6 アトランティス大陸

 その様子からして夢でも見てるのだろうと思い、わたしは父の体にタオルケットをかけた。

「気遣いありがとな、ノヴァ」

 父は突然目を開けた。

「あ、起こしちゃった? なんかさっき寝言いってたよ」

 すると父は急にげらげらと笑い出し、傍に置いてあった眼鏡をかけた。

「寝言じゃないって。ちゃんと起きてたよ」

「え、じゃあ、お母さんの名前呼んでたのは独り言?」

「いやいや、遠く離れていてもね、時々こうやって話すことができるようになったんだよ」

 わたしは言葉を失った。父とわたしは純粋なところがそっくりなのだが、今の状況を冷静に考えてみると決して普通とは思えない。もちろん父の話を完全に否定しているわけではない。父は酒も煙草もギャンブルもやらない真面目な人間なのだが、一度何かに没頭すると誰にも止められないほど熱中する節がある。熱しやすく冷めやすい面があるところもわたしとよく似ている。

「お父さん、さっきの話だけどさ。その海底都市ってどこにあるの?」

「地中海の辺りだよ。ほら、ノヴァも聞いたことあるだろ? アトランティス大陸って」

「アトランティス大陸ね。知ってるけど、生身の人間がどうやって住めるの?」

 わたしが疑問を投げかけると、父は再び目を閉ざした。

「ちょっと待ってて。今訊いてみるから」

 父は口をポカンと開けて、天井に向かってぶつぶつと言葉を放つ。その有り様は宇宙人と交信するシャーマンのようだった。わたしは何かを期待する瞳で父を食い入るように見つめる。


  ——イザヴェラ……イザヴェラ……

  ——聴こえてるか?

  ——おい、寝ちゃったのか?


 父はとても幸せそうな顔で口を動かしている。その様子を見たわたしはただ見守るしか ないと思い、何も横やりを入れようとはしなかった。複雑だったのは、もし父の言う話が 真実ならば十八年間も母は一人娘のわたしを置き去りにしてきたということになる。

「お父さん」

「ん?」

「お母さんとの交信はうまくいった?」

「それが寝ちゃってるみたいでさ、返事がないんだよ。明日また訊いておくから」

 うん、と頷き、わたしはテレビ台の上の写真を見る。緑色の瞳をした母の顔がとても美しかった。わたしは部屋に入ってパソコンの電源を入れる。そしていつもと同じ要領で〈アトランティス大陸〉と検索した。

 Wikipedia の記述、画像検索、その他諸々の記事を眺めていると、ここに自分の母が住ん でいるなんて、どう考えても信じられなくなってきた。だいいち、アトランティスは遥か 昔に海に沈んだ大陸であって、人が住めるかどうか以前に存在するのかどうかも定かでは ない場所だ。確かにわたしはこういったオカルト関連、都市伝説の類はどちらかと言えば 好きだった。だからと言って父の話を全て鵜呑みにするのは至難の業である。 ふとした瞬間、海岸沿いで出逢った老人の顔が浮かんだ。彼になら何でも話せるような 気がしてきたので〈石川町カトリック教会〉と検索するとホームページがすぐにヒットした。教会のある石川町まではここから歩いてすぐである。すぐさまブックマークし、頃合いを見て電話することにした。拓海や柚原にも話してみたかったが、ここはちゃんとした宗教家に打ち明けた方がいいだろうと踏んだ。


 その日の晩はなかなか寝付けなかった。時々ドアを開き一階の様子を確認すると、夜中だというのにまだ電気がついていた。そしてまた聴こえてきたのだ。誰かと話しているかのような父の話し声が。父は正常なのだろうか? それとも——

 怖くなったわたしは静かにドアを閉めて鍵を掛ける。何か嫌な予感がする夜だった。

 起きては寝て、また起きて、を何度も繰り返しているといつの間にか窓の外が明るくなっていた。少し肌寒かったのでエアコンの暖房をつける。時計を見ると早朝の七時を過ぎたところだった。父はもう会社に行ったのだろうか?

 音を立てないようにドアを開け、踊り場からリビングの方を見やると昨夜とは違った完全な静寂がそこにはあった。わたしは安堵し再び部屋に戻る。昼からのバイトに行けるかどうかは今日の自分の精神状態とスケジュールによって決まる。

 そのとき、ドンドンドンと大きな音を立てて誰かが階段を駆け上がってきた。もしかして——と思い部屋の鍵を閉めようとしたがもう遅かった。

 開いたドアの向こう側には険しい表情をした父の顔があった。鬼気迫る、といった言葉を完全に再現したかのような形相だった。

「……どうしたの?」わたしは恐る恐る尋ねる。

「お母さんがおれたちを裏切った!」

「裏切ったってどういうこと?」

「アトランティスで浮気をしてるみたいなんだ! さっき交信してる最中に他の男の声がした!」父は真っ赤になって喚き散らすように言った。

「たまたま近くにいただけじゃないの?」

「違う!」

「お父さん……こんなこと言っちゃ悪いけど……一緒に病院いこ。わたし、もう何が何だか分からないよ……」

「ふざけるな! おれが病気だって言いたいのか!」

 父は走ってきてわたしの頬を思いっきり引っぱたいた。部屋中に鈍い音が響き渡る。

「ご、ごめんなさい……」

 わたしは泣きながら謝った。火山のような父の怒りが鎮まるまで何度も何度も謝った。

「畜生! イザヴェラの奴め!」

 父は言葉を吐き捨ててその場を去った。わたしはすぐさまドアを閉め、鍵を掛ける。このまま全てが終わってしまうのではないかと思われた。破滅と崩壊を内包したこの時は、わたしの身体をいやおうなしに揺さぶって奈落の底へと突き落とすのだった。

(あんなに優しかったお父さんが……)

 この上なく最悪な気分だった。父はちゃんと会社に行けるのだろうか? 例え行けたとしても今の状態で仕事をするとなると支障をきたすのは明白である。

 濁った空気を入れ替えようと窓を開ける。すると電信柱に止まっていた鴉がこちらをじっと睨みつけていた。否応なしに悪寒が走る。外の風とエアコンの風が室内で混ざり合うと、生暖かいような、肌寒いような、どちらか分からない曖昧な空気が部屋中を支配し始める。もちろん潮風は吹いて来ない。

 じっと空を眺めていると一筋の涙が頬を伝った。

 一階からは何かを殴る音が聴こえてくる——。澱んだ空気がこの部屋までやってくる。わたしはスマホを片手にし、誰かに連絡しようと考えた。暴力を振るわれたが、警察を呼んだところでこの状況が解決するとは思えない。

 時計の針は無表情のままで残酷に時を進めてゆく。

 様々な顔、様々な案が浮かんでは消えてゆき、最後に頭に残ったのは——

(そうだ……教会に、教会に電話してみよう)

 さっそくパソコンの前に座り、ブックマークから例の教会のホームページへと飛ぶ。スマートフォンを持って電話番号を押してゆくと、緊張感がほどばしった。

『はい、もしもし』

 第一声はしっかりとした男性の声だった。わたしは父に聞こえないよう、スマートフォンに左手を添えて小声で話し始める。

「あ、もしもし。早坂と申します。実はみなとみらいでそちらの信者の方と知り合ったんです。神父様はいらっしゃいますか?」

『はい、わたくしですが』

 一瞬、右手が震えてしまった。今の状況をどのように説明すればいいのだろうか。

 わたしは意を決して今までの経緯を洗いざらい話した。聖書のこと、レヴィアタンのこと、父のこと、そして母がまだ生きているというアトランティス大陸のこと。


「——といったわけです。どう思われますか?」

『お父様は精神病かと思います。心の病を患ってらっしゃると思いますよ。すぐにでも精神科を受診された方が賢明でしょう』

「そうですよね……でも、信じてあげたい部分もありまして……それに神様は全ての人を救ってくださるのですよね?」

『ではあなただけでも直接相談にいらっしゃい。仰る通り神の愛というものはもちろんありますが、現実問題お父様の病を治せるのは今はお医者様なのです。よろしいですね?』

「では今からそちらに伺ってもいいでしょうか?急いでるんです」

『分かりました。お待ちしておりますね。お気を付けて』

 スマートフォンを切った瞬間、わたしは枯れた花のようにへなへなとその場にしゃがみ込んだ。深呼吸し、ドアの隙間から廊下を眺めると父の気配は感じられなかった。わたしは部屋に戻り外出の準備を整える。メイクなんてするような心の余裕はなかったので適当に髪をとかし、マスクをつける。心配だったのは、無事外出できるかどうかだった。急に吐き気が襲ってきたが、嘔吐する前に行かなくてはならない。

 これほどまでに生きてることが過酷に感じられた日はなかったように思う。ただ、海によって様々な人間に出逢い助けられてきた事実だけが、胸元にぶら下がるアクアマリンの如く光り輝いている。

 準備を終え、ヴィヴィアンウエストウッドのバッグを肩に掛けると、踊り場から一階を見下ろした。するとソファで寝っ転がっている父の姿があった。寝ているのだろうか? わたしは恐怖の念を押し殺しながら音を立てないように階段を降りてゆく。いつもの倍の時間をかけてようやく一階に着くと、父の気配はいっそう近くに感じられた。

 ソファから少し離れるようにして遠目で父を見やると何やら音が聴こえてくる。慎重に近づいて耳を傾けてみると父のいびきだった。

(大丈夫……熟睡してる……)

 わたしは玄関まで慎重に歩き、古めのスニーカーに足を入れる。紺色のワンピースには不似合いだったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。

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