七月三日

 平太郎は何を怖がるだろうか――。

 山ン本五郎左衛門は、そればかりを考えながら手を動かしている。彼が捏ねているのは、むちむちとした感触の、薄桃色をした、悪臭を放つ肉の塊で、今五郎左衛門はそれを漸く、両抱え程の大きさの円形に作り終えたところであった。肉塊と言っても弾力はなく、むしろ泥団子のように柔らかで、爪などの尖ったものを使えば、表面に何かを刻むこともできる。

 黄昏を過ぎ、そろそろ行かねばならぬ。故に山ン本五郎左衛門の焦燥も一入である。これまでの経験を働かせて、ああでもないこうでもないと自問自答を繰り返し、結局まだ、答えに辿り着いてはいないのだ。

 一日目は巨大感と異形感で勝負した。二日目は――これは箸休め程度しかできなかったが、家が焼けたり水浸しになったりという、実害の幻影で勝負した。いずれも、平太郎の眉一つ動かすことはできなかった。三度目の正直ということで、そろそろ何かしらの手ごたえが欲しいところだ。怖がらせるまではいかなくとも、あの平気の平左顔を、多少なりとも歪ませなければならぬ。

 化け物にはさして怯えぬようだから、これで行こうか――。

 黄昏を過ぎて暗くなりゆく空を睨めながら、両手の腕を忙しなく働かせて、組んだ足の上に置いた肉塊に、世にもおぞましく、醜い――これならば万人を戦慄せしめるであろうと五郎左衛門が深く信じる形相を、巧みに彫りぬいていく。自分を納得させきる答えまでには至らなんだが、一応の方向性は決まった。何とか、今宵の仕事までには間に合いそうだった。



 その夜のことである。

 もうじきやってくるかと、四方に目を光らせつつ、稲生平太郎は居間にいた。

 勝弥は叔父宅に預け、家来の権平は他所で寝泊まりしている。今宵は権八も来ない。この広い麦蔵屋敷に、たった一人である。

 少々心細く思われないでもなかったが、権八がいたところで特に役に立たなさそうなのは、昨日の様子から概ね察していた。相撲においては比肩する者を持たぬ権八、力試しならぬ肝試しでは、自分に数段劣るようである、と平太郎は見ている。親友が恐れおののく姿を見て愉しむ趣味もないし、権八とて決まりが悪かろう。ただ、権八のところにも怪難はあり、その内容については気になるところでもあった。

 まあ、朝になれば向こうから報せに来るだろう――と独り言ちて、ごろりと横になっていると、居間の隅に小さく空いた穴が不思議と気になった。鼠が通れるか通れないかくらいの小さな穴だが、果たして、いつから空いていたものだろう。

 自然と、その穴に視線を注ぐ。と、その穴の奥から、ずぶずぶと音がして、平太郎が何だと身構えた次の瞬間には、ずぶちずぶち、ぶちょぶちょと肉の滴るような音を響かせて、何ら柔らかくて丸いものが飛び出てきた。

 立ち上がりたい衝動を抑え、腕組みをしたまま、平太郎はそれを睨む。

 現れたのは、女の首だった。そこから下はなく、逆さまである。

 白粉をつけた女の首だけが、笑いながら歩み寄ってくるのだ。

 振り乱した髪の毛が二房に分かれていて、それをまるで足のように使って、じわりじわりとやって来る。髪の毛の集まりだけで頭部の重量を支えられるはずはなく、髪を足代わりにして歩くというよりは、首を引きずるようにして進んでくる。

 目は三日月のようにひん曲がり、ほとんど白目を剥いていた。にたにたと笑いを浮かべる唇の、端っこから零れる歯の白さが生々しく、気味が悪い。年のほどは知れぬが、激しく動き回るものだから白粉が罅割れていて、恐ろしいというよりは無残な顔である。首から先の切断面は、肉が爆ぜたようになっていて、赤いべろべろが切り口の周りで揺れている様子であった。

 首はずりずりと平太郎のところまで来ると、膝に上がったり、肩に上ったりと、戯れの様子を見せた。さらには長い舌をべろりと出して、平太郎の顔を嘗め回すのだ。至近まで来ると、腐肉というよりは、流れの止まった川のような嫌な臭いが鼻を突いた。

 これにはさすがに平太郎も顔を歪めた。斬首された女と二人きりの夜など、決して気持ちの良いものではない。刀で斬りつけようかとも思ったが、死人を斬って刃を穢すのも気が引けたし、正体が知れぬ以上、迂闊に仕掛けることはできぬ。舐られている間は我慢して、歯でも立てられた時には抵抗しようと、とりあえずは我慢を続ける。

 生首はしつこかった。平太郎を嘲笑うように、その周りを歩き回り、身体に触れ、舐り、足の上で跳ね、けたたましく笑う。初めのうちこそ、その惨たらしさに嫌悪を感じていたものの、暫くすると目に慣れて、どうとも映らなくなった。平太郎は、やれやれと言うように首を横に振り、腕を組んで、鞘に眠ったままの得物を組んだ腕と足の間に差し入れて支えとし、そのまま目を瞑った。少しの間、自分の周りで飛んだり跳ねたり笑ったりする、生臭い肉塊の気配がしたが、やがてそれも気にならなくなり、平太郎は座したそのままの姿勢で眠りに落ちたのである。


 暫く経って目を覚ますと、女の生首は姿を消しており、夜はひっそりと静まり返っていた。今宵はこれ限りかと、うんと身体を伸ばし、床を敷こうと立ち上がると何か硬いものが頭にコツンと当たった。夜闇に慣れた目で見ると、何やら長いものが天井から無数に垂れ下がっているようなのである。背を屈めて行灯に火を点けると、青々とした巨大な瓢箪がいくつもいくつも下がっていて、夜風に吹かれてゆらゆら揺れていた。呆れるほどに大きいだけで、化物じみた目鼻などもない、本当に単なる瓢箪である。

 平太郎は面食らう様子も見せず、胡乱な目つきで瓢箪を見上げると、それにぶつからぬよう中腰で床を延べ、瓢箪が見下ろす、その真下で眠りに落ちた。瓢箪の蔓が、ひとりでに伸びて頬を撫でようが、瓢箪の尻が次第に降りてきて頭に接地しそうになろうが、平太郎は全く意に介さず、ただただ白河夜船である。夜明けとともに、瓢箪は消え去って、天井には何の痕跡も残ってはいなかった。

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呵呵 山ン本五郎左衛門 @RITSUHIBI

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