七月二日

 比熊山頂にある三次殿の塚を睨めながら、山ン本五郎左衛門は尖った爪で顎を掻いている。頃は七月二日の昼過ぎ。あと数刻もすれば、出かけねばならぬ時分となる。

 五郎左衛門の顔は、誰が見えても判然とするほどの不機嫌に彩られていた。昨夜同様の人のなりをしているが、たとえ顔面を構成している目鼻が人のそれだとしても、表情が形づくるのは人のそれではなく、明らかに魔縁の形相なのであった。

 不機嫌の種は、むろん昨夜のことである。

 一つ目眼の化け入道――我ながら、大した妖怪を造詣したものだと思う。

 迫力、威圧感、見てくれの不気味さ、振舞の荒々しさ凶暴さ――どれを取っても申し分ない。その上、三津井権八のところにも一眼童子を送り込んだ。それに加えて、石上所の屋敷方にまで魔の手を広げ、少しばかりの怪事を生じさせて驚かせてきた。久方ぶりで、山ン本五郎左衛門自身も気分が高揚していたのだろう。非常に豪快な大盤振る舞いだったわけだ。

 随分と良い気持ちで日の出を迎えたはずだったのが、つらつら思い返すと、満足の気持ちが少しずつ削がれていくことを否めずにはいられなかった。

 朝内に一眠りして、次に目を覚ました時には手応えは殆ど残っておらず、代わりに募り募ってきたのが、不満であった。

 自分の仕事に不満はない。

 しかし――。

 その仕事に見合った甲斐を得られたかと問われれば、決してそうではない気がするのだ。

 もちろん一定の手応えはあった。三津井権八に対しては期待以上の成果が得られただろう。屈服させた相手として、八十六人目に加えても良いくらいである。また稲生平太郎の方でも、家来の権平を追い出すことに成功した。今朝、眷属の狐狸に盗み聞きさせたところでは、権平すっかり参ってしまって、平太郎に暇をくれろと頭を下げたらしい。それに対して平太郎が代理の都合をつけろと返したので、当面の間、権平は昼間のうちだけ働いて、夜は外泊することになったのだそうだ。山ン本五郎左衛門にとって権平は道端の蟻――いてもいなくても同じだが、平太郎の周りから人が遠ざかるのは、好都合であった。

 ところが――である。

 肝心の稲生平太郎はどうかというと、これが、少しもこたえた様子がないのだ。

 自分が怪異に襲われる理由については流石に身に覚えがあり、こうしたことが今後も続くと判断したか、早朝に親戚の家に相談に行って、当分の間、叔父の川田茂左衛門の家に幼い勝弥を預けることに決まったのだそうだ。つまり身の危険は感じているのである。が――それはあくまでも用心警戒の類であって、恐怖とは無縁の代物だ。事実、平太郎にも当分親戚方の厄介になってはどうかという話が上がったのだが、他ならぬ平太郎自身がどんと胸を張って、怪異の正体を見極めずにこの家を去るわけには行かないと、きっぱり言い切ったのだという。

 ――そう簡単には行かぬと思うていたが……。

 ――そう簡単にいっては面白くないとも思うていたが……。

 昨夜の平太郎の態度は今思い返しても、敵ながら天晴としか言いようがなかった。

 微塵も怯えぬ。微塵も動かぬ。その闘志は、どんな雨にも闇にも抑え消せそうにない。

 昨夜、山ン本五郎左衛門は平太郎を連れ去る気も、取って食う心算もなかった。平太郎の身体を掴んだのは、あくまで「フリ」である。が、仮に本気で平太郎と取って食おうと思って襲ったとしても、彼をあの場所から引きずり出すことはできなかっただろう。魔縁との勝負で物を言うのは、意志の力である。体力や体躯は、意志の力を燃え立たせる油に過ぎない。平太郎があのまま頑張っている限り、山ン本五郎左衛門は平太郎をあの場所から一分たりとも動かすことはできなかったのだ。

 あの若さで、あの意志の力――とんだところに逸材が隠れていたものである。

 八十六人目にして、初めて――手応えのある人間に出会ったのだ。

 ならば――存分に渡り合えるというものだ。

 昨夜の平太郎の眼差しを思い出し、山ン本五郎左衛門の心にも彼の闘志が移り憑いて来たかのようであった。他を寄せ付けぬほど不機嫌だった顔がようやっと和らいで、鼻孔を膨らした、さも相手を馬鹿にしたような表情を見せる。

 ナニ急ぐことはない。

 たぶん今宵も、平太郎は屈せぬだろう。今宵は、その程度のものしか用意していない。

 これまでにも、数日を耐えた若者ならばいくらでもいたのだ。

 要は、それがいつまで持つか――それ一つだ。

 黄昏が近づいてきた。山ン本五郎左衛門は身を翻し、漆黒に翼を濡らす、山伏装束の巨大な烏天狗に姿を変えた。この姿であれば夜闇に溶け込み、人目には殆ど目立たない。山ン本五郎左衛門は翼を広げて地面を蹴り、比熊山から飛び立つと、獲物を見つけた鳶のように風を纏うて直滑降し、平太郎たちのいる村に向かった。



 その夜のことである。

 稲生平太郎は、三津井権八と一緒に家にいた。

 権八のところにも化け物が出たことは今朝、本人の口から聞いている。平太郎も自分を襲った化け入道のことを話して、権八を驚愕せしめた。そうしてどちらから言い出すともなく、今宵は二人で同室にいて、化物の正体を見極めようということになった。屈強の二人なら、まさか化物に誑かされることもあるまいと、権八は相撲で鍛えた太腿をひたりと打って笑った。

 だが、今の様子では権八はあてになるまい――と、平太郎は内心思っている。

 夕暮れ近づき、辺りが暗くなりだしたときから権八の口数が目に見えて減ってきたのだ。顔色も、暗がりの中でもそうと判然わかるくらいには蒼かった。飯もろくには食わないし、猫の気配を察した鼠のように、忙しく四方に視線を配っている。

 対する平太郎は、平太郎自身が呆れるくらいに呑気だった。権八が食わずにしまった分の膳も平らげ、飯が終わると行灯の横にごろりと寝転がり、腕の頭の後ろで組んで目を瞑っていた。

 権八も呆れ顔で平太郎を見ていたが、恐怖を感じろと言われても、今の平太郎にはできぬ相談だった。もちろん、いついかなる時にも応じられるよう、刀だけは昼間のうちにしっかりと手入れして、肌身離さず携えている。その程度の用心で、後は野となれ山となれ、だ。

 そのうちに夜も更けた。怪至るまでに心身を落ち着けるため横になったのだが、何も起き出す気配がないので本当に眠りそうになった。と、急に、瞼を閉じた暗闇の視界が、昨夜と同じように昼間のように明るくなった。

 ひゃあ、と権八が小さく悲鳴を上げるのが聞こえる。平太郎は目を開け、飛び起きた。

 目に飛び込んできた光景――それが、平太郎を拍子抜けさせる。

 行灯の火が、まるで命あるように高々と燃え上がっているのだ。

 紙を貼っていない上枠を超えて、今や天井に手を伸ばそうとしている。広い範囲に燃え広がっているというよりは、ただ真上だけを目指して、炎自体がぐんと引き伸ばされているように見えた。

 権八が片膝を立て、平太郎に、どうすると言いたげに目配せする。平太郎は肩を竦めて、放っておけという風に手をひらひらさせた。そうして胡座を掻き、懐手をして、背中を柱に預ける。

 権八は火と平太郎とを交互に見て、何か意見したそうであった。が、平太郎があまりに泰然自若としていたので、彼もまた調子が狂ったのだろう。何も言うことなく、ただ気味が悪いことには変わりないので、寸時置いてから、暇乞いして去っていった。

 平太郎は変わらず、火を見ていた。火は既に天井を舐めている。それでも平太郎は水を掛けることもせず、ただ、じっと、目の前で踊り狂う火を、どこか物憂げな色さえ湛えた眼で眺めていた。

 分かっていたのである。どんなに勢いを増しても、熱さを感じない。どんなに天井に触れても煙は立たぬし、物が焼ける臭いすらしない。陰火は物を燃やすことはないのだ。家が焼ける心配がないのなら、殊更騒ぎ立てる必要もあるまい。

 暫くして、本当に眠くなった。陰火が燃え上がる真横で、平太郎は床を敷き、ごろりと横になった。護身にと刀だけは離さず、しかし完全に警戒を解いて目を閉じる。暫くは炎の光が眩しかったが、右腕を目の上に置くと気にならなくなった。どこか青みを帯びた光が、ちら、ちらと揺らぐのを瞼越しにみていると、まるで海の中にでもいるような気がした。



 暫く経ってから、平太郎は目を覚ました。居間の中が、何となく騒々しく感じたのだ。何かが轟々と渦巻いている。寄せては返す波のような――潮騒のような――。

 目を開いた。そうして、あれまあと素っ頓狂な声を出した。

 居間が水浸し――否、そんな程度ではなかった。

 居間が浸水している――否、それも違うだろう。

 むしろ、居間が池あるいは海になっている、と言った方が良いかも知れぬ。黒々とした大水に、身体は腹ぐらいまで沈んでいた。

 やれやれ、といった表情で平太郎は周りを見回す。行灯の炎は、既に消えていた。水は汲めども尽きず、されど増えもせずという具合で、開け放した障子戸を通って、庭にバシャバシャと流れ出ている。轟々という潮騒。本当の海のような響きだ。

 当然、自分の身体もしとどに濡れているはずだった。

 が――不思議と、冷たさは感じない。

 腹まで水に使っているのに、平太郎が立ち上がろうとしないのは、そのためである。目には見えていても、実態を感じないのだ。

 これも幻術の類なのかも知れぬ。あるいは、己の夢なのかも知れぬ。

 寝る寸前、陰火の青を海の色と感じた。その意識の名残が見せる夢に他ならぬのかも知れぬ。

 まあ、夢幻のいずれだとしても、実態を伴わないのだから溺死の心配はあるまい。普段は寝覚めが良いと言うに、この時ばかりは寝ぼけている自覚があった。もう、どうでも良いという気持ちになって、いつまでも大水溢れ返る居間の床に、ごろりと寝転がる。

 ざぶんという水音が聞こえた、かどうかも定かではなかった。平太郎はそのまま寝入った。息苦しくもない、心地よい眠りだった。



 夜が明けて起きてみれば何のことはない。天井に焼け跡があるわけでもなく、居間が水浸しなわけでもない。何もかもが、昨晩の怪至る前と何も変わらないのである。

 こんなものか、と平太郎は肩を竦めた。これだったら、一昨日の晩のほうが凄まじかったと。もちろん、山ン本五郎左衛門の事情など、平太郎に分かるはずがなかった。あの魔縁が七月朔の晩、勢いに乗りすぎて力を使い過ぎた結果、二日目については取り敢えずの間に合わせ物で済ましたことなど、知るよしもなかったのである。

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