4 孤独を知る命たち

 演奏が終わった後、拓海の誘いでわたしたちはファミレスに赴いた。時間が時間というだけあって、店内は人で溢れかえっており、ガヤガヤとした喧噪があちらこちらから聴こえてくる。落ち着く場所とは言い難かったが、ゆっくりと話をするにはちょうど良い空間だった。無言でメニューをまじまじと眺める二人。少しお腹が空いてきたわたしはハンバーグのライスセットを注文した。

 拓海は「おれも同じのでいいや」と言って呼出しボタンを押す。すぐさまウェイトレスがやってくると、わたしは「これ二つでお願いします」と言ってメニューを指差す。ウェイトレスが頷いて背を向けると、再び会話が始まった。

「じゃ、改めて自己紹介を。おれは弥生台に住んでるよ。ノヴァは?」

「桜木町」

「えっ超金持ちじゃん!」

 拓海の大声に周囲の視線が集まってきた。ちょっと気まずそうに拓海は小声で続ける。

「羨ましいなあ。おれは青森の田舎から出てきたんだよ。音楽で食べていきたいと思って。ただ音大は無理だった。人生簡単にはいかないね。でもさっきの場所で定期的に演奏するようになってからは知り合いも少しずつ増えてきた。でも正直言ってノヴァに会えたのが一番嬉しい。なんかフィーリングが合うっていうか」

「わたしも嬉しいよ」

 二人の談笑は続いた。聞くところによると、拓海は今時珍しいアナログ人間でスマートフォンの類を持っていないらしい。そこから話はますます弾んでいった。今まではわたしの話が中心だったが、謎に包まれた成瀬拓海という人間が浮き彫りになったことが新たな収穫だった。彼は二十歳でわたしの一個下。地元の高校を卒業した後、ミュージシャンになる夢を見て弥生台で一人暮らしを始めたらしい。金銭面では親からの仕送りでまかなっているので問題ないそうだ。東京に住まずに横浜を選んだのは、みなとみらいが一番のお気に入りの街だそうで、ギターの演奏はできるし、海も眺め放題ということで一石二鳥だという。

 わたしはあえてレヴィアタンの話はこれ以上持ち出さなかった。不可思議な存在の話を引っ張るのは、時として相手を疲れさせてしまうのではないかと危惧したからだ。


 注文した料理が運ばれてきた。拓海は、待ってましたと言わんばかりの勢いでハンバーグを口にほうばってゆく。一方わたしは緊張した面持ちで咀嚼してゆく。拓海は口に食べ物を入れながらどんどん喋る。その大半は、取るに足らない内容であって、わたしは無言で頷くだけだった。二人の皿が空になった頃、紙ナプキンで口元を拭うわたしに、拓海は唐突な質問をぶつけてきた。

「神様って信じる?」

 わたしは多少戸惑った。少し間を空けてから、

「うん、どちらかと言えば信じてるよ」

 と答えた。

、か」拓海は真剣な眼差しでわたしを見つめながら言った。「でもレヴィアタンっていう存在は完全に信じてるんだろう?」

 完全に、という言葉が少し引っ掛かった。彼はわたしのことを試してるのだろうか?

「うーん、完全にって言われると少し困っちゃう。だって現実で見たことのない存在だもん。でも信じたいし、いたらいいなって思ってるよ。だって考えてもみてよ。海の底ってまだまだ解明されていないし、どんな不思議な生き物が潜んでるか分からないわけだし」

「ロマンチストなんだね、ノヴァって」

「そうかな?」

「いい意味でね」

「ありがとう」

 拓海は優しい言葉を使う人間だ。相性がいいのだろうか。一緒にいてあまり疲れないし、必要以上に気を遣うこともない。

「訊きづらいことがあるんだけどさ」突然、拓海が口を開いた。「ノヴァのお母さんのことなんだけど」

 ドキッとしたわたしは、「なに?」と呟くように訊く。

「お母さん、海で溺れて亡くなったって言ってたじゃん。それって確かなことなの?   ちゃんとした証拠はあるの?」

 沈黙が訪れた。答えは分からない、の一言なのに、そんなことなかなか言い出すことができない。わたしは両手で頭を抱えて俯いた。

「なんだか急に頭が痛くなってきちゃった…… 」

「ごめんね、変なこと訊いちゃって」

 ごめんね、ごめんね、その言葉が何度も耳元で木霊したとき、今日はもう潮時だなと悟った。


 わたしたちはみなとみらい駅まで歩いた。別れ際、拓海は申し訳なさそうな表情で頭を下げた。

「気にしないでいいよ」

 呟くように言ってから、彼の乗る電車の改札前で手を振った。次に会う約束を交わすことなく、心にしこりを残したままで。わたしはぎこちない足取りで歩いてゆく拓海の背中を見つめながらこれからどうしようか、と考え始めた。

 そうだ、海に行こう。まだ昼過ぎだし、父が帰宅するまで時間はたっぷりある。また、海と話すのだ。父よりも、拓海よりも、柚原よりも、一番孤独を埋めてくれるのはあのだだっ広い海なのだ。わたしは軽快な足取りで、昨日訪れた海岸へと急いだ。歩く途中、ペンダントが一緒に喜んでくれるかのように胸の辺りで揺れていた。

 人気の多い海岸沿いを歩いていると、一人の中年男性に声を掛けられた。

「ねえ、デートしない?」

「いえ、急いでるのでいいです」

「ちぇっ」

 男は舌打ちをし、その場を去っていった。こんな形で誘われても嬉しくもなんともない。

 わたしの興味の対象はそんなところにないのだ。

 気を取り直して歩いてゆくと、昨日とは違った、晴れ渡った空が目の前の海を輝かせていた。眩しかったので薄目で遠くを眺めると、小さな船が彷徨の旅を続けていた。船を運ぶ海水は、決して波を起こすことなく静寂を纏って佇んでいる。

 天気も良く、昼過ぎという条件からか、辺りには数名の人々が見受けられた。昨日のような行動を取るには少し難しいだろう。わたしは海岸沿いの柵にもたれかかって目を閉じる。視覚だけで捉えられないものを感じ取ろうと思ってのことだ。最初はあらゆる音が耳に木霊した。船の汽笛、風、鳥たち、人々の話し声。自分が無になったかのように意識を内に傾けると未知なる領域に入ることができた。自らの内部に広がる小さな海を見つけたのだ。誰かに瞑想の仕方を教わったこともないのに、自然と入れた新たな領域。その領域こそがわたしの好きな海だった。外に広がる大きな海と、内に広がる小さな海は、恋人たちのように愛し合い、無条件に互いを必要としていた。長く目を閉じていると、今まで頼っていた視覚というものが不必要に感じられた。もちろんこの気持ちは今だけかもしれない。ただ確かに繋がっていたのだ。わたしという名のちっぽけな自我と、全てを司る宇宙のような海が。


 ——お母さん……


 一瞬、心の声が漏れた。そして思い出す。わたしが浮かんでいた母の胎内を。人は母親の胎内にいるときは決して孤独ではない。母子共にしっかりと繋がっているからだ。羊水という名の海をぷかぷかと泳いでいつか独りになる日をそっと待ちわびる。やがて産道を通って生まれてきた命は、はじめて孤独を知る。どんな命だってきっとそうだろう。

 わたしが人一倍、海を愛する理由は母への愛なのかもしれない。どうしようもない孤独感によって泣きじゃくったあの誕生の瞬間から、わたしは小さな海——母の胎内から追放され、一人になったのだ。戻りたい、あの場所へ。できることなら帰りたい。

 考えすぎて頭が痛くなってきた。わたしはそっと目を開ける。目の前には相変わらず孤高の海が広がっていた。そういえば拓海は言っていた。母は本当に海で溺れて亡くなったのか、と。確かにあまり詳しい内容は聞かされずに育ったが、いくら事故とはいえ海は悪戯に人を呑み込み命を奪うだろうか。幼稚な考えだなんて分かっている。しかし、そうであってほしくないのだ。わたしの愛する海が母を死に導いたなんて考えたくないのだ。少しばかり心が暗くなってきた。澄み切った空はどこまでも明るく輝いているというのに。


「こんにちは」

 しゃがれた声に振り返ると、そこには老人が立っていた。見たところ八十歳くらいのその男性は柔和な笑顔でわたしの瞳を覗き込んでいる。わたしは「こんにちは」とオウム返しのように挨拶を返す。さすがにナンパではないだろうと思ったわたしは言葉を続けた。

「海が綺麗ですね」

「うん。今日は特に天気もいい。ところでお嬢さん、さっきからずっと柵にもたれかかったまま何を考えていたのかな?」

 その問いにわたしは困った。何を考えていたのかなんて簡単には説明できない。ある種の哲学ごっこをしていた、とでも答えればいいのだろうか。

 老人は臙脂えんじ色のジャージに身を包んでいた。その身なりから判断するに、ただの通行人だろう、と考えたがどうも違った。どことなく雰囲気が神々しいのである。わたしは海に視線を戻しこう言った。

「人間と海の関係性について考えてました。わたし海が大好きで、いつもここに来てはこうやってボーっと考え事をしちゃうんです」

「そうなんだ。若いのに大したもんだ」

 老人は丸眼鏡を押し上げながら言った。

「そうですか? ちなみにあなたは?」

「わたしは石川町にあるカトリック教会の信者だよ」

「カトリック――ですか」

 脳裏に一冊の本がよぎった。聖書である。もしかしたらこの老人がクリスチャンだったらレヴィアタンについて何か知っているかもしれない。暗い洞窟の中を彷徨っていたわたしに一筋の光が差し込んだ。





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