七月朔日

 さていよいよ当日である。山ン本五郎左衛門は気の昂りを抑えつつ、比熊山の千畳敷で、今宵の手筈を入念に確認した。

 何事も最初が肝心だ。今日は、稲生平太郎、三津井権八両名を訪れる心算だった。彼らがそれぞれの家にいる時分に、二つの姿を取って同時に現れるのだ。二人一度に驚かせば、団結の力が恐怖を撥ね退けてしまうだろう。かと言って時間差で現れれば、片方が怪異現出を片方に知らせて、後の方を用心させることにもなりかねない。二人を同時並行で驚かすのは中々気を張る仕事だが、出鼻を挫かれるわけにはいかなかった。

 空を切り裂いて血を流したかのような黄昏を過ぎれば、山麓の夜はすぐ訪れる。藍色の空に星が瞬く頃、山ン本五郎左衛門は川の流れを下って麓に下り、丑三つの頃になるまで姿を隠して待った。山ン本五郎左衛門が山を下りる際は決まって、不穏な気配が立ち込める煙の如く、比熊山から下りてくるような感じを誰しも覚える。通りには犬猫の姿さえなく、夜が更ければ更けるほど、皆息を潜めるように静まり返るのであった。五郎左衛門が纏う気配は空に黒雲を呼び、篠つく雨が夜を掻き乱す。

 そろそろ潮時か――と、山ン本五郎左衛門は立ち上がる。今はどこにでもいそうな、あり触れた村衆のなりをしていた。その姿で五郎左衛門は、平太郎の家と隣家との間の練塀の傍に立ち、両手を自分の顔に当てて、ちょうど子供が土塊をこね回して遊ぶかの如く、自分の顔をぐにゃぐにゃと弄繰り回し始めたのである。

 まず、こぶし大の肉の塊を揉みだし、グッと握ってプツンと切った。出来上がった小さな肉の塊を虚空に放り投げると、それが鼠の如くちょろちょろと動き出して、塀にそって走り去って姿を消した。右眼の上部分がごっそり抉れたようになった山ン本五郎左衛門だが、ぐにゃぐにゃと顔面を作り替えているうち、輪郭が元に戻ったばかりか、次第に肥大していく。僅かな月光が塀に描く五郎左衛門の影は、びきびき、ぎちぎちと肉を軋ませる音を立てながら歪に折れ縊れ曲がり、どんどん大きくなっていくのだった。――。



 平太郎はぐっすり眠っていた。蚊帳の中で。横には、弟の勝弥がいた。

 どんな時でも、どこでも熟睡できるのが自慢であった。が、だからと言って寝過ごすことはなく、必要とあらばすぐにでも覚醒できる性質である。弟の勝弥と、家来の権平との三人暮らし。夜盗の類に立ち向かえるのは自分だけである。家を守らねばならぬ責任が、自分に必要以上の熟睡をさせないのだと、平太郎は考えていた。

 剣呑な気配がないうちは、眠りの中を泳いでいられた。篠つく雨音も全く気に障らなかった。

 しかし、真夜中を過ぎた頃のことである。

 真昼間のような光が、瞼を通じて眼に飛び込んできたように思われて、平太郎はすかさず飛び起きた。

 見ると、縁側に面した障子が火でもついたように煌々と明るくなっている。それ自体が発光しているわけではなく、外に眩しい何かがいるのだ。一瞬の躊躇も覚えず、平太郎は障子を開こうとした。と、昼間なんともなかった障子が、大岩でも立てかけてあるのかと思われるくらい、押しても引いても微塵も動こうとしない。業を煮やし、障子を蹴り破って縁側に転がり出た。

 夏の日差しを真向きに見たような眩さに思わず目を閉じた。その隙を突かれて、脇腹の当たりをがっしと掴まれた。凄まじい力で、下腹に力みを入れていなかったら、ぶちっと千切れていたかも知れぬ。平太郎は敷居に足を踏ん張り、左手を家の柱にかけて、腰を深く落として動かされまいとした。昼間のような眩しさは、その間も続いていたが、時折ふっと消えてしまう。そうして闇が訪れそうになると、また点くといった具合に、奇妙な明滅を見せるのであった。

 ぎりぎりと歯を噛み合わせ、凄まじい力に耐えながら平太郎は目を見開いた。既に自分は、あまりにも巨大な腕に胴をがっしと掴まれており、そのまま庭に引き摺り出されそうになっている現況を見て分かっていた。腕は獣のような茶色とも、死人のような鉛色とも見え、筋張り、骨ばってはいるが逞しい。そして枝のように長く、針のように鋭い毛を一面に負っていた。指は人間と同じ五本で、それを体に絡めて自由を縛る。脇腹の当たりに鋭い勇みを感じていた。恐らく爪も、猛禽が持つ如く尖っており、それが食い込んでいるのだろう。

 また明るくなった。明滅の連続は、天地昼夜が一瞬ごとに引っ繰り返るかのような混乱を覚えさせたが、平太郎は次第に目を慣らしつつあった。そうして、その光の正体も彼には冴やかと見えていたのである。

 目だ。巨大な、一つ眼だ。

 見上げるほどに巨大な、一つ目の化け入道が、向こうの家との間の練塀越しに顔を覗かせ、腕を伸ばし、平太郎を捕まえていたのだ。肩から下は塀に隠れているが、たけ十丈はあろうかと思われるほどに肥大した恐ろし気な頭部であった。頭髪はなく、単眼の下は、猫や獺を思わせる口元をしていた。ちろりと除く犬歯が鋭い。総身にごわごわとした毛を生じさせていることもあって、獣じみた姿である。雨の湿気に混じって鼻を掠める匂いにも、獣じみた臭気が含まれているように感じた。

 平太郎は目を怒らせ、化け物を真っ向から睨んだ。化け物の単眼が閉じる。夜が来る。寸時を置かず、また開く。昼間の如く明るくなる。光の明滅はまばたきであった。化け物は鼻から熱い息を吹きかけ、平太郎を柱から引きはがそうとする。

 平太郎は深く深く、腹から息をするように努めつつ、右手を後ろに引いて、どん! と音がするくらいに強く突き出した。権八直伝の張り手である。続いて右手を高々と振り上げ、拳骨を叩き込む。と、ほんの僅かだが相手の力が緩んだように思われたので、敷居を蹴って、後ろに飛ぶように体を退くと、ばりばりと音を立てて袷の着物と帯とが避け、平太郎は巨大な腕から逃れた勢いのまま、後ろに引っ繰り返った。

 そのまま寝間を転がり、刀を掴んで立ち上がる。その時には遅く、向こうの家の練塀には化け物の姿はなく、ただ一筋の光のようなものが居間の床下に入っていったのを見たような気がした。

 逃がすものかと家中を走り回っている最中に、台所の隅で気絶している権平を見つけた。化け物に襲われている時、権平の助太刀がなかった理由が分かって、平太郎はふむ……と唸り声を上げながら腕を組んだ。単なる化け物の悪戯にしては、妙に用意周到である。家のこと、家人のことを知り尽くし、しっかりと策を練った上で挑んできているような気がした。

 しかし、その目的となると皆目見当がつかない。自分が化け物の不興を買う理由はすぐに思いつくが、化け物たちがここを訪れることによって自分をどうしたいのかが、まだまだ全く分からないのだった。そうなると気がかりなのは弟のことである。

 これは、厄介なことになったかも知れんな――と、稲生平太郎は苦々しい顔で鼻を掻いた。気が付けば雨は止んでいて、湿った夜の気配から、件の化け物の臭さが綺麗に消えて、怪事など初めから何もなかったかのような、静かな穏やか無明に包まれていた。



 三津井権八の家に現れたのは、やはり一眼の化け物であった。が、背丈は、平太郎の家に現れたそれよりはずっと小さく、童子ほどの背丈でしかなかった。この一つ目童子を造る際、山ン本五郎左衛門がこぶし大の肉塊しか与えなかったのが理由である。が、五郎左衛門の読み通り、権八は平太郎に比べると、体格は優れていても肝は随分と頼りないらしかった。一眼童子は目をぎらぎらと輝かせながら、権八が寝ている蚊帳の周りを踊り歩いただけなのだが、それだけで参ってしまい、動くこともできなかったという。権八と平太郎は家が隣なので、平太郎が化け物に襲われながらも、どったんばったん対抗していることは、夜の無明を騒がす物音で気づいていたのだが、自分の許に現れた怪事に手いっぱいで、助太刀など到底できるものではなかったのであった。

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