申し送り

真花

申し送り

 職場で恋をしてはいけない。

 家族のいる人を好きになってはいけない。

 自分に家族がいるのに、他の人を想ってはいけない。


 病棟に着くと、看護師の森本もりもとさんがいるかを最初に探す。勤務表は知らないし、そこまでチェックするのは自分でも気持ち悪いからしないが、その代わりに探索する。

 いた。

 森本さんのところだけ輝いて見えた。

 森本さんは日勤しかしないから高率で会うことが出来る。だが、用もなく話しかけるのは不自然だ。

「おはようございます」

「あ、先生。おはようございます。暑いですね」

 森本さんは今日はリーダーで、看護師からの申し送りを担当医にする役割を担っていた。だから、業務上、僕は森本さんに声をかけられるし、森本さんも自然に応じられる。

 森本さんの笑顔は、僕にだけ特別で、あなたに会えて嬉しい、と書いてある。

大館おおだてさんは、落ち着いています。ただ、便が三日出てませんので、今日下剤行って、明日出なければ浣腸します」

「分かりました」

 一通りの申し送りを終わらせたとき、他のスタッフがナースステーションからはけていた。僕は何となくその場を離れず、森本さんもそれを期待しているような佇まいだった。

「先生は、夏休みどこか行かれるんですか?」

「西武遊園地に泊まりで行く予定です。森本さんは?」

「お子さんが喜びそうですね。うちは夫の実家の山形にお盆中は行きます」

「娘さん、暇だ! ってなりませんか?」

 森本さんがマスクをしていても可憐と分かる笑みをこぼす。

「娘は山形の田舎が結構好きみたいで。むしろ私がつまらないですね」

 僕も笑う。

「どこか行ってみたいところってあります?」

「私は、そうですね、マチュピチュに行ってみたいです」

「まさかの地球の裏側ですか。でもいいですね。滅んだ文明」

 ドアが開く音。

「そうですね。では、申し送りは以上です」

「ありがとうございます」

 一緒に行けたらいいのに。僕は回診に出る。

 もう一回チャンスがある。患者の診察を終えて指示を出すときだ。だが、人が多かったので、本当に指示だけを出して僕は病棟を後にした。

 もっと森本さんに会いたかったが、もう病棟に行く理由がなかったので、他の仕事をして帰った。

 娘を学童に迎えに行く。

「パパ。これ持って」

 娘に何かのバッグを渡される。僕は苦笑いをしながらそのバッグを持つ。

「今日はどうだった?」

「んー。普通」

「小学校三年生の普通ってどんな感じなの?」

「パパはいいことあったでしょ? 顔が緩んでる」

 森本さんの笑顔がパッと浮かぶ。

「そうだね。患者さんでよくなった人がいたよ」

「ふーん」

「今日は何か買って帰ろう。何がいい?」

「カレー食べたい」

「じゃあ、それで」

 カレー弁当を買って帰り、妻はまだ家にいなかったのでその分は置いておいて、食べた。

 夜、布団に入る。

 森本さん。

 森本さんも僕のことを想ってくれるだろうか。きっとそうだ。

 言葉にはしない。行動にも移さない。もう二年はこの状態で来ている。このまま一生胸の中なのだろうか。……職場だし、お互いに家族がある。ここから先に進んではいけない。

 毎夜この問答をしている。毎回同じ結論に至る。


 森本さんに会えたり、会えなかったりしながら一週間を過ごす。一週間が重なり、ひと月になり、少なかった蝉の声が、空いっぱいになる。


 今日は森本さんに会えなかった。何のために一日働いたのか分からない。せめて、夏を満喫してゆっくり帰ることにした。いつもバスで帰る道を三十分かけて歩く。

 遊歩道に出て、十分くらい進んだとき、脇のベンチに座っている人がいた。

 まさか。

 だがシルエットがそうだと言っている。

 はやる気持ちを抑えながら、不審にならない速度で近付いてゆく。

 間違いない。

 理由を考えるより先に嬉しさが込み上げて来て、僕は駆け寄った。

 シルエットも僕に気付く。

「森本さん。どうしたんですか? こんなところに」

 空間がオレンジ色になり始めていた。

「先生こそ。私は、家が近くて、お散歩です」

「僕は帰りをたまには歩こうと思ってです」

「奇遇ですね。まるで、運命みたい」

 心臓にやさしい打撃。

「そうですね」

「今日は病棟は落ち着いていましたか?」

「ちょっと荒れましたけど、大丈夫です」

「少し、喋りませんか?」

 森本さんが左手でベンチの空いているところをポンポンと撫でる。指先が揃っていた。

 僕は森本さんの隣に座る。私服の姿を見るのは初めてだ。短い髪は仕事上の機能重視だと思っていたが、花柄のワンピースによく似合っている。太陽が沈もうとしながら、僕達を照らしている。僕達の後ろには長い影が伸びているだろう。影だけが先に交わっているかも知れない。

 横並びになって、森本さんは何も言わない。僕は自分の鼓動に耳を打たれて、顔がどんな色をしているのだろう。赤くても、今ならバレない。

 暖かい風が右から吹いて、森本さんの香りを僕に届けた。仕事中にふと香るのと同じ香りだ。

「先生は、恋をする条件って、どんなものだと思いますか?」

 森本さんも僕も太陽を見たまま。

「ないと思います」

「ない?」

「してはいけない条件も、ないです」

「じゃあ、全くの自由なんですね」

「でも、恋を殺す理由はあると思います」

 森本さんは、はああ、と息を吐く。

「だからずっと半殺しなんですね」

 僕はそれに答えない。

「先生はモテモテですよ」

「患者さんにですよね? 嬉しいことです」

「それだけじゃないですよ」

 僕はこれ以上はいけないと思った。物語が前に、深刻な方に進んでしまう。

「じゃあ、僕はそろそろ帰ります」

 森本さんの返事を待たずに立ち上がる。会釈をして、立ち去る。

 ガッ。

 手首を掴まれた。

 掴んだのは森本さんだった。触れたのは初めてだ。森本さんの手は柔らかかった。

「先生、待って下さい」

 森本さんは顔を伏せながら、強い声を出す。

「……はい」

「私は」

 言葉を切って、森本さんは顔をゆっくり、力ずくのように上げる。僕は言葉の続きを待つ。

 森本さんは僕の目をしっかりと見る。貫こうとするような視線だ。

 顔が青くなっている。このオレンジの光の中でも分かる。

「私は、先生が好きです。ずっと、ずっと好きです」

 森本さんには家族がある。それを捨てるつもりなのだろうか。捨てずに僕と繋がろうと言うのか。だが、僕も全く同じ状況にある。

「森本さん」

 森本さんは黙って、耳を澄ませている。僕の言葉に断じられることを待っている。

「僕も、好きです。大好きです」

「じゃあ」

「だけど、今より二人が近くになることは、出来ない。恋人にはなれないです」

「どうして? 女と男が求め合って、進むべき道なんて一つしかないじゃないですか」

 その通りだと思う。森本さんと時間を過ごして、体を重ねて、そうやって過ごせたらどんなにいいだろう。

 今すぐに抱き締めたい。唇を奪いたい。太陽が沈み切るまでは全てが許されるなら。

「ごめんなさい。禁止を越える勇気がないだけかも知れません」

 僕の声は震えていた。

 その声を聞いて森本さんが息を呑む。呑んだものを抱えながら次の声を出す。

「私は、捨てるつもりはない。その上で、先生が欲しい、です」

「森本さんになら、あげたい。僕だって欲しい。……でも、ダメなんです。僕は、越えられない」

 そのまま僕達は同じ格好で動かない。森本さんは何を思っているのだろう。

 不意に、森本さんが掴んでいた手を離す。

「明日からはまた、同じ毎日ですか?」

「そうです」

「いや、いつかは先生も私と同じ気持ちになると信じています。だから、今日はここで引き下がります」

「すいません」

 森本さんは素早く、僕に抱き付く。

「予約だけ、ね」

 僕の頭を抱えると、唇にキスをした。僕は抵抗しなかった。

 森本さんはすっと僕から離れた。

「じゃあ、また明日」

 森本さんはもう青くはなかった。やわらかい色をしていた。

「また明日」

 僕はもう一度会釈をして、手を振った。本当は手を触れたかった。だが、それをしたら絶対に戻れないところまで進んでしまうのは明らかだった。僕はベンチを後にする。太陽がその姿を地平線に全て隠した。

 遊歩道を一人で歩く。体にまだ森本さんの感触が残っている。

 胸が少しずつへこんで、穴になった。

「また明日」

 そこにいない森本さんに向かって呟く。

「また明日」

 穴のある僕に向かって呟く。


 次の日、朝一番に病棟に向かう。

 窓の外から森本さんがリーダーの場所に立っているのが見えた。僕はドアの前に立って深呼吸をする。

 ドアを開ける。

「おはようございます」

「あ、先生。おはようございます」

 森本さんはまるで昨日のことがなかったかのようにいつも通りに応じる。申し送りが終わる。

「以上です」

「ありがとうございました」

「先生」

 森本さんが僕の目を見る。真剣な、だが冷たくはない瞳。

「はい」

「ううん。なんでもないです」

「そうですか」

 僕の胸の穴に、森本さんの風が通った。

 僕は回診に向かう。


(了)

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