3 アルハンブラの思い出
その日の晩、帰宅した父に体験した不思議な出来事を全て話した。最初父は驚いた顔をしたが、それ以上に心配そうな表情でわたしのことを見つめてきた。まるで話にならなかったのである。予想通りの結果ではあったが、わたしは昨晩見た聖書について言及することにした。
「実は昨日お父さんの聖書読んじゃったの。付箋を貼ってあって線まで引いてたでしょ? 竜だのレビヤタンがどうのこうのってとこ。何で? それにわたし本当に海の声を聴いたんだよ。声かどうか分からないけど何か不思議な音だった」
まくしたてるわたしを他所に父は無言を貫いていた。
「お父さん、なんか言ってよ!」
父は深い溜め息をつき重たそうに口を開いた。
「ノヴァ、明日病院行こう。多分お前は心の病にかかってるんだよ」
「違うんだってば」
わたしは肩を震わせていた。唯一の理解者だと思っていた父に全身全霊で伝えようとしたのに信じてもらえない悲しみ。わたしの瞳からは一筋の涙が伝っていた。
父は無言でティッシュを渡してくる。わたしはそれを受け取らずに、
「じゃあ訊くけど昨日の夜どうして慌てて聖書を書斎に持っていったの? そのうえ鍵まで掛けたのはなんで?お父さんこそ変だったよ。何か隠してるでしょ?」
「それは単に宗教なんかの本を見せてノヴァに悪影響が出るのを怖れただけだよ」父は声のトーンを落とす。「これ以上話すのはお互いに良くない。今日のところはもう寝よう」
わたしは口を塞がれたかのように押し黙り、二階に駆け上がっていって部屋のドアを閉め、崩れるようにベッドに倒れ込んだ。
今まで父とこのような形でぶつかった経験は皆無に等しかった。それだけに感じたショックは大きかった。人一倍純粋で好奇心旺盛とは昔からよく言われてはきたが、今日の出来事は幻でも何でもなかった。何しろ全細胞が物語っている——あの音は紛れもなく海の声だったということを。父以外に何でも話せる相手がいれば話は別だったが、あいにくわたしには親友と呼べる存在がいなかった。柚原とはいくら仲が良いとはいっても、本の話しかしない同僚止まりだ。
と、そのときわたしはある人物を思い出した。突発的に成瀬拓海という男の顔が浮かんできたのだ。彼なら話を聞いてくれるような気がした。
そろそろ寝ようかとワンピースを脱ぎ、パジャマに着替えている最中、胸元のアクアマリンが光った。わたしは眉間に皺を寄せて、ペンダントトップを見つめる。
「何なの、今日っていう日は……」独り言と共に、ある言葉が脳裏をよぎった。
何かが始まろうとしている、と。
翌朝、わたしは「メンタルクリニック行ってくるね」と父に嘘をついた。父は安堵した顔で「そっか気を付けてな」と言う。
バイト先には無理を言って休みを取った。とてもじゃないが今日は働く気になれない。朝食はスクランブルエッグとブラックコーヒー。小食ならではのメニューだった。
父を見送った後、赴いた先は昨日と同じみなとみらいの海岸沿いだった。成瀬拓海は言っていた。朝から演奏を始める、と。ベンチに座って彼を待っていると遠くから人の影が見えてきた。
「早坂さーん」と大きな声がした。歩み寄ってきた彼は笑顔で手を振ってくる。「もう来てくれてたんだね。また会えて嬉しいな。ちょっと待っててね」と言いながら彼はベンチに腰を下ろし、茶色のギターケースを地面に置く。「もし良かったらおれのことは拓海って呼んでくれ。あと敬語使わないでいいよ。タメ口でオーケー」
「わかった」
わたしたちは少し間隔を空けてベンチに腰を下ろした。天候は決して快晴とはいえなかったが、いつもよりは暖かった。わたしがスマートフォンをいじっていると、横から拓海が茶化してくる。
「彼氏とLINE でもしてるの?」
「ううん、彼氏いないってば」
「やっぱ下の名前教えてくれない?」
わたしは渋々答えることにした。
「ノヴァ」
「ノヴァ? ずいぶん素敵な名前だね。もしかしてハーフとか?」
わたしは海の方へと視線を移す。
「うん、母がイギリス人だったの。わたしが幼い頃亡くなったけど」
「そうなんだ……なんか無理に聞いちゃってごめんね」と拓海が気まずそうな顔をする。「でもどおりで目鼻立ちがはっきりしてて綺麗だなって思った。じゃあノヴァって呼んでもいい?」
「うん、いいよ。ところで——」
このタイミングをきっかけにわたしは昨日の出来事を話した。最初は笑われるかと思ったが、拓海は真剣な表情で頷きながら聞いてくれた。
「なるほど。面白い話だね。レヴィアタン、レビヤタンね。どっちで言えばいいか分からないけど」
「とりあえずレヴィアタンでいいと思う。父が持っていた聖書に書いてあったの。……あ、わたしのこと変な子だと思ってるでしょ?」
「思ってないよ。凄く興味ある」拓海はわたしの目をまっすぐ見つめてきた。「一旦、ギターの演奏でも聴いて心を落ち着けようよ。聴いてくれる?」
わたしはほっと溜息をつき無言で頷いた。拓海はケースからギターを取り出し、調弦を始める。ポロン、ポロンと弦が弾かれる度に空気が軽やかに震えてゆく。
「じゃ、まずはアルハンブラの思い出という曲で」
はじめから悲しくて切ないメロディだった。聴いているだけで別世界に誘われていきそうになる。わたしはその繊細な音色に自分の人生を重ねた。何でもありそうで何にもないのこの世界。誰かが産声をあげた瞬間、他の誰かが床に臥せて泣いている。わたしたちが笑っていても世界は泣いているのかもしれない。そんなことを考えながら聴いていた。
途中から少し曲調が明るくなった。何だか救われた想いがした。しかしメロディは徐々に鬱蒼と茂る森林のような暗い雰囲気に戻ってゆく。演奏が終わったとき、拓海は嬉しそうな顔でこちらを見た。わたしは潤んだ瞳で拍手をする。
「泣いてるの?」
「うん、感動しちゃって」
「感受性豊かなんだね、ノヴァって」
なんだか恥ずかしくなってきた。人前で滅多に感情を曝け出せない人形のように育ってきたつもりが、音楽の力だけでここまで変化してしまうなんて。これ以上感情を見せるのは恥ずかしかった。喜怒哀楽という感情はどうして人に備わってるのだろう。
「さっきの話だけどさ」拓海が言った。「ノヴァのお父さんって今でも悲しんでるの?」
妙な質問だと思った。お母さんのことで?と訊き返すと拓海は気まずそうに頷いた。
「未練はあると思うの。母が亡くなったのは十八年も前のことだけど、未だにツーショットの写真を家の目立つところに飾ってるし。でもね、気になる点は海で溺れたってことしか聞かされてなくて詳しいことは何も教えてくれないの。いくらわたしが訊いてもね」
ついでにわたしは書斎に鍵が掛かっていた話をした。何かをひた隠しにしていると思われる父の言動についても。
「ノヴァのお父さんはクリスチャン?」
「ううん、違うよ」
風が強くなってきた。わたしはバッグの中から薄手のスカーフを取り出して首に巻きつけた。
「温まる曲を聴きたい? それとも話を続ける?」と拓海が尋ねる。
迷った。話ならいつでもできるけど、拓海の奏でる旬のメロディは今しか聴けないかもしれないからだ。時に芸術とは時間を忘却させてくれる魔法になる。わたしは明るい曲のメドレーが聴きたい、とリクエストした。すると彼はタイトルも何も言わずに黙って頷いて楽曲を奏で始める。
感動が再びこみあげてくる中、わたしは考え込んでいた。内容はやはり聖書のフレーズだった。父は言っていた。病院に行け、と。お前は心の病にかかっているのだ、と。言葉で言い表せないほど悔しかった。色んな病気がこの世界に存在することは分かっている。しかしそれは時折、医学者たちが勝手にカテゴライズして楽をする為の逃げ道ではないだろうか。この世には人類が解明しきれない不思議な現象が溢れかえっているはずだ。中には解明できない、もしくは解明することから逃げざるを得ないような現象も多々あるのではないだろうか。
今は隣で拓海が一生懸命、音楽を奏でている。誰かに想いを届ける為に。再び涙がこみあげてきた。明るい曲が流れているというのに、わたしの心は様々な思惑によって溶かされつつある。
「拓海くん……」
「ん? どした?」拓海は両手を懸命に動かしながら返事をする。
「やっぱわたしは信じていたい。レヴィアタンの存在を……」
「おれも」
「ほんとに? じゃ仲間だね」
「仲間だよ」
拓海の何気ない一言がとても嬉しかった。共感がここまで心を励ましてくれるなんて。
「家に帰ったら書斎の鍵を探してみる。もしかしたら会社に持っていってるかもしれないけど」
わたしは拓海というかけがえのない存在に知り合えたことに感謝した。演奏中に話しかけたりしても、しっかり聞いてくれる優しさに。
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