幕間
『なあに、次があるさ、次が』
そう言って快活に笑う空手の先生を見て、海斗は心の中で、(そういうんじゃないんですよ)と、密かに愚痴った。大好きだった空手が、いつの間にか、自分の中で色褪せてしまっているのを、海斗はぼんやりと感じていた。
『なあ、海斗。俺はな、深海に行くんだ』
太陽のような笑みを浮かべ、秀斗は海斗に熱く語った。秀斗は、いつか、潜水艦に乗って深海に行くことを夢みていた。そんな彼もまた、都会に出て大きな大学に行こうとしていた。
けれど、その夢は潰えた。簡単な事だ。ただ、その大学に秀斗の学力が届かなかった、というだけだ。
たった一度、されど一度。もともと親の反対を押し切ってその大学を目指していた秀斗は、そこから糸が切れたように部屋に籠るようになった。
海斗が公式試合で初めて負けたのは、その頃だった。自信を挫かれ、本当に才能のある人間に出会い、海斗は己の、空手に対する熱意のなさを知った。
部屋に篭り、それまでと対照的になった兄の姿が、彼を臆病にさせた。いつしか、海斗は空手に自信を持てなくなった。けれど、海斗の身近にいる大人たちは海斗に期待していた。「たった一度負けただけで気を落とすな」そんなことを何度も言われた。けれど、海斗の中には、もう以前のような空手への熱意が無かった。頑張ったってどうせ無理だ、という思いが海斗を支配していた。幼い頃から共にいた龍生と優吾は、自らの夢を見つけ、それに向かって邁進していたというのに。
いつからか、海斗は「いずらさ」を感じるようになった。兄のことを心配する親のために、せめて自分は親に心配をかけないように、地元で、なんの変哲もない人生を送って、何よりも、兄のようにならないように。そんな、大好きだった兄を反面教師のように扱う自分に、嫌悪感を抱くこともあった。そして、海斗は少しずつ、自分自身に虚しさを覚えるようになった。
ある時、優吾に貸してもらった本の主人公に海斗は憧れた。よくあるライトノベルの、よくいる主人公。平凡な少年が、異世界に行って、違う姿、特別な力、特別な役割を与えられ、その世界で生きてゆく。その生き方に憧れた。その世界にいる人々は、自分のことを誰も知らず、「その前の自分」を見ることは無い。全く違う存在として、生きて行けるのだ。それが、どうしようもなく羨ましかった。
なんとも言えない浮遊感の中、海斗は薄らと意識を取り戻した。走馬灯のような夢を見て、ぼんやりと死を予感した。波に呑み込まれた筈なのに、息苦しさは感じない。それどころか、閉ざした瞼の外側がぼんやりと明るい。不思議に思って薄らと目を開けた。
そこは、美しい場所だった。上にも下にも水面があり、その両方から入る光の筋が、美しく屈折し、エメラルドグリーンの水中を照らしていた。
その中に、多くの瓦礫や木片が散らばっている。海斗はそれを、残念だ、と思った。その木片やら何やらが、この空間を汚しているような気がしてならなかった。不思議な形をした生き物達が、その瓦礫の間を舞う様に泳いでいる。
その中に、一際目を引く存在がいた。それは、鹿のような、獅子のような、はたまた馬のようで、魚のようだった。
一目で分かった。おそらく、神のようなものだと。
その存在は海斗に向かってぷくぷくと泡を吐き出した。その泡が海斗を覆い、そして、ゆっくりと下へ向かい始めた。
不思議と恐怖は感じなかった。
ふと、何かが近づいてきた。人の形はしているが、『それ』は到底、人と思えなかった。白目のない、黒く塗りつぶされた瞳、魚のような鱗にびっしりと覆われた体、腕と太ももには美しいひれがついていた。
『それ』は、海斗に鼻がつくほど近づき、にいっと笑った。すうっと、まるで水が流れ込んでくるように「何か」が海斗の体に流れ込んできた。
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