友との再会を喜んでいるかのように満面の笑みを浮かべていた。地面には茶色のギターケースが置いてある。見ただけで音が鳴ってくる気がした。
わたしたちは以前座ったベンチで静かに話し始めた。神父様に伝えたときのように洗いざらい全てのことを話すと拓海は、うんうん頷きながら熱心に聞いてくれた。途中で何も口を挟むことなく思慮深い表情で。途中わたしの声に涙が混じってきた。すると拓海はわたしの背中をさらさらと優しげに撫でてくれた。
「そうか……そんなことがあったんだな…… 」
拓海の優しいその声に、わたしは神父様に言えなかったこと——父からの暴力について話すことにした。生まれてはじめて受けた、肉親からの暴力を。話し終わるとわたしは、両手で顔を覆いながら嗚咽した。泣いてばかりのわたし。こんなはずじゃなかったのに、と思いながら。
「泣かないで。これからはおれがノヴァを守るから」
その一言がわたしの涙に拍車をかけた。悲しいわけじゃなく安心したのだ。祈りが通じた、と無意識が囁いたのもこの瞬間だった。
しばらく泣いて心が落ち着いてきたとき、隣から美しいメロディが流れてきた。奏でていたのはもちろん拓海である。今までに聴いたことのないその楽曲は、心の芯まで染み渡りわたしの心を静かに溶かしてゆく。
「それ、なんていう曲?」
「舟歌」
「すっごくいいね」
海を連想させる曲だった。きらきらした水面が頭の中、浮かんでは消え、浮かんでは消え。メロディという名の海に揺られるその舟は、無理して前に進むことなく、かと言って立ち止まってるわけでもなく傍らで静かに佇んでいる。
「なあ、ノヴァ」
「なあに?」
「良かったらおれの家に来ないか」
わたしは一瞬どきっとしたが何も言わずに頷いた。こんな展開になるのなら化粧くらいしてくれば良かった、なんて思ったが今はそれどころではなかった。
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