2 海の声

 アラーム音に起こされたわたしは、うーん、と伸びをしてからパジャマ姿のまま洗面所に向かった。父は既に出勤した様子。顔を洗っていると、ある言葉の羅列が脳裏を掠めた。それは昨晩見た聖書のフレーズだった。もしかしたら他の箇所にも線が引いてあるかもしれない、そう思ったわたしは、もう一度聖書を読みたい一心で書斎へと急いだ。

 家には誰もいないというのに試験前日のような緊張感がほどばしる。音を立てないように歩き、書斎のドアノブを慎重に回す。すると、ガチャ、という音が鳴りドアが開いたと思いきや鍵が掛かっていることに気が付いた。

 なんでわざわざ鍵を……。

 いつもは共同で使っていた書斎だったのに、親子二人で暮らすこの広い一軒家で、あえて施錠する理由があるとしたら一体何があるだろう?

 父は何かを隠している——直感がそう囁いた。きっとあの聖書には何か重要なことが書かれているに違いない。そう思ったわたしは急いでパソコンのある自室に向かった。

 二月から、わたしの通っている大学は長い春休みへと突入していた。その間、勉強したり、インターネットで暇つぶしをしたり、書店でのアルバイトに勤しんできた。部屋に戻り壁の時計に目をやると、アルバイトの時間まであと二時間。わたしはパソコンデスクに向かい、例の言葉をグーグルで検索してみる。

〈レビヤタン〉と入力すると幾つかヒットし、一番上に出てきたのが「レヴィアタン

 Wikipedia 」だった。綴りが微妙に違ったので確かめてみると〈レビヤタン〉は日本語慣用表記で〈レヴィアタン〉とはヘブライ語のようだ。

 胸の高鳴りを感じながら、一通り目で追ってみて気になった部分を声に出してみる。

「レヴィアタンは旧約聖書に登場する海中の聖獣。悪魔として見られることもある。その姿は伝統的には巨大なクジラや魚、ワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や竜などといった形でも描かれている。海、または水を司る者で外観も怪物とする。その一方で、一般的に想起されるような悪魔の外観を持つ場合もある。悪魔としてのレヴィアタンは、どんな悪魔祓いも通用しないとされている。特に女性にとりつこうとする。悪魔学では、自ら生まれた悪魔とされる」

 わたしは、一旦パソコンの画面から目を逸らしペンダントをいじり始める。どうやら昨晩はつけたまま眠ってしまったようだ。

 再び画面に向き合いマウスでスクロールしていると、今度は巨大な竜の絵が視界に飛び込んできた。荒れ狂うレヴィアタンと対峙している者は、見たところ神、或いは天使のような姿をしている。

 怖いもの見たさで蓋を開けた結果、ある想いが脳裏をよぎった。父のことである。なぜ父はこのレヴィアタンという存在に気を回したのだろうか。あれほど分厚い聖書の中、なぜあのページに着眼したのか。そして書斎の鍵まで……。

  あ、バイト行かなきゃ。

 わたしは急いで着替え、お気に入りの音楽を聴く為にイヤフォンをスマートフォンにセットする。そのまま何も食べずに小走りで家を飛び出した。


 バイト先は、みなとみらいにある比較的小さな書店だった。ランドマークタワーが道行く人々を見下ろす中、陽の光に照らされた海が煌びやかに輝いている。

 始業時間まであと四十分ほどあったので、わたしは海に立ち寄ることにした。遠方から船の汽笛が聴こえてくる。何か別な音が混じっていることに気付いたので周囲を見渡してみると、海沿いのベンチに腰を掛けた若い男がギターを弾いているのが分かった。

 流れてくるのはどこかで聴いたことのあるメロディ。引き寄せられるようにわたしはその男の傍に近付いていった。男は俯いているので顔まではよく見えない。服装は紺色のタートルネックのセーターに紺のジーパンと、いたってラフなものだった。

 他に演奏を聴いている者はいなかったので、どうしようかと迷いつつ、少し離れた場所にて棒立ちになる。男はわたしに全く気付かない様子で一生懸命ギターに向き合っている。

 聴いていると心の奥に雪が降り積もってくるようだった。最後のストロークで音は途切れ、周囲は静寂に包まれる。男はこっちをちらりと見た。ようやく見えたその顔立ちはとても端正で若々しく、わたしと同世代くらいに見受けられた。

「聴いてくれてありがとう」

「素敵な演奏でしたよ」

「それは嬉しいな。きみは?」

「この近くでバイトしてる者です。さっきの何ていう曲なんですか?」

「ブランテルの子守歌。クラシックではわりと有名な曲だよ。時々ここで演奏してるんだ。おれの名前は成瀬拓海なるせたくみ。よかったらきみの名前も教えてよ」

 わたしは一瞬躊躇った。初対面の得体の知れないこの男に本名を教えていいものだろうか、と。

「別にナンパしようとしてるわけじゃないから安心して。自分の演奏を聴いてくれた人とはできるだけ友達になりたいと思ってるだけだから」続けざまに拓海が言う。

「早坂、です」

「下の名前は?」

 なんだ、結局ナンパじゃないか、そう思った。どちらにしてもわたしはいつもこのタイミングでブレーキを掛ける。過去の経験上、ハーフと知られるといつも根掘り葉掘り訊かれて面倒な展開になるからだ。

「すみません。下の名前は内緒ってことでもいいですか」

「うん、いいよ。じゃあ早坂さんって呼ぶね」

 男は微笑んで右手を差し出してきた。わたしはジャケットのポケットから右手を抜いて握手を交わす。

「よろしくね」

「よろしくお願いします」

 ふと腕時計に目をやるといつの間にか時間が経過していることが分かった。

「あ! そろそろバイトに行かなきゃ!」

「がんばってね。明日は朝九時から演奏する予定だよ。よかったらぜひ!」

 わたしは手を振ってその場を後にした。早足で歩く途中、潮の香りが鼻孔をくすぐった。

 

  ♰


「お疲れさまでした」

「早坂さん、お疲れさまです」

 終業時刻、挨拶を交わしたのは同僚の柚原千雪ゆはらちゆきだった。彼女はわたしと同じく無類の本好きで、比較的話の合う相手だ。お互いに小説をよく読むので話題に困ることは滅多になかった。最初は読むジャンルが多少違っていたのだが、お互いに勧め合うことで段々と趣向が似通っていった。ただ、訊きづらいことがあった。ずっと心に引っ掛かっていた聖書についてである。いくら同じ本好きだとしても、宗教関連ということでやや躊躇われる内容だった。

「柚原さん、ちょっと本読んでいってもいいですか?」

「いいですけど、長く立ち読みとかしてお客様に迷惑にならないようにしてくださいね」

「わかりました」

 数人の客の間をくぐり抜け、わたしは宗教学のコーナーへと足を運んだ。本棚には様々な宗教書が異彩の雰囲気を放ちながら並んでいる。周囲には柚原が心配するほど、客はほとんど見受けられない。

 レヴィアタンについての本はあるかな……?

 好奇心に満ちた瞳に様々な背表紙が通りすぎてゆく。

 一通り目で追ったが〈レヴィアタン〉或いは〈レビヤタン〉という単語を含む本はなかった。一旦諦めて、ずらりと並んだ数冊もの聖書を目で追いかけていると、分厚くて黒い背表紙のものを発見した。それは父が持っていた聖書に限りなく酷似していた。わたしは慎重に聖書を取り出し、軽く深呼吸してからページを捲り始める。しかしどこに例の記述があるのか分からない。

 索引で〈イザヤ書〉と引いても膨大なページ数に圧倒され、本の中で迷子になってしまう。長丁場になりそうだったので今日は一旦諦め帰宅することにした。


 外に出ると、潮風がまるで慰めてくれるかのように身体に寄り添ってきた。いつも自然には癒され励まされる。特に悩みを抱えたときの心にとって、自然は泣きたくなるほど優しいものであるということを片時も忘れたことがない。

 潮風に誘われて、わたしはもう一度海が見たくなり進路を変更することにした。停まったままの巨大な船の傍を歩いていると急に心がざわめき出したのだ。

 高鳴る心臓の音。躍動する細胞。昇ったばかりの月を映し出す海面を眺めていると、まるでそれが自分の命のように感じられた。

 この中にレヴィアタンは棲んでいるのかな……。

 そんなことを考えていると畏怖の念と好奇心が交錯してくる。

 人間は遥か遠い宇宙の果てまで探求したが、自分たちの棲む地球の海については知らないことばかりである。だからこそわたしは海という名の未知なる領域に入っていけるよう願っていた。

 海岸沿いを歩いていると人気ひとけのない場所に辿り着いた。出来心が手伝ったのか、わたしは海水の中に右手を入れてみようと思い立った。左手は無意識にペンダントに触れている。だからと言って何か不思議な現象が起きるわけではなかった。ただ自分の魂を海とひとつに同化させたい、という願望を抑えきれなかったのだ。まだ寒い季節というだけあって段々右手が悴んでしまいそうになる。

 そのときだった。突然心の内側に地鳴りのような低い音が響いてきたのだ。驚いて周囲を見渡すが、人の気配は全くない。恐ろしくなったと同時に好奇心が産声をあげた。瞳を閉ざし心の声を海に届けるよう試みたが何も起こらなかった。しかし海水から右手を抜こうとしたその瞬間、再びさっきの音が聴こえてきた。


 ボーン……ボーン……


 二回鳴って音は途切れた。汽笛の音ではない。確かに心の内側に響いてきたのである。何かの合図だろうか。それとも海そのものが何かしらのメッセージの伝達を試みてきたのだろうか。気付けばペンダントに触れている左手が小刻みに震えていた。



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