思い出は其々の
幸まる
ホットミルク
領主館の廊下を、ルイサは覆いの掛かった盆を持って歩いていた。
廊下の窓から見える大きな庭木は、最近の気温低下に伴って、日に日に葉の色を変えている。
秋が深まり、冬が近付いている。
ルイサは扉の前で足を止めると、いつも通りのタイミングで三回ノックした。
そして、返事を待たずに扉を開けて入室する。
このノックは、部屋の主からルイサだけに許された合図であるから、返事を待たずに開けて良いことになっていた。
この部屋の主は、前領主の老紳士。
歳を重ね、昨年連れ合いを亡くして偏屈さを増した彼は、ルイサが専属侍女として仕える主人だ。
老紳士は、ベッドの上で上半身を起こし、大きな窓から見える庭木をぼんやりと眺めていた。
十日程前、老紳士は日課の庭園散策中に、段差で
元々、古傷の為に杖をついて歩いていた彼は、更に膝を痛めたことで部屋から出なくなってしまった。
動かないとますます身体は弱るもので、一昨日から風邪気味でベッドの上だ。
そして、今日もぼんやりと窓の外を眺めているのだった。
ルイサは静かにベッドに近付くと、老紳士に声を掛けた。
「大旦那様、ホットミルクをお持ちしました」
「……ホットミルク?」
老紳士は、窓からルイサの手元に視線を移す。
覆いを取った盆の上には、薄く湯気の立ったカップが置かれてあった。
ルイサに差し出されて、老紳士はカップを受け取り、そっと顔に近付けて香りを嗅ぐ。
そしてその表情を険しくした。
「……お前、これをなぜ知っている?」
「大奥様が教えて下さいました」
「彼女が? このレシピまで、お前に?」
老紳士はこめかみをピクピクと震わせた。
「これは、彼女が私の為に作ってくれたレシピだぞ! 二人だけの、思い出の…」
カップを持つ指に、力が籠もる。
ルイサは元々、昨年亡くなった老紳士の妻の専属侍女だったが、妻の遺言により老紳士の専属となった。
だが、彼は未だにこの
仕事は出来るが、いつも澄まして愛想がない上に、言葉選びが
そして、自分の知らない妻のことを、よく知っている……。
ルイサは片眉を上げる。
「嫉妬は見苦しゅうございます、大旦那様」
「しっ、嫉妬!? みぐる……っ」
背の高いルイサは、あうあうと口を震わせる老紳士を見下ろす。
「全く面倒なお方ですね。大奥様はレシピは教えて下さいましたが、その思い出は内緒だと仰って、私には話して下さいませんでしたよ」
「…………そうなのか?」
「何でも話せば良いというものではありませんもの。ただ、大旦那様が弱気になられたら、
老紳士は、両手の中の温かな飲み物を見る。
甘いバニラの香りの中に、僅かにラム酒の芳香が混じるそれは、愛する妻が夫を元気付けたい時に、必ず手づから作って持って来てくれたものだ。
『あなた、その時が来たら、必ず光の速さで迎えに来ますから、私が来るまでは元気でいる努力をなさってね……』
最期の日、彼女は夫の手を握ってそう言った。
風邪を引いて、こうしてベッドに寝転がっていても彼女が迎えに来ないということは、まだ生きていろということだろうか……。
「……早く迎えに来て欲しいものだ」
思わずそう
「こんな有り様では、大奥様が迎えにいらしても速すぎて付いて行けませんわ」
「やかましいわっ!」
「そうそう、その様に、無駄に元気でいらっしゃいませ」
ぐぬぬ…と唸りながらも、老紳士は手の中のカップに視線を落とし、一度愛おし気に揺らした後口を付ける。
「……………ぬるい」
「それは大旦那様がもたもたして飲まなかったからでございます」
「ぅぬっ、お、お前が入れたものは不味いのだっ!」
「当然でございましょ」
ルイサは少しも動じずに、窓の外を見た。
この部屋の窓からも、色を変え始めた木々が見える。
「大旦那様に美味しく入れられるのは、大奥様以外におられませんもの」
赤く色付き始めた葉は、老紳士の妻の髪色によく似ていた。
老紳士は
「…………明日も入れてくれ」
「はい、大旦那様」
厨房に来たルイサは、下働きのサシャに盆を返す。
手渡された盆のカップから、仄かに甘い匂いを感じて、甘いものに目がないサシャは顔を近付けて笑む。
「これ、いつもハイスが大奥様に入れて差し上げていたホットミルクですね。今日はルイサさんが作ったんですか?」
ハイスは製菓担当の料理人だ。
菓子に使った後のバニラビーンズのさやを再利用して、ラム酒入りのハニーミルクにバニラの風味を付けたのは彼だ。
ハイスと仲の良いサシャも、こっそり飲ませてもらったことがあった。
「いいえ? 大奥様と同じで、今日もハイスにお願いしたわ」
ルイサは僅かに微笑む。
「何でも話せば良いというものではないものね」
《 終 》
『参考・引用/蜂蜜ひみつ/てんとれないうらない/第111話 何もかも 許されるのなら 光の速さで 会いに行く』
思い出は其々の 幸まる @karamitu
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