七月まで

 山ン本五郎左衛門は考えに考えた末、実行開始を七月の朔に定めた。

 支度の猶予は一月と十余日。いつもはそこまで念入りに支度を整えるわけではないが、今回は二人の若造の人――否、妖怪を食ったような態度がとかく気に食わず、二人の肝を潰すことに全力を以て挑むことにしたのである。そこには、既に八十五人を済ませて、人を怖がらせることにすっかり腹をくちいらせてしまった己への叱咤激励を含めることもできると、五郎左衛門は考えていた。

 二人が百物語をして山を降りた、その日の黄昏時から山ン本五郎左衛門は動いた。

 数多の眷属にそれぞれの用事を言いつけ、また自らも、山の奥から麓村まで忙しく歩き回って、来る七月朔に向けて、不足のないように万事を整えていったのである。

 まず確かめるべきは、二人の素性だった。これは、すぐに分かった。

 一度ならず二度までも、比熊山を訪れた小生意気な若者――名を稲生平太郎という。年は十六。山での見立てよりは年が上だが、妖怪物怪の類にとって人間の年齢の多少なぞ、心底どうでも良いことである。

 この平太郎について、山ン本五郎左衛門は調べることにした。

 稲生平太郎の父、稲生武左衛門は四十を過ぎるまで子宝に恵まれなかったようだ。そこで家中の中山源七の次男、新八を養子に迎え、これを源太夫とした。そこから三、四年、人暦で言う享保十九年に生まれたのが平太郎である。

 平太郎が十二歳になる年に弟が生まれ、これが勝弥と名付けられた。勝弥を授かって間もなく、平太郎の両親は揃って死に、家督は新八が継ぐことになる。ところが、そこから四、五年して今度は新八が病に仆れ、実家での長期間の養生を必要とすることになった。主を失った稲生の家は、平太郎に預けられることになり、平太郎はこの「麦蔵屋敷」という二つ名のある稲生の家で、五歳になる勝弥を、家来の権平と共に養育しながら暮らしている、とのことなのである。

 一方の大柄な体躯の男の方だが、これは予想に違わず、相撲取りであった。見た目通りの偉丈夫で、十七の頃から諸国を修行し、ある家中に召し抱えられて三津井権八の名を得た。現在は故郷に戻り、平田五左衛門という男の持ち家を借り、住んでいる。この家は平太郎の隣家にあたる。この男の相撲は、有名なもので、安芸の相撲取りが寒稽古に集った折なども、専ら指南役に回るほどの腕前だということである。

 ここまでを聞き知った山ン本五郎左衛門。肚の中で、色々と算段を巡らせる。

 ――先に狙うべきは、やはり稲生平太郎か。

 権八は一回しか山に入っていないが、平太郎は二度も山に入っている。見かけに騙されてはならぬ。気丈夫というなら、権八よりも平太郎の方が上だろう。先に平太郎を片付ければ、権八は、恐怖や不安から自分を立ち直らせる寄柱を失うことになるわけで、すぐ参るに相違ない。

 ただ一点、厄介なのは弟である勝弥の存在である。これがまだ五歳。当然ながら、驚かし、怖がらせたって何の価値もない。それどころか良くない方向に転ぶことすら考えられる。勝弥の身に危険が及ぶと知ったら、平太郎は憤るだろうか。それとも恐怖するだろうか。

 憤るならばまだ良いのだ。その怒りの感情ごと挫くことができれば、それはそれで恐怖心への足掛けになる。が、もし勝弥が狙われているということに、平太郎が恐怖してしまったとしたら――これは、すこぶる良くない。平太郎が抱く恐怖の対象は、怪異そのものでなくては意味がないのだ。肉親を失う恐怖を味わわせたかったら、人に化けて強盗に入り、勝弥を奪って殺すぞと言えば事足りる。しかし、それでは駄目なのだ。平太郎は、そののっぴきならない状況に敗北したというだけに過ぎず、山ン本五郎左衛門に畏れをなしたわけではなくなってしまう。

 狙うは平太郎。邪魔は勝弥。権八は――まあどうにでもなる。山ン本五郎左衛門は、これらを基軸として、平太郎の度胸を挫く仕掛けや算段を凝らしていった。手数は、多ければ多いほど良かった。たった二回、しかしその二回の出会いの印象で、山ン本五郎左衛門は、稲生平太郎という人間について、そう容易く参る肝の持ち主ではないと踏んでいたのである。

 時と季はめぐり、梅雨あけて以降、次第に夏の暑さがじわじわと染み出す頃合いとなった。比熊山の麓では、人々が夕涼みに川辺に出るようになった。平太郎や権八の住む近くには上り川と原川という二つの急流があり、上り川は比熊山の麓を回って五日市を過ぎ、十日市あたりで原川と合流する。石見国は太田川の源流であり、熊颪、蛍、名月など納涼にはもってこいなのだそうだ。

 夏夜のむさ苦しさを忘れんと、権八や勝弥を伴って白い砂原に腰をおろしている平太郎の姿を、山ン本五郎左衛門は川の中に身を潜めて、じっと眺めることがあった。

 もうすぐだ。今に見ろ。

 すぐにでも、その生意気な顔を恐怖でぐちゃぐちゃに歪めてやる――。

 そんな邪な闘志を胸に抱き、他所から見つけられぬよう、身体は川の水に溶かしていた。清澈な流れの囁きの狭間に、怨怨と低く唸るような、不気味な声を聴いたという者が、この一月ほどの間に増加したそうだが、それは山ン本五郎左衛門が麓に降りていたからである。

 そうして七月の朔までに、おおよその首尾は整った。

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