1章

一節 幕開

 突然、空が揺らめいた。美しいその光景は、それでもその世界の人々の心を動かすのには足らなかった。

 シュラもその中の一人だった。ああ、またか、と心のうちで思い、また可笑しな物が降ってくるな、と呟いた。


 同じとき、クヤも空を見上げていた。揺らめいた空をみて、僅かに身を固くした。前に空が揺らめいたときは、とんでもなく重い板が降ってきた。幸い怪我人は出なかったものの、空が揺らめく度に不思議なものが降ってくる。その上、時折その瓦礫にまきこまれて『天海魚』も落ちてくることがある。今回も、その類いだった。それも、普通より多い。こういうことは数年に一度はあることだ。さして慌てもせず、瓦礫に巻き込まれた者が居ないか確かめるため、クヤは槍を手に森へ入った。


 けれど、そのときはいつもと違った。一瞬、空が翡翠色に輝いた。そこから、まるで産み落とされるように三つの水滴が落ちた。

 その時シュラに走ったのは、彼女の、年相応の好奇心だった。彼女は、隣で目を丸くしていた弟にその場を任せ、走り出す。後ろから、弟の困惑した声が聞こえてきた。



 水に叩きつけられた衝撃で、海斗のまどろんでいた意識が一瞬で戻る。息をしようと開けた口には水が大量に流れ込み、酸素を取り込もうとする生理的な運動は、あっけないほど簡単に阻害された。その時感じたのは、あの、波に飲まれる恐怖。慌てて手足を動かそうとするが、恐怖からなのか、上手く動かない。必死に足掻いているうちに、水が喉の奥まで流れ込んできたのを感じた。少しずつ意識が遠くなって行く。水をかく腕にも力が入らず、やがて、動かせなくなった。


 ばしゃり、と水面が揺れ、なにかが飛び込んできた。そのなにかは、海斗の首の襟を咥え、陸の上へ引き上げる。

 酸素を求める体が大きく息を吸わせ、その反動でひどく咳き込む。体のなかに入った水をあらかた吐き出し終わり、少しずつ息を整えた。


「大丈夫?」


 少女の声が聞こえた。海斗はハッとして自分を助けてくれたであろう人物に礼を言おうと顔を上げた。


「あ......」


 喉元まで出かかった言葉は、少女の姿を目にして見事に腹の中まで引っ込んでしまった。

 その少女、いや、少女かどうかも怪しい『それ』は、赤毛の狼だった。海斗が今までに見たことがないような鮮やかなその毛皮を持つその獣は、驚いて声が出せない彼に笑いかけるように目を細めた。そして、


「危なかった〜!あとちょっと遅かったら手遅れになっちゃうとこだった!」


 あろうことか、喋り出した。海斗の喉の奥でヒッと声にならない悲鳴が出る。頭はまだぼんやりしている。ただ、それは海斗から状況判断力と冷静さを失わせた。


「うぅぅうううわあああぁあぁぁあ!」

「え!?ちょっと!」


 体の中の空気を全て押し出すように海斗は叫んだ。そして、抜けそうな腰で必死にその赤毛の狼から離れようと這いずる。後ろで焦った声が聞こえるがそれを無視してなんとか体を起こした。

 が、先程まで水の中でもがいていた体は、海斗が思っていたよりも疲れていたらしい。数歩足を踏み出した所で、そのまま倒れてしまった。


「大丈夫かい?ああ、もう、落ち着きなって!」


 慌てて身を起こそうとした海斗を馬乗りになるようにして狼が押さえつける。


「いい?ゆっくり息をして。…そう。大丈夫、あたしはあんたに怪我させないから」


 静かに、落ち着かせるように言われて、海斗は少しずつ冷静さを取り戻した。


「あのね、あんた、思ってるより体に負担が掛かってるよ。急に動いちゃ、もっと動けなくなっちゃう」


 ゆっくりと、諭すように狼は言う。そこまで来て、海斗はやっと狼に敵意が無いことを理解した。


「どう?落ち着いた?」

「う、うん。……あ……ありがと……」

「よし!」


 すっと背に掛かった重みが退き、海斗はゆっくりと体を起こす。そして、振り返った。美しい毛並みをしたその狼は、興味深そうに海斗の鼻先まで顔を近付けた。良く見ると、首の辺りに牙のついた首輪をつけている。見渡すと、さっき海斗が落ちたのは、広い滝壺で、周りには木々が広がっていた。


「人獣見て慌てるなんて、あんた、大分変わってんだね」

「へ?に、にんじゅう?」


 ぽかんと口を開けて狼の言葉を繰り返す。狼は目をぱちくりとさせてこてん、と首を傾げた。


「人獣。見たことないのかい?」


 海斗がこくりと頷くと、狼の目が更に丸くなる。

 そして、前足を海斗の眼前まで持ち上げた。

 海斗はハッとした。いや、ゾクリとした、と言う方が正しいかもしれない。それは、少なくとも、海斗の見たことのある狼に近い動物はそうではなかった。だからこそ、そのアンバランスさに気がついた。


「指が、五本...…」

「そ」


 だから大丈夫!という顔をして、(この狼、妙に表情が豊かなのだ)狼は見つめてくる。が、海斗は意図を掴みきれず、きょとんとした。


「……悪い、あの、」

「……あんた、何もんだい?」


 狼の目に厳しい色が浮かぶ。


「あんた、波璃の都のモンかい?」

「は?」


 聞き慣れない名前に海斗はまたぽかんとした。先程からわからない事だらけなのだ。必死になって狼の言葉を汲もうとはしているが、どうしても話について行けない。


「『はりの都』って、どこ?」


 つい、疑問が口を突いて出た。

 初めて、狼の目が動揺したように瞬いた。


「あんた、どこから来たんだい?」

「えっと、」


 どう答えるべきか迷い、そういえば、落ちる感覚がしたと思い、空を見上げた。そして、そこに広がる光景に目を丸くした。まるで水の中から水面を見上げたように空がゆらめいていた。時折、『何か』の魚影が薄い影を作ってその、空の海の中を横切る。その様は、言葉が出なくなるほど海斗の目を引きつけた。

 ポカンと空を見上げる海斗を狼は不思議そうに眺めた。空から落ちたものを追いかけて、落ちたと思われる場所に彼がいた。まるで、かつて聞いた昔話のように。


「あんた、落ち人かい?」

「……え?」


 さっきから、この狼は色々と唐突だ。海斗は頭の整理ができないまま、また一つ頭の上に疑問符を浮かべることになった。

 そこまできて、狼はようやく、海斗の頭がパンクしそうになっていることに気がついた。ううん、とうなり、器用に前足で腕を組む。


「えっとね、あんた、あそこから来たの?」


 そう言って、これまた器用に頭上を指差して見せた。その光景に吹き出しそうになりながらも海斗は頷く。その答えに、狼は目を丸くして、ぽかんと海斗を眺めた。


「えっと、そんなに、珍しいのか?」

「あ、当たり前だよ。ほ、本当に?からかってないよね?」

「あ、えっと、うん」


 海斗が再度頷くと、狼はなんともいえない目で彼を眺めた。そして、思案するように俯く。暫くそのまま、考え込んでいるようだった。


「な、なあ、」


 沈黙に耐えかね、海斗が口を開いたそのときだった。一瞬、辺りが暗くなった。不思議に思って見上げると、水面のように揺らぐ空、幾重にも重なる光の中に、大きな鳥の姿が見えた。


「まずい、鷹族だ!」


 隣で狼が叫ぶ。そして海斗の服を咥え、近くの茂みに引き摺り込んだ。そして海斗の横に『伏せ』の体勢になる。


「乗って!」

「え?は?」

「いいから、早く!」


 狼に急かされ、海斗は訳がわからないまま狼の背にしがみつく。


「振り落とされないでね!」

「はい?!」


 不穏なことを言うか早いか、狼は海斗を乗せて立ち上がり、全速力で駆け出した。それはもう、とんでもないスピードだった。ベルトをせずにジェットコースターに乗っているようなものだった。しかも上下左右に揺れるものだから、海斗は振り落とされないように必死で狼の背にしがみついていた。


 暫く走ると、突然目の前が開けた。二つの崖に挟まれて、小さな川が流れている場所があった。狼と海斗は片側の崖に出る。そこから、向こう側の崖が見えた。ふと、海斗の頭を嫌な予感が走った。そして、それを打ち消す間も無く、狼がスピードを出して崖のギリギリで踏み切った。


「ひっ」


 口は悲鳴を上げようとしたが、喉がそれを許さなかった。生まれて初めて、海斗は声にならない悲鳴を発した。

 狼が反対側の崖に着地した衝撃で海斗は放り出される。狼は油断なく空を見上げ、ヴゥゥ……と唸った。


「しつこいねえ」


 いつの間にか、空に浮かぶ影が二つになっていた。


「ねえ、あんた」


 海斗に向き直り、狼はその顔を覗き込む。


「ここから真っ直ぐ、林を突っ切れば、人間の村がある。そこにいるクヤって人なら、色々助けてくれる。シュラに会ったって言って、事情を話して」


 早口で捲し立てられ、海斗は目を白黒させる。さっきから展開が早すぎて何が何だか分からないのだ。ただ、空を飛んでいるのは鷹で、どうやらそれに見つかるとやばいらしい、ということは分かった。


「ほら、早く!」


 狼に急かされるまま、海斗は立ち上がり、走り出した。と、振り返る。


「な、なあ!」


 向こうの崖に戻ろうとした狼の耳がピクリ、と揺れる。


「お前、名前、何だ?」


 何も言わず、狼は向こうの崖に飛び移る。そして、海斗のほうをみて、「シュラ」と叫び、颯爽と茂みの中に消えた。



 林だと思っていたものは、なだらかな山だったらしい。半分滑り落ちながら、海斗は方角を見失わないように慎重に歩いていた。と、頭上からバキバキバキバキと木の枝が折れる音が響き、見上げると、海斗に向かって真っ直ぐに人の背丈ほどもある大きな鷹が降りてきた。

 慌てて避けるが、落ち葉を踏んで転んでしまう。だが、すぐさま立ち上がり、木々の間をすり抜けるように走った。ーー走ろうとした。


 ぐん、と体が前にゆく感覚がする。素早く足を出し、そのままスピードに任せて進む。周りの景色が、ものすごい早さで流れ出した。海斗が制御できるものではない程に。出したこともないスピードで、海斗は走っていた。突然、目の前に倒木が現れた。寿命を迎えて倒れたような、海斗の背丈ほどもある太さの巨木だった。海斗に考えている暇はなかった。ただ必死に、がむしゃらに、海斗は出せる最大の力で地面を蹴った。


「ぅわ」


 大声を上げなかったのは、奇跡かもしれない。いつの間にか、地面は遥か下にあり、目の前には木の枝が迫っていた。咄嗟に腕で顔を庇う。

 幸いだったのは、木の枝がそんなに頑丈じゃなかったことだ。海斗の体がぶつかると、木の枝は軽い音を立てて折れた。けれど、出過ぎたスピードは止まらない。海斗は着地を失敗し、もんどりうって転ぶ。背後でチッと舌打ちの音が聞こえた。


「面倒かけさせやがって……」


 慌てて振り返ると、そこには、鷹の毛皮をまとった青年がいた。人間に程近い姿をしたその青年は、けれど足は鋭い鉤爪がついた鷹のもので、彼が人間ではないことを知らしめていた。毛皮は、海外の映画で見たことがあるような、毛皮の絨毯のように頭がついており、青年はその頭の部分を被って、そこから繋がる翼の毛皮に腕を通していた。そう、まるで、鷹と人が一体化しているような風貌だった。


 鋭い眼光で海斗を見据え、青年はゆっくりと近づいてきた。ぞくり、と海斗の背を悪寒が走る。まるで青年の雰囲気に気圧されたように、海斗は立ち上がれなくなった。海斗は生まれて初めて、殺気というものを感じていた。

 パンッと何かが弾けたような音が響いた。青年がはっとして飛び退くと、もう一度同じ音がして、青年がそれまで立っていた地面が抉れた。


「ここから先は明鏡国だ。人間に危害を与えるならば、容赦はしない」


 低くよく響く声が聞こえた。その声のする方に首を向けると、そこに、三十路半ばごろのがっしりした体つきをした男が立っていた。その手には猟銃のような物が握られ、その先から煙が上がっている。男は青年から目を離さず、静かに猟銃を置く。


「お前がここで諦めるならば、危害は加えない」

「諦めない、と言えば?」

「言わずもがな、取り決めに従うのみだ」


 そう言って、男は腰から短めの曲刀を抜いた。青年は冷や汗を浮かべながらも興奮したように笑みを浮かべ、一歩、踏み出す。だが、いつの間にか青年の首には、音もなく移動した男の曲刀が突きつけられていた。


「境界を守る者なら知っているだろう。境界を越えた場所で人間を傷付ければ、それは討伐の対象になる」

「俺たちの国に侵入したのはその人間が先だ」

「だが、今ここは明鏡国だ。龍鐘国の法は通じない」


 男は青年を見据え、淡々と返す。ぎり、と青年が歯ぎしりした。ゆっくりと両手を上げ、青年は後ずさった。そして、十分に離れた場所で身を翻し、するすると木を登って高い場所にある太い枝に立つ。

 その時、青年が纏っている毛皮がまるで青年を飲み込むように覆った。一瞬の後、そこにはさっきの、人の背丈ほどの大きさの鷹がいた。鷹は、ちらりと男と海斗を一瞥すると、飛び立った。その鷹の姿は、すぐに木々に紛れて見えなくなった。


「怪我はないか」


 あまりに立て続けに起きる出来事に呆然としていた海斗は、その言葉で我に帰る。慌てて立ち上がろうとし、くらりと目眩に襲われた。転んだ時に頭を打ったのか、頭が痛み、目が霞む。


「おい、どうした」

「あ、えっと、」


 そうだ、クヤという人を探せと、シュラが言っていた。沈みゆく意識の中、海斗はかろうじて声を出した。

「シュラ、がクヤって人に、会えって」

 そこまで言って、海斗の意識は途切れた。



 厄介な拾い物をしたものだ、と、クヤは心底思い、意識を失った少年を見た。少年は見たことがない服装をしていた。人獣や人妖と何度か会ったことはあるが、そのどちらとも似つかない格好だ。くされ縁の少女は随分と面倒ごとを持ち込むのが好きらしい。ため息をひとつ吐き、誰かが境界を越えたことを知らせる役割を持った式神を飛ばした。一度知らせたらただの紙になってしまうのが難点だが、この式神をいくつか飛ばすことで侵入者はいち早くわかる。とりあえず彼を背負い、先ほど置いた猟銃を拾い上げた。


「クヤさん、どうだい? 森の様子は」


 がさり、と音がして、中肉中背の男が茂みから顔を出した。そして、クヤの背に背負われた少年を見て目を丸くする。


「どうしたんだい、その子。ずぶ濡れじゃないか」

「ああ、鷹族の境守りに襲われていたところを」

「なるほどなあ、鷹族はねちっこいからなあ。にしても、変わった格好をした小僧だねえ」


 そう言って首を傾ける男、ドゥドに二度目のため息を吐きながら、クヤは村に向かって歩き出した。

 戦が終わって十年、その間、何度も先ほどのように人間と人獣の衝突が起きていた。

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後に仲人と呼ばれる男 ー空っぽ少年の異世界戦記ー 金山 海花 @minaka-kanayama

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