裏北沢文芸『黒魂こんこと裏北沢』

瑞田多理

Vol.0 どこにも、行かない。

 シーン1 彼女の下北沢


 時々付き合いで行く合コンとかで、「アパレル系勤務で、表参道に通ってます」とか言ってみると、時々話が一瞬盛り上がるから、次の人に話のバトンを渡すだけの役目はなんとかこなせる。

 ただ、そういう明らかなごまかしはそろそろ通用しなくなってきてるみたいで、回を重ねるごとに盛り上がりのもちが悪くなっていくのがわかる。

 最初にこのネタを使ったのは、大学卒業を目前に控えた夏のことだった。周りも学生ばっかりだったから、ちょっと先に進んでる感じで見栄えが良かったんだろうと思う。バイトで入ってたのをいいことに随分都合よく使わせてもらった。

 その時捕まえた彼氏にはついこの間フラれたばかりだ。理由は聞けなかった。ある日突然連絡が取れなくなった。まぁ、言いづらいことなんだろうとは思った。多分、世の中の男と同じ理由で私を見限った。

「アパレル系」で「表参道勤務」って言うのは本当のことだけど、隠していることも多い。例えば私が、表参道にひしめくショップの一つの、ただの店員でしかないこと。その中でも売り上げが伸び悩んでいて、常にノルマで怒られていること。今はスマートフォンがある。インターネットの情報は信用できなくても、インターネットを介してつながっているトモダチやセンパイの言葉はすぐに聞ける。私が隠した真実は、すぐに人づてに詳らかになって、私のちっぽけな見栄はあっけなく剥ぎ取られてしまう。

 あるべき姿だと言われればそうなのだけれど、私は、ちっぽけだった。


 毎日、夜遅くなる。出勤した日はノルマ未達の反省をさせられる。終電にかけ込むこともあれば、稀に間に合わないこともあった。今日は間に合わない日だった。

 これが上流に勤めてるイケイケ女子だったらタクシーでも捕まえて帰るんだろうけれど、下っ端の下っ端にいる私にはそんな余裕があるわけもない。とはいえ狭いアパートは狛江にあって、歩いて帰るのはとても無理だ。夜道は基本危ないものだし。

 でも、今日は偶然にも金曜日などと呼ばれる日だったのでこの辺の宿は全滅だった。カラオケも簡単に入れそうではない。最近は稼ぎどきのおひとり様は別料金がかかったりする。

 幸いだったのが、私も明日は休みだって言うこと。それだけだけど、とても大きなことだった。最悪、本当に最悪……家に帰れなくてもなんとかなる。とはいえ、十月に入って急に寒くなってきたから外で過ごし続けるのはきつい。どこか、行けるところはないかな。


「……あんじゃん、電車」


 その時に私が気づいたのは、「まだ動いている電車がある」と言うことだった。学生の頃はそれより前から朝まで飲み散らかしていたから、社会人になってからは諦め切っていたから見過ごしていた電車。小田急線経堂駅行きの最終電車だ。

「乗ったからどうなるってわけでもないけど……」

 何をどうやって乗り込んだのかわからなかったけれど、ともかく私はその電車に乗っていた。代々木上原を出て停車駅は東北沢、下北沢。

「シモキタ、か。懐かしいな」

 学生の頃以来、だからきっと二、三年ぶりにその存在を意識した。人の乗り降りが激しい厄介な駅だな、としか感じていなかったところに、学生の頃にはしゃいでいたノスタルジーが重なった。

 今日は、ここで過ごそう。

 とっくに過ぎ去った昨日を、もっと昔の記憶で洗い流すために。

  

 シーン2 飲食店バイト戦士の下北沢


「いぃらっしゃいませぇぇーっ! ご来店ありがとうございますゥーッ!」

 店の喧騒に負けない大声を出せること、その間にも串を焼く手が止まらないこと。それは明確に俺の取り柄だ……って、言ってくれたのは誰だったか。店長だったかもしれないし、一杯のハイボールだけでカウンターで粘り続ける客の一人だったかもしれない。何を、誰に言われたかなんて、覚えていたくても覚えていられない。そんなに頭が切れるわけじゃあない。だから俺はここで串を焼いてる。

「はいこれ十二番さん!」

 これも聞いた話だが、俺はオーダーを取り間違えないらしい。作り間違えもしないし、渡し間違えもない。これはすごいことですよ、と言ってくれたのは多分去年辞めたバイトだった。そいつは何をやらせてもミスばかりで可哀想だったけれど、本人は気に病んでいた様子はなかった。いい大学に入っていたみたいで、順調に卒業できたみたいで、マカオかなんかに卒業旅行に行くって言って辞めていった。多分そのための金を稼ぐっていうバイト計画だったんだろう。

 俺にはいくべき海外リゾートも、入るべき会社もない。計画もへったくれもなく注文を聞く。ただ言われた通りに串を焼く。そして渡す。それを客が食って、俺は生かされている。

「十五卓さまお会計でーす! ありがとうございます!」

 誰よりも早く客の呼び出しに気づけること。これもどうやら俺の才能らしくて、それを言ってくれたのは同じく去年辞めたバイトの女の子だった。本当に辞め際、制服を返しにきた時に店長もリーダーも不在だったから俺が対応した時のことだった。「その気配りをお店の外でも発揮できたらいいですね」とちょっと涙ぐんだ声で言われて、それっきり会っていない。きっとどこかで別の、いつでも気配りができる相手を見つけてよろしくやっているだろう。

 気づいていないわけがない、じゃないか。店の中と外でスイッチを切り替えるように人との関わり方を変えられるほど、器用じゃない。買い被られていたのか侮られていたのか、どっちなのかはわからない。ただこれだけは言える。三十にもなってバイトの掛け持ちで食ってる俺みたいなやつを想うなよ。悪い奴との付き合い方をこれを機に覚えてくれれば良い。もう会うことはないが、本当にそう思う。

「ラスト聞いてきてー!」

 時計の針が二十六時を回ろうとしていたことに気がついたので、暇そうにしていた一人に声をかけてラストオーダーを促して回らせる。キッチンに立つと体内時計がその店の時間になる……と言うのは、俺自身が見出したことだった。決めた時間がある限り、俺はその間は動き続けられる。八時間以上の立ち仕事も苦にならない。休みが突然消えたって構わない。誰かが決めてくれた時間があれば、俺は動き続けられる。

『お客さん、ラストオーダーです、ラストですよー』

 キッチンの向こうから困った若い声が聞こえてくるのも、まぁよくある話。客が飲みすぎて潰れて、起きないんだろう。

「他はラストオッケー?」

『はい、ラストオッケーです』

「じゃあ俺が起こすわー。片付けお願い」

 バイトなんて俺を含めて、やる気なんか一ミリもない方が普通だ……と思いたい。だから厄介ごとに巻き込まれそうな酔っ払いなんか相手にしたくない。誰かが貧乏くじを引かなきゃならない。その誰かは、たいてい俺だ。場慣れしてるから、って言うただそれだけで。


「お客様―! お客様ーっ!」

 ただ、その客は確かに様子がおかしかった。

 まず、泥酔するほど飲んではいないようだった。注文履歴にあるアルコールは黒霧島のお湯わりだけで、他は申し訳程度のつまみ。店長からしたらすぐにでもつまみだしたい客に違いなかったが、俺はこの女のことが心配になってきた。

 少しのアルコールで気絶したように眠るってことは、二つに一つだ。なんかの薬の副作用か、そもそも飲めないやつが知らずに飲んじまったか。仮に飲めなかったとすると、今までそれを知らなかったのはなぜかって話になる。未成年飲酒、それも救急車沙汰になると話が大ごとになる。

 服装から見るにアパレル業界の人間みたいだが、経歴は浅そうだ。靴だけが異様に安っぽい。机に突っ伏していて顔は見えないが、若いことも間違いない。

 だが若ければいつまでも店に居座っていいわけではない。

 たとえこいつが何に疲れ果てて、何に疲れ切ってここで寝ているのだとしても……俺たちバイトには関係ない。店から出して、シャッターを下ろせば俺たちの仕事はほとんど終わったも同然だ。ドライにいくべきだ。

 そう思った。

「……私だって」

 寝言なのか。疑った瞬間にそいつは飛び起きた。

「私だって好きで貧乏くさい飲み方しれるわけじゃないわよ!」

 結論、そいつは酔っ払いだった。黒霧島の一杯で酔っ払って、店員の胸に抱きついてワンワン泣くくらいには酔っ払いで、飲み方は貧乏くさかった。まるで学生のそれだ。

「……」

 吐かれなくてよかった。と俺は涙と唾液で湿った前掛けを見ながら思った。

「閉店なんで、お勘定して外出てもらえますか」

「お勘定ならそこにおいたわ……。うわーん、めんどくさいー! つらいー!」

「じゃあ、外に出てもらえますか」

「聞いてよぉーっ、毎日やばすぎて」

 他のバイトが辟易し出しているのを背中で感じている。締め作業ができないし、それを仕切ってほしい俺が捕まっているのが気に食わない。そう言う感じ。

 俺にとっては、この女も締め作業もどっちもどうでもよかった。だって俺はバイトだから。締め作業が遅れようが、この女が警察に突き出されようが、どうでもいい。

「ちょっと放り出してくる。締め作業任せた」

 そこに他意は全くなかったけれど、バイトの間で噂話が回るんだろうな、とは思った。社員の耳に入ると、ちょっとだけ面倒だ。


  

 シーン3 意味深なことを言うバーテン


「いらっしゃい。お前か、久しぶり……。ああ、いや。お前が女連れなことにちょっと驚いただけ。ちょっと元気になったんだ、その様子だと。

 ……違う? バイト先で絡まれたから連れてきた? なんで? うちに押し付けにきたってこと? おいおい、長い付き合いだからって勘弁してくれよ。もう店じまい近いから、お客来てないからとりあえずいいけど、お前、うちは落ち着ける隠れ家としてそこそこ定評のあるバーだぞ。騒ぎそうな厄介連れてくるんじゃないよ……。とりあえず座れ。そっちの女の子もね。

 それで、その子はどういう人? その調子だと……と言うより、お前のことだから何も知らないんだろ。よし、ここはひとつ僕が聞き出してみよう。いや、すまないすまない、厄介呼ばわりしたことは許してくれよ。もう酔いが覚めてるとは思わなかったんだ。なんせずっとこいつに抱きつきっぱなしだったから。いっそ酔いに任せていってくれたらうちに回ってくることもなかったんだろうけど、……これも何かの縁かな。とりあえず、注文を聞こうか。

 え、黒霧島のお湯わり一杯でダウンしてた? もう一回聞くんだけど、なんでうちに連れてこようと思ったの? 僕がいるから。わかった。それはそうなんだけど。ごめんね、バカが店選びを間違って。うちには本当にお酒しかないから、飲むなら気をつけて。うん、ジンのロックね。ジントニックに変えていいよね? 飲めないでしょ、多分。

 

 それで、そんなに飲めない子がなんで今日に限ってお酒なんか飲もうと思ったの。飲めなくはない、はいはい。それで? 家が狛江なんだ。そうだね、終電ないね。でもシモキタには来れたから、明るい店でハシゴしようと思ったら……、学生の頃より全然飲めなくなってた。そうなんだ。まぁよくある話だねぇ。お疲れ様。

 疲れ果ててると酒はよく回る。ましてあったかいお酒でしょ。すぐに脳にとどいてすぐいい気分になっちゃう。捕まえてくれたのがこいつでよかったね、と言うのが正直な感想かな。シモキタにヤクザはいないけど、男はみんな獣だからねぇ。

 それにしても、毎日終電ってのはなかなか厳しいものがあるね。会社員? 二年目かぁ。大変な仕事なんだ。立って服を売るだけ。それが一番大変だよ。だって君ができることなんて、きてくれたお客さんを捕まえて離さないだけじゃない。それが、できないでしょ。性格的に。

 あ、責めてるわけじゃなくて。そうなんだろうな、って確信できたから口から出ただけ。こういうやばい時にシモキタに来るような、そうだね、魂が下北沢に囚われてる人って、そういう人が多いんだよね。動きたくても動けないとか、何をしていいのかわかんない、とか。そういう『指向性がない』って言い方ができる人たちが、下北沢にたむろってるって長くバーテンやってると思うよ。

 ……さて、話が取り留めも無くなってきたから一旦戻そうか。君たちも止めてくれよ。僕はお酒のつまみに話をするのが商売なんだから、放っておいたらいつまでも喋るよ? 構わない……、ってお前なぁ。暖簾に腕押しって一番疲れるんだよ。このまま始発までずっと僕だけ喋り続けるのか? まぁそれでもいいけどさ……。そっちのお姉さんは無理しないでいいよ。飲めない人が飲んで悲惨な目に遭うことほど、お酒にもかわいそうなことはないからさ。ただでさえ午前様なのに、帰れなくなるの、きついでしょ……って言ってる側から思いっきりあおらないで! お前も止めろ!」

「帰りたくない」

「なんだって?」

「帰りたくない。どこにも帰りたくない! 家賃ばっかり高いくせに狭い部屋にも、カスみたいな職場にも、山と川しかない田舎にも、どこにも!」

「酔っ払って強く出た、……ってわけじゃなさそうだね」

「職場も、私も、家も世界も、全部嫌い。だってみんな、みぃんな私の手足をもいでくる! 目をつぶして口を塞いで、耳元でギャーギャー喚いて何にも聞こえなくさせてくる! もううんざり、うんざりなんだよ! どこにも行きたくない、どこにも帰りたくない!」

「だからシモキタにきたんだね」

「だったらなに」

「……おい、『裏』の話はやめろ」

「察しがいいな、ちょうどその話をしようとしたんだ。お姉さん、『どこにもいきたくない』っていうのは本当かい」

「ええ」

「じゃあ『どこにも帰りたくない』という言葉にも偽りはないね?」

「もちろん」

「なら、ちょっとだけ頑張ってここに行くといい」

「おい」

「案内してやれよ。袖触り合うも多少の縁ってな」

「……あのキツネババァは苦手なんだ」

「キツネ? それにこの場所、今は何にもない駅前市場跡じゃん。もう直ぐロータリーになる」

「まぁまぁ、騙されたと思って行ってみな」

「キツネにばかされる?」

「まぁ……、似たようなもんさ」


  

 シーン4 下北沢の天狗


 こうして、娘と男は終電と始発の狭間で沈黙している下北沢駅前に戻ってきたのでした。

 もっとも静かとはとても言えません。飲み散らかした後の若人たちが、めいめいの夢を見ながら会話にならない叫び声をあげています。喫煙所は夜も開いているので、タバコの灰と共に落ちて消える他愛もなく、しかしこの瞬間は何よりも熱い言葉を交わしあったりしています。

 時折強く上がる大声に、娘はたびたび肩を震わせます。

「昔飲んでたなら、もう慣れっこなんじゃないのか」

「飲んでた時は群れてたから。今は一人……そりゃ怖くもなるよ」

「そうか」

 男の表情は終始変わりませんが、そこにはどこか気後れが見えます。これからその場所に向かおうというのに、どこか気が進まないというか。

「それなりに顔がきくほうだ。何かあったら言ってくれ」

「何もないことを祈ってよ」

「できない。祈りは届かない」

「じゃあ願って」

「それもできない。願いは叶わない」

「なんの希望もないんだ」

「それはお互い様だろう」

「駅前広場、ちょっと広くなった……かな」

 娘は埒が開かないと話題を変え、眼前に広がっている駅前広場をあらためて眺めます。

 それは、雑然、あるいは混沌とした下北沢の街にはおよそ似つかわしくない、茫漠とした広がりでした。立ち入り禁止を示すフェンスが通路を形作ってはいるものの、そのフェンスが守っているのも空き地。フェンスの中も外も空き地という空間が、およそ東西に真っ直ぐ、ずっと続いているのでした。

「……線路地下化工事。その跡地だよね」

「そうだ。現状はどうあれ、当時の住人にとっては悲願だった」

「もうすぐバスロータリーになる」

「行政の意向が変われば直ぐにでもそうなる。今の下北沢でいられる時間は、そう長くない」

「……だったら、本当に私の居場所は無くなっちゃうんだ」

 娘は吐き捨てるようにそう言いました。

「この街も、何かでいなきゃいけない街になっちゃうんだ」

「そうだ。俺たちには何もできない」

「何者でもないから?」

「そうだ」

 男の方は、大した感慨もないようでした。長く下北沢の地でアルバイトを掛け持ちしすぎた結果、色々なものがすり減っているのか。

 それとも、強すぎる思いを押し殺そうとして無表情になっているのか。娘の乏しい人生経験から、それを推しはかることはできませんでした。

「だが」

 男が唐突に言いました。

「これから行くところは、そんな心配はない」

「え」

「一発芸、あるか」

「は?」

「できればつまらなければつまらないほどいい。なんでもいいからやってみろ」

「な、何よそれ」

 急に気でも違えたのかと娘は男の様子を伺いますが、どうやら前言を撤回する気は全くないようです。言うべきことは言った、とばかりに、スマホをみて帰りたそうにしています。

「あのババアにまた会わなきゃならないのか」

「さっきから言ってるババアってなんなの」

「どこにも帰りたくないのなら、早くしろ。電車が走り始めたら、もうあっちにはいけない」

「あっち、って」

 娘には、聞きたいことはたくさんあり、知りたいこともたくさんありました。しかしその全てが本当はどうでも良いことだと、直ぐ後に気づきました。

 それを知ろうが知るまいが……、行き先も帰る先も一緒だったからです。

「……しっかり見ててくれる」

「しっかりつまらないだろうな」

「つまんないからしっかり見てて。一人で滑ったら目も当てられないでしょ」

「そういうもんか。誰にも見られなければノーダメージ、だと思っていた」

 娘は検討はずれな男の納得をよそに、深呼吸をします。

 かつて宴会芸の鉄板として使っていたあのネタを。

 彼女を初めて呪った、そして今も呪い続けているその楔を。

 

 今、引き抜くために。


「ルミカです。表参道でアパレル系の仕事してます。気軽にコーディネートさせてくださいね」



「終わりか」

「終わり」


「終わりか」

「終わり! なんだよ、ないよ一発芸なんか突然言われたって!」

「そうか。まぁでも十分つまらなかった」

「これでも釣れてた時期があんだよ! うっせぇわほっとけ! あ、時計! なんやかんやもうすぐ始発動くじゃん!」

 バーテンも、男も、自分を謀って弄んだんだ。最初のうち、娘……ルミカはそう思っていました。それが証拠に振り向いて見れば、もうすぐシャッターの上がる準備をした下北沢駅があって、その下には酔い潰れた同じくらいの若人がたくさん転がっているはずでした。

 それと前後して、でしょうか。振り向く瞬間でしょうか。それに気づいたのは。

 それら一切の喧騒が、全く聞こえなくなったことに。


「なんじゃ、今の」


 最初、それが自分にかけられた言葉だと認識できなかったのは、ひとえにそれが物理的に斜め上から投げかけられたからでした。

 見上げる位置から人の声がする。その非現実を受け入れざるを得なくなったのは、ルミカがそれを見上げてしまったからでした。

 空中にあぐらを掻いて浮いている、真っ黒な髪と翼を持った。

 それはそれは美しい、女の人を。

「……は?」

「今ので終わりか?」

「はい」

「さようか……」

 浮いているというのは、もしかすると正確ではないのかも知れませんでした。その人はルミカの背丈よりはるかに長い、錫杖の上に座っているようにも見えたからです。どうやってバランスとってるのか、錫杖が尻に刺さりはしないのか、とか言った疑問はありますが。

「お主、名はなんという」

「ルミカです。十六夜ルミカ」

「名前の方がよっぽど面白いな」

「そういう、あなたは」

 ルミカはそこで言葉に詰まります。何を訊いても、しょうがなかったからです。

 あなたの名前は。

 なぜあなたの声しか聞こえないのですか。

 あなたは、何者ですか。

「名は体を表す、というが」

 そんな逡巡をよそに、真っ黒な女の人は錫杖から飛び降ります。足音もしません。ただ、錫杖の先についたたくさんの輪が、シャラン、と綺麗な音を立てたのは、はっきりと聞こえました。

「お主は月の眷属なのだな。十六夜とかいう都合のいい苗字に、三日月と月光を名に冠している。それはお天道様の元では生きづらかろう。名前からしてド陰キャなのだから」

「……陰キャは否定できないけど厨二設定つけるのはやめて」

「しかし『十六夜』ときたか。これはこれは、迎え甲斐がある」

「やめてったら。これ以上私のことバカにするなら帰る」

「どこに」

 それは鋭い忠告でした。しかし同時に、とても温かな言葉でした。

「それがないから、わっちがここにいるのじゃろ」

「知ったふうに。私の何を知ってるって」

「お主のことは知らんが、お主のような奴のことはたくさん知っとる。なんせたくさん見てきとるからな、『裏北沢』への水先案内人として」

 あくまでも優しく、女の人はルミカを諭します。

「のう、もう一度聞く。わっちと共にくるか?」

「『裏北沢』って」

「上でも下でも、北でも南でもない。どこでもない場所じゃ。じゃがどこにも行かず、ここにあり続ける。在りし日の、在るべき日の、在ってほしい日の、下北沢の姿じゃ」

「そんな都合のいい場所なんて、ない」

「ある。顔を上げて、あたりを見てみよ」

 その瞬間に、まるで叩きつけられるような喧騒が戻ってきました。しかしそれは酔っ払いがあげる歓声ではありませんでした。

「……線路が、ある」

 そしてがらんどうだったはずの駅前広場には、雑然もこうまでくればいっそ清々しいくらいに人で溢れかえった、ボロボロの建物がありました。でてくる人は皆、食べ物を抱えています。入って行く人は皆笑顔です。ルミカがその光景を知る由もありませんが、ありし日の下北沢市場がそこに在ったのです。

「これはわっちの裏北沢じゃ」

「あなたの。ということは私のも」

「それは、お主次第じゃな」

 そう言い残すと、女の人は錫杖を突きながら市場の方に歩き去っていきます。かと思うと突然振り返り、開いている左手を差し出しました。


「わっちは朝飯を買いに行くが、お主はどうする? 十六夜ルミカ、月の眷属。欠けゆく月の長よ。後悔はせんだろうが満足するとは言わん。ただ、お主の寝床くらいは確実にあるじゃろうよ」

「……」

 ルミカは、呆然としていてしばらく動けませんでした。目の前に広がっている光景に圧倒されたせい。突然に帰る場所をくれると言われたせい。

 何より、それが嬉しかったせい。


「……はい」


 そう返事をすると、女の人は破顔してルミカが伸ばした手を取りました。

「そう来なくては。ほれ、急げ急げ。朝市は戦場じゃ」

「わっ、待って! まだあんたが誰かもわかんない」

「そんなことは瑣末なことじゃが、今のうちに教えておくかの」

 朝市の人だかりに向かって不敵に微笑みながら突っ込みつつ、その女の人は言いました。


「黒魂こんこ、裏北沢の水先案内人、つまり天狗じゃ。気さくにコンコさんと呼ぶがいい」

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裏北沢文芸『黒魂こんこと裏北沢』 瑞田多理 @ONO

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