人差指
乃木口正
人差指
日中の焦付く様な陽射しは西に聳える建物群に遮られ、肌を突き刺すほどの感覚はもはやないが、それでもアスファルトに蓄積された熱がじりじりと大気へと昇り、湿気と相俟って今宵も熱帯夜の様相を俄かに晒しはじめている。
「六時に待ってます。」
待ち合わせの相手は場所と時間を一方的に決めた。いや、恐らく江川の職場と終業時刻を考えてのことなのだろうが、せめて了承を得て欲しかったと彼は思う。現に仕事が押し、腕時計の針は六時を過ぎている。焦る気持ちを抑えながら、店へと続く階段を降り、古びた木製の扉を押し開けると、そこは外の明るさとは対照的な闇が帳の様に垂れ落ちていた。
間接照明によってぼんやりと照らされた店内をぐるりと見渡し、江川は約束の相手が既に隅の席に居ることを認め、歩みを進める。
「ああ、こんばんは、」
席に近付くと、相手は江川に気が付き、持っているグラスを掲げた。
「どうも、」無愛想に会釈をし、江川は向かいの席に腰掛ける。
肩を摩りながら酒の注文を店員にし、改めて対面の男の姿を見る。どぎついまでのピンク色をしたアロハシャツに、タンクトップを下に纏い、ジーンズを穿いた格好はゴロツキの様である。本当にこの男を信用して良いものか、グラスを傾けながら江川は悩む。
ゆったりとした調べのジャズが、囁かれる人々の声の間に微かに耳に入る。二人はただ黙ったまま、本題へと話が移ることを拒むようにちびりちびりと酒を呑む。
鋭い眼差し。探る様な視線。思案する様に、男の眉間に皺が寄る。
「
痺れを切らして江川が口を開いた。
男――
菅野は脇に持っていた、その容姿とは不釣合いのビジネスバッグから、紙束を取り出すと、濡れたテーブルの上に置いた。表紙には報告書と大きく記され、その下に小さく『菅野探偵事務所』とある。
江川はその束を手に取り、頁を捲る。卓の水滴で僅かに紙が不快な感触となり、彼は眉を顰めた。
『
前記までが警察によって確認が出来た点で、後述は新たに判明した情報である。
江川家の近所に住む大学生D。調査の結果、彼は殺人が起きる直前の時間帯に男が被害者の家に上がり込んでいるのを見かけている。リビングの窓から見えた姿はしかし、男の後姿だけで、ソファに座っていたため、背丈も分からない。男はお茶を飲みながら、テーブル越しに被害者江川藍と談笑していたという。
「これは、」
報告書を閉じ、江川は困惑の表情を浮かべる。
「依頼された、奥さんの殺害事件の調査報告です。まだ途中ですが、」
「いや、それは分かっている。」
酒が回りはじめているのか、重くぐらぐらと安定感の欠く思考を巡らせながら、江川は考える。
(前半の記述は知っていた。しかし、後半のこれはどういうことだ?)
ちらりと正面に座る、見るからに怪しい男を観察した。その男と江川が面識を得たのは事件が起き、メディアにて報道された後である。菅野は唐突に現れた。そして、
「報道を見ました。是非、事件の調査をさせて欲しい。」と、申し出てきた。話によると、彼は江川の妻藍と中学を同じにした旧知の間柄なのだという。彼女の供養の為に、捕えたいとも。しかし、江川にとっては見ず知らずの人間だ。彼が名乗った通りの人物かも分からない。もしかしたら、質の悪いメディア関係者かもしれない。疑心暗鬼が猜疑を呼び、何もかもが疑わしく見えてしまう。
「お願いします。」
最後は菅野の押しに折れる形となり、捜査の許可と調査の依頼をすることになった。
だが、今振り返ってみると、やはり不自然と思えた。何故、中学の同窓生というだけで、わざわざ調査を名乗り出たのか。江川の頭に再び疑心が蘇る。
(この男は何か知っているのではないか。だから、自ら調査を買って出た。)
疑いはじめると、アルコールによって飛躍する思考が音を立てる様にパズルを組み立てて、ひとつの結論へと導いていく。
「まさかとは思うが、」からからに乾いた喉に酒を流し込む。「まさか、お前が妻を殺した犯人ではないだろうな。」
「何を藪から棒に、」
「さっきの報告書に、妻が男と談笑していたと書いてあった。中学の同級生が訪ねて来たら、家に上げるのではないか。」
「馬鹿な、」酒で赤らんでいた顔が、みるみると蒼白く変色する。「オレには動機がない。」
「もし仮に、お前がオレの妻に恋慕の情を抱いていたらどうだ。指を切断したのも、左薬指に嵌っている指輪を捨て去った事を隠す為の目眩ましではないのか。」
江川は考え付いた推理を最後まで言い終えると、相手の男を睨み付けた。赤く濁った双眸。焦点は定まらず、店内を当て所無く彷徨う。そして蒼く血の気の退いた唇が、微かに歪む。くつくつくつ。
「面白い考えだ。断定されたら、危く説得されてしまうかもしれない。だが、こちらも探偵だ。少しはそれらしい事をしようか。」
肩を撫でながらテーブルにグラスを置くと、からりと中に残った氷が音を立てる。
辺りの囁きやジャズの音色は消失し、ただ身体の内側で流れる血の音だけがごうごうと響いている。
「犯人は貴方だよ、江川歩さん。部屋は荒らされた様子もなく、指紋も無かった。何故か。手袋をしていたからか。いや、違う。手袋をしていたなら、お茶を呑んだコップを犯人が洗う必要はない。犯人は、コップに付着した指紋を消す為にふたつのコップを洗った。つまり、犯人は手袋をしていなかった。しかし、家には怪しい指紋は無かった。矛盾する様だが、そうならない答えがひとつある。その家に指紋が有っても疑わしくない人物が犯行に及んだという考えだ。他の指紋は良いが、コップの指紋は、お茶をしていた人間を容易に明かにしてしまう。だから洗った。犯人である、貴方が。」
しんっ。一瞬、恐ろしいまでの静寂が二人を包み、互いが互いの挙動を寸分漏らさず見詰めた。何も言わず、新たに注文した酒が届くと、二人は一気にその琥珀色をしたアルコールを呷る。ぐらぐらと視界は廻り、ごうごうと耳鳴りがする。意識は混濁して、現実の有り様は最早分からなくなっていた。
※
目の前の男は既にアルコールに溺れ、気付いた時には、この場で何を話していたか覚えていないだろう。もし、オレを犯人と名指しした事を記憶していたとしても、所詮酒席での事だ。笑って誤魔化せば良い。
肩の傷を撫でながら、オレは酒気を帯びた熱い息を吐く。
どうやら指を切り落とした理由は気付かなかった様だ。指輪とか、そういった事ではなく、もっと単純な理由。首を絞めた時、肩を強く引っ掻かれたのだ。彼女の爪はオレの血で赤く染まり、肉片が隙間にこびり付いていた。だから、あの白くて細い指を一本々々切り、現場から持ち去った。今頃はこの天候であっさりと腐り、捨てた川辺で悪臭を放っているだろう。
「ふぅ、」
痛みが治まるのを待ち、オレは最後の一杯を注文する為に店員を探す。薄暗い店内は所々に有るぼんやりとした灯りだけで、上手く人の区別がつかない。漸く接客待機をしている女の姿が見付かった。オレは手を上げ、その女を呼ぶ。女は顔を上げ、暗い中でも白いと分かる面をこちらに向ける。目と目が合う。蒼白の手がゆっくりと持ち上がり、真紅のマニキュアを塗った人差指がオレを示す。
違う、あれはオレの血だ。
いや、そもそも女の手に指など無い。ただ、平だけが畸形の様に有った。
(嗚呼、)
歪む視界と思考の狭間で、オレは嘆きの声を漏らす。
オレは、己の罪と再会をした――
人差指 乃木口正 @Nogiguchi-Tadasi
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