二つの海
松本玲佳
1 イザヤ書
水族館で見る魚の群れは、いつものように幻想的で、四角い箱の中を何食わぬ顔で泳ぎ続けている。水槽を軽く叩くと彼らはそれを知っていたかのように突然向きを変え、再び彷徨の旅に出るのだった。そこが海だと信じているように、儚げに——
そろそろ行くよ、と父の声が聞こえてくると、わたしは名残惜しくもその場を後にした。振り向きざまにバイバイ、と手を振ると、一際目立っていた
今日は日曜というだけあって、八景島シーパラダイスはひとで溢れかえっていた。八景島駅は延長約一キロメートルの海の公園に位置し、駅前から海に行くにはとても近かった。海が近いのに、あえて水族館を選ぶ理由を道行く誰かに尋ねたところで、その答えはとても簡素なものとなるだろう。要は動物園と同じである。保護された生き物たちは、人々のせわしない日常を癒し、忘却させ、甘美なものへと変える立派な役割を与えられる。
何が待ち受けているか分からない未来と、忘れたい記憶を内包する過去は、いつだって人々の心を脅かし続けている。そんなときに、限りなく海に近い楽園を見せられたら、心は
微かに父の声がする。どこからともなく風に紛れ込むように。
「どうしたんだ、ノヴァ。さっきからボーッとしちゃって」
「ごめんごめん。考え事してた」
ふと周囲を見渡すと景色が薄紅色に染まっていた。
「もういい時間だし、お父さん明日早いから今日のところはもう帰ろう。ノヴァも昼からバイトだろ?」
「うん。それに少し冷えてきたもんね。今日はわざわざ連れてきてくれてありがとね」
不自然な角度から父の黒縁眼鏡に日光が反射する。それが堪らなく可笑しくてくすくすと笑ってしまう。
「なに笑ってんだ。よし、帰ろう」
わたしはふたつ返事で立ち上がり、駅に向かう人の群れについてゆく。足元が覚束ないのはいつもより高いヒールを履いてきたからだった。足の指がじんわりと悲鳴をあげている。履き慣れない靴は、初対面で会う人間を相手にするかのように慣れるまで時間がかかって仕方がない。
ここから桜木町にある自宅まで電車で三十分ほどかかる。わたしたちは金沢八景駅まで歩き、ちょうど良く到着した電車に乗り込んだ。
夕方とはいえ、窓から見える海はとても綺麗だった。ただこんなときどうしても思い出してしまうことがある。それは母の死——すなわち海で起きた事故であった。母は溺れて命を落としたという。もちろん直接、現場に立ち会ったわけではないのだが、聞かされてきた話の内容に多大なる影響を与えられてきたのは間違いなかった。兄弟がいれば少しは寂しさも紛れたかもしれないのだが、あいにく一人っ子だったわたしには孤独という名の敵がいつもついて回った。
おまけに父はいつも仕事で忙しく、更に学校でもなかなか友達ができなかったのが致命傷となった。別段いじめられていたわけではない。ただ、いつも感じていたのは、遠慮されているような、遠ざけられているような、そんなぎこちない感覚である。友達はできなかったが、男子にはいつもモテていた。高校では何人にも告白されたことがある。しかし、それが女子の間では気に喰わなかったらしく、避けられている感覚をあからさまに感じていた。男子にも「ごめんなさい」が常となり、孤独感はますます募る一方だった。そんなわたしの心を癒してくれる存在、それが唯一の家族である父だった。
「そろそろ上大岡に着くよ、乗り換えよう」父が唐突に肩を叩いてくる。
「うん」
「今日は何だか変だぞ。疲れたの?」
「なんか色々思い出しちゃって。ところで今何時?」
「六時半。今日は色々食べたから夕飯は簡単なもので済ませよう」
車内アナウンスが流れてきた。上大岡だ。ここから横浜市営ブルーラインに乗り換えて少し揺られれば自宅のある桜木町に到着する。親子二人はちょうどよく訪れた電車に飛び乗ってほっと肩を撫で下ろす。確かに今日のわたしは楽しんでいたのか、そうでもなかったのか、傍目から見てもよく分からない状態だったかもしれない。記憶の旅に出ていた、と言えば恰好はつくかもしれないが、今日はこうして現実の旅に出ているのだ。もっと楽しそうな素振りを見せなければ、せっかく連れてきてくれた父に申し分が立たない。会話が途切れている間、わたしはアクアマリンのペンダントをいじっていた。お気に入りのこのペンダントは亡き母の形見である。アクアマリンとはラテン語で〈海水〉を意味するのだが、海を愛し、海に惹かれ、海に抱かれたいと願うわたしにとって、この形見は片時も手離せない大切な宝物だった。更にアクアマリンには伝説がある。海の神ポセイドンの怒りを鎮め、航海する人々の安全を祈るのに用いられたのである。
吊り革を握り締めているといつの間にか桜木町に到着していた。改札口を出ると、街全体が銀色に輝いていた。視界には楽しそうに歩くカップルや、そそくさと急ぐスーツ姿の男が飛び込んでくる。それぞれの人生は知らないうちに目隠しをされたまま、通り過ぎてゆく。
父の背中を追っていくと、ようやく自宅が見えてきた。朱色の瓦で覆われた屋根と白を基調とした壁面は、薄暗い空の下でもはっきりと認識できるほど目立っている。
玄関に着くや否や、ブーツを脱ぐと予想通り足の小指にマメができていた。
「そういや途中で軽く食べるものでも買ってくればよかったな。冷蔵庫がすっからかんだ」
一足早くリビングに入っていった父の声が聞こえてくる。
「そうだっけ? 昨日作ったシチューがあるはずだけど」
「ごめん。昨日小腹が空いちゃったもんで夜食にしちゃったよ」
「あーあ」
「いいや、おれ今からコンビニで何か買ってくるよ。ノヴァは何がいい?」
「ありがと。じゃあツナのサンドイッチとペットボトルの紅茶をお願い。わたしは明日の分のご飯炊いておくね」
「了解」
玄関が閉じる音がした。わたしは軽く洗い物をし、米を研いでから炊飯器に入れてボタンを押す。テレビでも見ようかな、と思い、テーブルの上のリモコンを取ろうとすると、隅の方に見慣れない一冊の本が佇んでいることに気付いた。手に取って見ると、革製のカバーの背表紙に〈聖書〉と金箔の文字が刻まれている。
お父さん聖書なんか持ってたっけ?
好奇心をくすぐられたわたしはページを捲ってみる。すると付箋が貼られている箇所を発見した。すぐさまそこを開くと上部に〈イザヤ書〉と記されている。更に目を凝らすと鉛筆で線が引かれている箇所があった。
その日、主は、厳しく、大きく
強い剣をもって
逃げる蛇レビヤタン
曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し
また海にいる竜を殺される
レビヤタン?
聞き慣れない言葉だった。なぜクリスチャンでもない父が聖書を持ち、更にこのページに付箋を貼り線まで引いたのかが謎だった。同時に気になったのは「海にいる竜」という箇所。わたしはキリスト教には詳しくなかったが、珍しい生物、神話、神々、幻獣などには昔から強く惹かれてきた。特に「海」という何気ないフレーズが入っていると好奇心は最高潮まで達するのが常であった。
「ただいまー」
玄関から父の声がした。わたしは慌てて聖書を閉じて元の位置に戻し、わざとらしく「おかえり!」と声を張り上げた。「もう帰ってきたの? めっちゃ早かったね」
「腹減ってたから走ってきた。あ、そこに聖書置いたままだったな。最近取引先でクリスチャンの方と知り合いになってね。前からちょっと興味あったから読んでみたくなっちゃって、つい買っちゃったんだよね。ノヴァ先に食べてて。ちょっと聖書をしまってくる」
父はコンビニの袋をテーブルの上に置き、聖書を片手に二階に上がっていった。何となく父の様子がおかしいと思った。何かを隠しているような、そんな雰囲気だった。別にわざわざ二階に持っていかなくたっていいのではないだろうか。様子からしても挙動不審である。
気を取り直して袋からサンドイッチと紅茶を取り出し、ほうばっていると、テレビ台の上の一枚の写真と目が合った。イギリスの港を背景に父と母が並んで写っている写真だった。これを見る度にいつも複雑な気分になる。どこにいってもついて回る悲しい過去。この写真だけは目の届く場所に置いておきたい、という父の気持ちは汲んでいるつもりだ。
結局その日は二階から戻ってきた父と談笑しながら食事を終え、風呂に入ってから寝床についた。
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