5 謎の手記

「何か悩んでるようだね」

「はい。実はクリスチャンでもない父が聖書を持ってまして、その中のあるフレーズに線が引かれていたんです。確かイザヤ書ってところの、レヴィアタンがどうのこうのって部分にです」

「ほほう、それは面白い。レヴィアタンとはな」老人の表情が明るくなった。「今だったらあれだ、インターネットで色々調べられるだろう? ただあれは危険だ。間違った情報もごちゃ混ぜになって載ってるからね」

 一瞬、ハッとした。わたしも事ある毎にネットに依存してしまってきたからだ。自戒するにはいい機会なのかもしれない。

「——あの、変なこと訊くようですが、レヴィアタンってまだ生きてるんですか?」

「いやいや、生きとらんよ。聖書には確かにそのような生物が神によって造られたと書かれている。ただ、レヴィアタンは危険な生物だということで神が自ら滅ぼしたのだよ」

 老人の言葉に引っ掛かった。確かにネットはでたらめな情報で溢れかえっているが、それに比べて聖書は絶対なのだろうか。わたしは大きく息を吸い込み、ある決意を固める。

「実はですね。わたしの母は今から十八年前に海で溺れて亡くなったようなのです。わたしがまだ物心ついてないときの話です。でもそのときの詳しい状況をいくら訊ねても父も親戚も何も答えてくれないんです。そこにずっと引っ掛かってまして」

「そうでしたか、それは辛い想いをされましたね。お気の毒に……」

 わたしは無意識にペンダントを触わり始めた。不穏な気持ちになったときにはいつもこの癖が現れる。やはり今一番気になっているのは聖書の真実性であり、人智を越えた超常現象や存在しないとされている生き物についてである。わたしは憂鬱な瞳で海を眺めながらこう言った。

「わたしは……レヴィアタンが今でも生きてるって信じてます」

 老人は何も言わなかった。ここで無理に否定しても堂々巡りになる、と判断したのだろう。しかも信じるのは人の自由であって尊重されるべき概念なのだ。現に老人をはじめ、クリスチャンたちはイエス・キリスト並びに、神を信じている。信じ切るにはある種の意思の強さが必要になってくるはずだ。

 次の瞬間、わたしはある大切なことを思い出した。

「聞いてください。さっき父が聖書を持っている話をしましたが、わたしが見た後にそれを書斎に隠したんです。しかもいつもはそんなことしないのに、鍵まで掛けちゃって……。絶対に何か隠し事をしてるとしか思えないんです。どう思われますか?」

 すると老人は、「どう思われるか、と言われてもねえ」と困った顔をした。

「わたし一人っ子で、父と二人暮らしなんです。本が大好きなので今までは書斎を共有して使ってました。それなのにあのタイミングでいきなり鍵を掛けるなんて……」

「お嬢さん、あまり考えすぎるのも身体に毒だよ。もしキリスト教に興味があるのなら、カトリックでもいいしプロテスタントでもいいし、ちゃんとした教会に足を運んでみるのもいいかもしれないよ」

「わかりました。気が向いたら一度行ってみようと思います」

「それから」と老人は言った。「何か困ったり悩んだりしたときはこう考えてね。わたしたちは皆、神様に愛されている。試練っていうものは乗り越えられる人にしか与えられないってことだよ」

「はい、素敵な言葉ありがとうございます」

 わたしが軽くお辞儀をすると老人は笑顔でその場を後にした。軽快な足取りで歩く彼の背中が水面のように光って見えた。


 夕刻。わたしはようやく家路についた。父はいつも残業ばかりで、遅い日には終電で帰ってくる。早ければ夕ご飯時といったところだ。

 まずは父にLINE を打つ。

〈病院行ったけど、何も異常なかった。今日は何時くらいになりそう?〉

 リビングのソファに座ってボーっとしていると、スマホが鳴った。

〈それはよかった。今日は少し遅くなりそうだよ。先に食べてて〉

 わたしはホッとし、ある計画を実行することにした。もちろん書斎の鍵探しである。時間はたっぷりありそうなので目ぼしいところは全て探すことに決めた。


 二時間経過。その間、父の寝室と部屋、リビングの引き出し、テレビ台の裏、物置きなどありとあらゆる場所を探したが鍵は見つからなかった。やはり父は会社に鍵を持っていっているのだろう。考え始めると全身は一気に脱力し、自室のベッドに倒れ込むのだった。

 一旦仮眠しようと髪につけていたヘアピンを抜くと、ある考えが浮かびあがる。

 

 ドラマや映画でよく見かける手段である。ベタといえばベタだが、こうなったら賭けてみるしかない。わたしはヘアピンを真っすぐに曲げ、書斎の前に立った。ドキドキしながらヘアピンの先端を鍵穴に差し込むと、自分が泥棒になったような気分になった。しかし、焦れば焦るほど手が震えてうまくいかない。わたしは一旦ヘアピンを抜いて、全体を曲げてみる。イチかバチかの賭けだった。再び鍵穴に差し込み、強引にヘアピンを動かすと突然カチッと音が鳴った。

「開いた!」

 わたしは慎重にドアノブを回す。まさかこの荒々しい方法で鍵が開くとは思っていなかった為、夢でも見ているかのようだった。目の前には以前と変わらない光景が広がっている。わたしは本の背表紙が並ぶ書棚をゆっくりと眺めまわす。無数にある本の世界で多少緊張しながら聖書を探した。ところどころ誇りまみれになっており、長年掃除してない有り様を目の当たりにした。

 一通り書棚を見たが、聖書は見つからなかった。一旦視線を変えて、奥の方に持っていくと灰色のテーブルの上に黒い物体が乗っているのが分かった。「あっ」と思わず声を出してしまった。近づいていくと、予感は確信に変わる。無造作に置かれた聖書を両手で持ち上げると、その下に何やら小さな白い紙切れが佇んでいた。

 何だろう、と思い一旦聖書をテーブルの上に置いて紙切れを手に取ると、そこには手書きでこう綴られていた。



  十八年間、わたしは海底都市で生きて暮らしている

  すべてはレヴィアタンが導いてくれたおかげ

  故郷の海に帰れたことに感謝してる

  でも時々寂しくて、あなたやノヴァに会いたくなる

  身勝手で本当にごめんなさい、いつも愛してる



 そこでメモは終わっていた。宛名も差出人の名も記されてない、よくわからない一枚の紙切れ。よく見ると父の筆跡にやや近い。わたしは頭の中が空っぽになってしまうほど混乱していた。ここに書かれている「わたし」とは一体誰のことだろう? もしかして…… 。

 そのときだった。背後に気配を感じ取り、わたしは咄嗟に振り返る。

「ノヴァ」

 そこには険しい表情をした父の姿があった。両目にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「お父さん……」

「どうやって入ったんだ?」

「このヘアピンを使って……」

 わたしは凄く悪い事をしたかのような罪悪感に苛まれていた。

「そのメモを見たのか」

 父の声は暗闇に包まれているような、そんな声だった。わたしは黙って頷く。

「お父さん、もしかしてこれってお母さんのこと……?」

「そうだよ」

 間髪入れずに父が返事をすると、わたしはわあっと泣き出した。ごめんなさい、ごめんなさい、と呪文のように繰り返しながら。自分が何で謝っているのかもわからなかった。父は優しい顔で近づいてきて泣いてるわたしを強く抱き締める。

「お母さんはね、生きてるんだよ。でもね、隠してたわけじゃない。最近それを知ったんだ」

 わたしは父の言葉を受け入れるのに時間を要した。気持ちの整理がつくまで泣いていたかった。鼻をぐずぐずとさせながらなんとか呟く。

「でも、どうやって」

「テレパシーで聴いたんだ。この前お墓参りに行ったとき、はっきりと聴こえてきたんだよ。びっくりして車に戻ってすぐに書き留めたんだ。でもね、気持ちの整理がつくまでは誰にも言わないでいようと思ってた。もちろんノヴァにもね」

 父の声も両腕も微かに震えていた。まさか、お母さんが生きてるなんて……。わたしは父に抱き締められたまま夜を終えるような気がした。明日、本当に朝が来るのだろうか。

「ちょっとひとりになりたい」

「ご飯は?」

「いらない」

 わたしは書斎から逃げるようにして走り去り風呂場へと向かう。そのまま裸になって浴槽に浸かった。一旦全てをリセットしないと頭がおかしくなると思ったからだ。いつもはしないのに、頭ごと湯舟に沈んでみた。すると——そこは海だった。全てを忘れることのできる聖域——それがわたしにとっての海だ。数秒経ったあと、息が苦しくなって浮上する。鰓呼吸さえできればいつまでも泳いでいられるのに。

 海底都市、レヴィアタン、お母さん、それらのキーワードが頭の中に蘇ってきて地球のようにぐるぐる回る。逢いたい。お母さんに、逢いたい。その想いだけが拡大し、風呂の湯の色を鮮やかに染める。でも、どうやって逢えるのだろうか。メモの内容と父の話を非科学的と言ってしまえば全てはそこで終わる。ただ、信じることで光を見られるのなら、わたしは「信じる」に賭ける。ひとまず風呂からあがったら父とゆっくり話をしよう。

 バスタオルで身体を拭いていると、リビングから話し声が聞こえてきた。父の声だ。誰かと電話でもしているのだろうか。わたしは急いで着替え、髪を半渇きにしたままリビングに向かった。

 父は誰とも電話をしていなかった。ソファに座り目を瞑って独り言のように何かをぶつぶつ呟いている。テレビがついてなかったので、静寂の中、声はやけに大きく響き渡る。


  ——イザヴェラ、今日は何をしてたの?

  ——そうなんだ、良かったね。

  ——元気でやってるようで良かった。


 眼鏡を外した父は、ひたすら天井に話しかけている。

「お父さん?」

 呼びかけたが反応がない。ただ何かにとり憑かれたかのように必死に口を動かしている。

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