うみすを持つ

クニシマ

◆◇◆

 川端かわばた、と呼ばれていて、北川きたがわ、と呼んでいた。私と彼女の仲はあまりにも曖昧だから、確実なことはそれだけだ。

 十六歳から十八歳までの三年間をわざわざ同性だけの教室で過ごそうと決める人はみんなどこか歪んでいる。自分以外の何かしらによって歪められたのか、あるいは生まれついての歪みなのかというのはともかく、それはひとりの例外もなくそうだ。

 高校一年生の春、私は姿勢と目と発育が悪くて、外見も内面もこれといった長所はなく貧相で、あったものといえば軽い吃り癖だけだった。若い女たちは子供のように邪悪で大人のように賢明だ。私が喋るとひそひそ笑い、私に聞こえないところで私の話をするけれど、それ以上のことは何もしない。あのころ、校舎の中はいつも淀んだ空気で満ちていた。

 出席番号の順に並べられた座席の、私のひとつ後ろに北川は座っていた。私と同じように小柄で痩せっぽちだったけれど、私よりもずっと成績がよかったから、特に親近感が湧くようなことはなく、深く関わることもない、そのはずだった。

「明日、家出するから、ついてきて。」

 夏休みが始まる前の日、終礼が終わって教室から出たところを呼び止められ、突然そう言われたのだった。北川との会話はそれが最初だった。なんの話をされているのかすぐには理解できず、家出、と口の中でつぶやきながら、しばし彼女の顔を見ていた。眠っているように目が細かった。肉づきが悪いのか、頬骨がやや目立った。鼻のあたりに薄くそばかすがあるのを知ったのはそのときだったと思う。

 返事に迷いつつ、とりあえず連れ立って廊下を進み、そして校舎の外へ一歩踏み出した、あの瞬間の蒸し暑さがいまだに忘れられない。梅雨が明けたばかりの町は湿り気にあふれ、空は眩むほど青すぎて、気づけば「何時にするの」という言葉が口をついて出てきていた。待ち合わせ、とつけ加えるように言うのを聞いて、北川はにやにや笑った。歯並びが悪かった。決してかわいらしい笑顔ではなかった。ただ、自分の笑った顔と似ている気がして、不快には思わなかった。そうだ、多分、私と北川はよく似ていた。単に容姿がというより、どこかもっと核に近いところが。

 午後一時に学校の最寄り駅の改札口で待ち合わせることを決め、その日は別れた。私の家と彼女の家は逆の方面にあって、お互いの定期券の区間がそこでしか重ならなかったのだった。帰宅してから母に、明日からしばらく友達の家へ泊まりに行くと伝えた。そのころ、大学受験を控えていた二番目の姉がいつも軽いヒステリー状態で、両親はそれにずいぶん手を焼いており、私が家を空ければそのぶん対応すべき事項が減るため好都合だったらしく、簡単に了承を得ることができた。

 翌日、私は着替えやら何やらを適当に詰めたキャリーケースを引いて待ち合わせ場所へ向かった。約束の時刻よりも十五分ほど早く到着したけれど、北川はもうすでにそこにいて、早いねと言うと何が面白いのかひとりで静かに笑うのだった。そうして、適当な電車に乗って、ともかくは終点まで行ってみようということになった。北川は家の金を持ってきたのだと言ってかなりの大金を所持していた。大丈夫なのか尋ねると「別に、川端に迷惑かけないよ」とだけ返ってきた。

 二時間弱かけて辿り着いたのは、海も山もない、取り立てて特徴のない郊外の町だった。駅の裏手で見つけた安いビジネスホテルに宿泊することを決め、そうやってそれから何日かふたりで暮らした。実りのない怠惰な時間だった。あてもなく散歩をして、隣駅の前にあるゲームセンターで遊んだ日もあった。一日中ホテルの部屋でテレビを見ていた日もあった。特別楽しいということはなかったけれど、学校でのみじめな日々よりずっとずっとましであるのは確かだった。

 けれど、そんな生活は一週間も経たないうちに終わった。普段の周期からずれて生理が来たのだった。備えがないわけではなかったけれど、そのころの私は生理痛がかなり重いほうだったため、慣れない土地のホテルで過ごすのは厳しいと思われた。なんとなく申し訳なさを感じながら北川にそう伝えると、意外にも彼女はあっけらかんとした顔で、じゃあそろそろ帰ろうか、と言った。

 帰りの電車に乗る前、北川は持ってきた金がかなり余ったからと駅の売店で飲料やお菓子などを大量に買い、半分ほど私にくれた。数日間の生活の費用をほぼ負担してもらっていたということもあり、ありがたく思うよりも心配が勝って、本当に大丈夫なのかと訊いた。不安だったのだ。家の金を持ち出した北川が帰宅すればきっと彼女の家族は激怒するはずで、そんなところに私が同行していたことが知れたらこちらにも塁が及ぶかもしれない。私は真剣なのに、北川はへらへらとはぐらかすように笑うので、だいぶしつこく訊いたのを覚えている。しかし彼女は絶対に大丈夫だと断言し、そんなに気になるなら家までついてきて確かめればいいとまで言ったから、私は帰路を外れて北川の家へ寄ることにしたのだった。

 棒のように細い手足やあまり整えられていない頭髪、噛んだらしき跡がある爪などといった彼女の風貌から勝手に想像していたものとは大幅に異なり、北川の家は高級住宅地の中にある大きめの一軒家だった。外から見ると留守のようで、今いないみたいだねと言うと「いないよ、いつも」と返答された。自分の家族は誰も彼も忙しいうえ家庭に無関心でほとんど家に帰ってこないため、家出したこともおそらくは気づかれてさえいないだろう、と説明する彼女はぞっとするほど無表情で、そのことをどういう思いで捉えているのかまるで読み取れなかった。その日はそれで別れ、以降も特に会うことはなく夏休みが終わった。

 休み明けの朝、北川は教室に入ってくるなり私のところへ寄ってきて、以前からの友人同士のように喋りかけてきた。それが嬉しくなかったといえば嘘になるけれど、同級生はそんな私たちに奇異の目を向けて陰でからかい始めたから、うっすらとした居心地の悪さが変わることはなかったのだった。

 そのまま進級し、私たちはまた同じクラスになった。私も北川もお互いが校内で唯一の親しい相手だったから喜ばしいことではあったのだけれども、その時期には私たちがレズだという噂がほぼ学年全体に広まっていた。その噂を知らないのはごく一部の優等生と、それから集団の人間関係にあまり興味がないらしい北川だけだった。

 初夏のころだったはずだ。学年主任であった中年の女性教師が受け持っていた生物の授業で、どういった流れだったか、メスの体は子を産むための機械といえる、という話が出たのだ。えーじゃあレズはあ、と誰かが大声で言った。けたたましい笑い声が上がった。教師は少しだけ眉をひそめて「ね」と言葉遣いだけを注意した。

 その放課後、いつも通り私と北川が並んで廊下を歩いているのを、同級生たちが茶化しながら追い越していった。息苦しさを北川と共有したくて、ねえ今日最悪だったね、と私は言った。今日って何が、と聞き返されたので生物の時間のことを話題に出すと、北川は「あれ、私たちのことなんだ」とつぶやいた。その鈍感さが妙に腹立たしかった。わかるじゃん、なんとなく、そんなの、と矢継ぎ早に言った。わずかに語気が荒くなっているのは自分でもわかっていた。北川は少しの間黙って視線をよそに向け、それから私の顔を見た。

「ごめんね、わかんないけど」彼女は平坦な声で言った。「嫌なんだ、川端は。それが。」

 その日を境に北川は極力私に話しかけてこなくなった。それでも同級生は私たちが一緒にいないことを面白がって陰口を叩くのだった。そうしてのろのろと月日は過ぎ、何もなく夏休みが終わった。

 九月になって学校に来た北川はやけにやつれていた。夏休みの間に中絶手術をしたらしかった。それはすぐさま知れ渡り、放課後、人のいなくなった教室で、学年主任立ち会いのもと担任と彼女との面談が行われた。私は教室後方の扉を細く開けてこっそりその様子を覗いていた。担任の声はやたらと小さくて聞き取りにくかったけれど、どうしてこんなことになったのか、というようなことを尋ねているらしいとわかった。北川は険しい顔の担任たちをまっすぐ見据え、とても落ち着いた声で答えた。

「私たちの体は、子供を産むための機械だからです。」

 本当はちゃんと産むつもりでした、と続けるのを聞いて、担任の表情が怒鳴り出す寸前のように歪んだ。その横で学年主任が大きく目を見開いていて、私にはそれが泣きそうな顔に見えたのだった。それ以上は覗くのをやめて帰った。

 以降、同級生も気軽には触れづらくなったのか、私たちがからかわれることは減っていき、三年生になるころには一切なくなった。大学受験が近づいてきて、みんな他人のことにかまけてなどいられなくなったのだろう。高校生活はそうやって終わっていった。

 私と北川は別の大学に進み、その後はすっかり交流も途絶えた。私は大学のサークルで知り合った先輩と付き合い、卒業後すぐに結婚し、それから数年が経ち一人目の子供を授かって、五ヶ月ほどが過ぎた現在は安定期に入っている。最近は夫やその家族との折り合いがやや悪くなってきていて、堪えられないというほどのことはないけれど、毎日ささいな疲れが取れずにいるのだった。

 今朝、仕事に行く前の夫と口喧嘩をした。家事の分担について互いに不満が募っていたことが原因だった。夫が会社へ向かった後、いっそすべてを放棄してどこか遠くまで行ってしまおうかと思い、そしてふと北川の家出に同行したときのことを思い出したのだった。北川に会いたいような気がした。会って話したいと思った。私は衝動的に家を出て北川の家を目指した。

 一度行っただけの記憶を辿ってどうにか着いたその家には、まだ確かに『北川』の表札が出ていた。それだけでなんだか少し安堵したものの、インターホンを押しても応答はなく、しばし待ってまた押してみたけれどやはり反応はなかった。十数分ほど待ち、そろそろ諦めようかと思ったそのとき、外出していたらしい北川がちょうど帰ってきた。

 北川は多少身綺麗になっていたけれど、高校生のころと大きくは変わっていなかった。あちらもすぐに私だとわかったらしく、にやっと笑って近寄ってきた。久しぶりと言い合ってわずかに沈黙した後、北川は私の顔と膨らんだ腹とを交互に見て、家出するならついてくよ、と言った。その口調はひどく軽快で、とても簡単なことを言っているように聞こえた。しかし私はそれに返事をせず、それより、と尋ねた。

「北川は、どうして声かけたの、私に。」

 家出なんてひとりでするもんじゃないの、と言うのを北川はにやつきながら聞いていて、そしてひとつ頷いて答えるのだった。

「行けると思ったから。川端となら。家族に、心配される場所まで」

 北川は私を誘う前からひとりで何度も家出していたけれど、ひとりでは退屈ですぐに帰ってしまうため結局いつも失敗していたのだそうだ。もしもあのとき私に生理が来ていなくて、もっと長いこと家出をできていれば、きっと彼女の望み通り家族にも気づかれていたのだろう。かわいそうでしょ、とふざけたように言って、北川は声を立てて笑った。もう遠い昔のことだと割り切っているように見えた。かわいそう、とおうむ返しに私も言った。

 また少し沈黙があった。北川はずっと微笑んでいた。あのさ、と、私はまた口を開いた。

「さっき、家出するならついてきてくれるって言ったでしょ」

「うん。ついてく」

「別に、今はいい。今はいいけど」

 けど、でも、と言い淀むのを、彼女はじっと待っていてくれた。

「でも、でもそうしたくなったらまたここに来るから」

 早口にそう言いきって息をついた。なんとなく笑えた。北川も笑っていた。その後は近況などを報告し合い、かなりの時間が経ってからようやく別れた。

 北川の家に背を向け、駅への道を歩き出したとき、ふと胎動を感じた気がした。夫との口喧嘩を思い出し、かすかに気分が落ち込む。もう産むしかない状態になっていることはわかっている。それでも産みたくないという思いがよぎる日がここのところ増えているのもまた事実だった。

 もし、と思った。もし、産まれたこの子が育っていくにつれて自分の手に負えないようになってしまったら、私はさっき高校生の北川をかわいそうだと言ったのと同じ口でごめんねなどと言い捨てて、そうして夫も子も置いてひとりで北川のところへ逃げ込むのかもしれない。そのとき北川は私を笑ってくれるだろうか。昔からずっと変わらないあの笑顔で。

 歩みを進めながら、自然と笑い始めているのがわかった。あと半年も経てば、私は母親になる。

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うみすを持つ クニシマ @yt66

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