夢に取り残された少年

 ー昔から、海の底には、別世界と繋がる場所があるそうだ。

 曖昧な記憶、物心ついてすぐに亡くなってしまった祖父がよくそんなことを言っていたのを思い出した。

 ピピピピピ……と耳障りな音が耳をつんざく。ノートの上に突っ伏して居眠りをしていた海斗は夢現の中で二度寝をしかけ、ハッとして頭を上げた。


「もしもし」

『あれ、寝起きじゃん。中学最後の夏休みに何やってんの』


 スマホ越しに聞こえてきた呆れた声に、苦笑いをこぼす。ノートを開いたのは朝日が昇る頃だったのに窓の外を見るともう既に日が真上に来ていた。


『久しぶりに海いこうぜ。そろそろ煮詰まってきてんだろ』


 スマホから聞こえる声に、ああなるほど、と返す。


「ちょっと待ってろ。着替えてくる」


 そう言ってすぐさま電話を切り、軽装を棚の中から引っぱり出す。手早く着替えながらもう出かけているであろう母親と父親に二人とでかけてくるとメールを送り、小さなショルダーバッグにスマホを放り込んだ。そして着替えをエコバックに詰め込んで足早に部屋を出る。そしてここ三年ほど滅多に開いたことのないドアを叩いた。


「シュウ兄、あ……あのさ、」


 もはや返事は聞こえないだろうと諦めながらも、その部屋の主である兄に呼びかける。


「俺、龍生と優吾と出かけてくるから。…母さん達が帰って来たら言っといて。あ、えっと、俺、今から海に行くけど、シュウ兄は興味ない?しばらく行ってないよな、海。好きなのに」


 相変わらず返事は帰ってこない。喉まで出かけたため息を押し殺し、踵を返して玄関に向かった。



「へえ、やっぱりその高校にすんのか」


 日の光が照らす青い海を横目に見ながら、海斗はしみじみと相槌を打った。


「おう。そこの寮、剣道の道場から近いからな」


 そう返した龍生は、人好きのする笑顔でグッ!と親指を立てた。


「頑張れ、龍生。お前は都会の偏差値も倍率も高いとこに行くような器用なことできる頭がないんだからさ」

「なっ」


 肩をすくめ、優吾がわざとらしくため息を吐く。案の定、龍生が噛み付いてきた。


「じゃあ、勝負すっか?」

「お前みたいな脳筋に負けるかっての。この前の模試、散々だったろ」

「くっ」


 何も言い返すことができないのか、龍生は悔しそうに拳を握りしめている。


「優吾も外のとこに行くんだろ」

「うん。有名な大学付属高校。寮があるらしいから良かったよ。ここからだと遠いから」


 これだから田舎は不便だ、と優吾は肩をすくめる。本当になあ、と言い、海斗は苦笑いを返した。

 三人の生まれ育った小さな港町は、夢を叶えるには小さすぎた。だからこそ龍生と優吾は外に出る。やりたい事をやるために。


「けど、本当に大丈夫か?リュウ、このままだと、本当に可哀想なことになりかねんけど?」

「うぐっ」


 別にからかうつもりはなく、ただ純粋に聞いただけなのだが、思った以上にダメージが入ってしまったらしい。


「やっぱお前、ベンキョーできねーのな」

「うるせー」

「そんな龍生クンに朗報です」


 そう言って、優吾がヒラリとやけにカラフルなチラシを見せる。


『夏休み強化合宿!』


 その大きな見出しを見た時、海斗の背にサッと凍るような感覚が走った。


「あの、ユーゴサン、これは?」

「お、おう、なんで、いま、そんなもんを出すんだよ?」


 龍生も同じことを思ったらしい。震える声で優吾に問いかけた。


「大きなとこがやってる合宿。そこまで遠い場所じゃないし、俺達三人で参加できんかなあって。どーせ、塾行くしかやる事ないんだから、ちょっとでも身のあること、しようや」


 いたずらっ子のような笑みを浮かべてチラシをひらひらと振る。


「ちなみにこのチラシ、だいぶ前に手に入れたのを、お前達の親に渡してあるから」

「ひ、卑怯な……っ」

「こんの……腹黒……っ」

「いいじゃん、行きたくないって言えば」


 いけしゃあしゃあとそんなことを言う優吾の顔を、いっその事力一杯殴ってしまいたかった。受験生の親にそんなチラシを見せると言うことは、その合宿に行くことが決定したようなものだ。

 だが、このままいけば、龍生の進学が危ういのも事実。仕方ない、諦めてこのアホな幼馴染の道連れになってやるか。海斗はそう思った途端、大きなため息が出た。


「お前さ、ほんっと、そーゆーとこだぞ」

「お褒めいただき、コーエーデス」

「褒めてねー」


 龍生も同じ考えに辿り着いたのだろう。どこかげんなりとした顔で、弱々しく優吾を皮肉っていた。そんな姿に、海斗は笑いをこぼした。


「卑怯は海斗だけで十分だよ」

「どういうことだよ」

「お前、六年の時の騎馬戦、忘れてねえだろうな?」

「それを言われると否定できない」

「あ、そうだ」


 ふと優吾が立ち止まり、自身の鞄をガサゴソと掻き回し始めた。


「何、お前、何か忘れたか?」

「んなわけないでしょ」


 龍生の軽口に顔を顰めながら、優吾は取り出したものを海斗に渡した。


「ほら、新刊、一番に貸すって言ったろ」

「おお!」


 優吾が取り出したのは、最近流行りの異世界系のライトノベルだ。異世界に召喚され、特別な力を持った主人公が、仲間と一緒に王国を作る、オーソドックスな物語。けれど、魅力的なキャラクターとテンポの良いストーリーで、最近の海斗のお気に入りだった。

 一方、本というものに関わりを持たず生きていきた龍生ははしゃぐ海斗と優吾に呆れた目を向ける。


「お前ら、好きだな。そういうの」

「龍生も一回読んでみなよ。ハマるよ」

「……俺が本を最後まで読めるとでも?」

「それはまあ、確かに」


 今度は海斗と優吾が龍生に憐れみの目を向けた。その目に気づいた龍生が二人を睨みつける。


「なんだよ、その目は」

「いやあ、龍生は異世界に召喚されて能力貰うなら、パワーカンスト系だな、と思って」

「うん。ややこしいこと考えられなさそう」

「ぶん殴るぞ、てめえら」

「褒めてるんだよ」

「どこがだよ! ってかそもそも、これから海行くってのに紙製品持ってくるなよな」

「それはまあ、そう」


 そう冗談を言い合い、気がつくと目的の場所についていた。

 観光客なんか滅多に来ない砂浜。しかも夏休みとはいえ平日ともなると、その狭い砂浜は貸切状態だ。

 荷物を置き、靴と靴下を脱いで海に足をひたす。真夏の太陽に熱された海水は生暖かかった。

 バシャリと背後から水をかけられる。振り返ると、膝下まで濡れた龍生が、ニヤニヤした顔で立っていた。


「……やったな?」


 海斗もニヤリと笑い、手で水鉄砲を作り、龍生に向かってぴゅっと放つ。それを「おっと」といって避け、龍生はべえと舌を出した。


「そんなの、当たらねえよ」

「どうかな?」

「なんだ? 何企んで……あ、どわっ」


 わざとらしく不敵な笑みを浮かべる海斗を警戒しながら、龍生は一歩二歩、後ずさった。そして、足元にある石につまずき、もんどりうってこけた。バシャリと水飛沫が上がる。それを見て海斗は吹き出した。


「お前、卑怯だぞ!」


 濡れ鼠になった龍生がキッと海斗を睨みつける。


「その通り!俺は卑怯なのさ」

「てんめっ、道連れだ!」

「うわっ」


 そう言って龍生は海斗に飛びかかる。避けきれず、海斗は龍生と一緒に浅瀬に倒れ込んだ。


「バカみてえ。何やってんの」


 離れた場所で、小さな騒動に巻き込まれることが無かった優吾が彼にできる最大の呆れ顔をしていた。そんな優吾を見て、龍生と海斗は顔を見合わせる。そしてニヤリと笑いあった。


「道連れはお前もだ!」


 そう叫び、二人でいきなり優吾の手を引く。声を出す暇もなく、目を丸くしたまま優吾は海水に顔面から突っ込んだ。


「さっきのお返しだよ」

「くそ……油断した」


 思い切り不服そうな顔をして優吾は二人を睨みつけた。

 三人仲良く濡れ鼠になり、もう濡れることを気にする必要も無くなったので、海斗はそのまま浅瀬に寝転ぶ。水の深さは寝転ぶと耳が水につくくらいのちょうどいい深さで、海斗は暫く寄せては返す波の音を聞いていた。

 ふと、かつて祖父に言われていたことを思い出す。


「……なあ、海の底には異世界に繋がる場所があるんだってさ」


 なんともなしに、そんな言葉が口をついた。


「ああ、じいちゃん達が言ってる昔話だろ。海が緑に光ったら気をつけろっていう」

「意外と、世界のいろんなとこにあるらしいよ。その逸話」


 龍生もまた、なんでもないように返す。それに対し、優吾は少し悪戯好きな笑みを浮かべた。


「意外とホントだったりな。いまここで、異世界に引きずり込まれたり」

「滅多なこと言うなよな、お前」


 楽しそうに言う優吾に、龍生は軽く顔をしかめる。


「三人揃って水難事故とか、笑えねえよ」


 「あはは」と笑い、優吾は軽く肩をすくめる。そしてふと思いついたように言った。


「でもさ、本当に異世界に連れて行かれたらどうするよ?」


 本当に、ただの好奇心で言ったようだった。海斗の心臓が微かにはねる。


「……行きたいのかよ?異世界」


 微かな動揺を押し隠し、茶化すように聞いた。


「あはは。まさか」


 あっさりと、優吾が否定する。隣で、龍生が大きく頷いた。


「もし、異世界に行ってしまったら、どうにかして帰る方法を探すかな。俺は」

「右に同じ。それに、この世界でやったことが全部パアになっちまったら困るしな」


 そう言って龍生がどこか得意そうにふふん、と笑った。


「俺、剣道の賞状はだいぶ貰ってるからな」

「そんな得意げに言わなくても、知ってるよ」


 うんざりして優吾が呟き、「でも」と、微笑む。


「俺も同じような感じかな。まだ、この世界でやりたいことあるし。海斗は?」

「俺、も、そうだな。うん。空手で一応、それなりに段位積んでるって言って通じないのは、自慢のしがいが無くてきついかも」


 微かに声が震えた。二人は気付かなかっただろうが。


「お前、強いもんなあ。本当に大きなところに行かなくていいのか?」

「いーんだよ。龍生と違って、近くに道場あるからさ。大きな大会にも行けるとこだし」


 海斗は、本当になんでもないことのように話した。それを見て、龍生と優吾は「それもそうか」と肩をすくめた。


「でもさ」


 おもむろに優吾が呟いた。


「俺、勝手の知らない異世界でも、お前らがいれば、生きていけると思うな」


 それを聞き、海斗と龍生は顔を見合わせた。そして、プッとふきだす。


「お前が言うには、臭過ぎるぜ」

「録音しとけばよかった」

「うるさい。言わなきゃよかった」

「まあまあ、いいじゃん?」


 秀吾をからかいながら海斗と龍生は笑い合う。

 本当に、いい親友を持った

 何度も心の中で繰り返したその言葉。けれど、海斗の中にある空虚な穴は、少しずつ広がっているような気がした。

 ふと立ち上がり、沖に向かって何歩か踏み出す。


(知ッテルヨ)


 そんな声が聞こえた気がした。それに吊られるようにもう一歩踏み出した。

 そして、不思議なものを見た。海が淡いエメラルドグリーン色になり、その向こうに山並みが見える。もっとよく見たいと思い、また一歩、踏み出す。

 突然、肩を掴まれた。振り返ると、不思議そうな顔をした龍生と優吾の顔があった。


「どうした? 海斗。それ以上行くと、深くなるぞ」

「ああ、うん」


 我にかえり、踵を返す。


(知ッテルヨ。知ッテルヨ。知ッテルヨ)


 頭の中で声が何度もしつこく響く。


(知ッテルヨ、知ッテルヨ)

「おい、本当に大丈夫か?」


 近くで、龍生の声が聞こえる。近くで、聞こえているはずだった。それすらも頭の中に響き渡る声にかき消され、それと共に海斗はそこに縫い付けられたように動けなくなった。


「おい、龍生、海斗」


 呆然と優吾が呟いた。目を丸くしながら、無言で沖を指す。龍生と海斗はそれに吊られるようにそちらを見、息を呑んだ。

 まるで水面に緑色の水を一滴落としたように、水が緑に光り、それが広がっていた。そして、緑色に発光する海水がまるで生きているかのように盛り上がり、



一瞬のうちに、海斗たちを飲み込んだ。

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