婚約者様!あなたの「愛してる」はもう信じません!

ぽりぷろぴれん、

第1話


ダリエ・ハートレイルは16年間生きてきた中で、初めて出会った感情に戸惑っていた。


胸がモヤモヤして、ムシャクシャして、かと思えばずーんと重りがのしかかったように苦しくなったり、なんだか無性に泣きたくなったり。

ご飯も喉を通らず、大好きな本だって開いては閉じての繰り返し。

本を読むのは諦めて、メイドが用意してくれた紅茶をぐいっと飲んで……当たり前だが舌を火傷した。


「……もう、なんなのよ」




――かの有名な『ハートレイルの書庫令嬢』として名を馳せるダリエ・ハートレイルがこうなっているのには、理由があった。



あれは、そう、1週間ほど前、夕暮れに染まった中庭での出来事だった。

とある人と待ち合わせをしていたダリエは、両腕に本を抱きかかえながらのんびりと歩いていた。

14歳になった貴族の子息や令嬢が通うこの『オブニクス王立学園』には、ダリエの領地にある図書館に劣らないほどの図書室を兼ね備えている。

友人のいないダリエにはそれが唯一の楽しみだったし、学園に通っている理由でもあった。


「今日も少し遅れてしまったわ……ディティーラ様は怒るかしら……あら?」

「私は…………のこ……です!」

「……その…………れしいよ、ありが……」


(この声は……)


次の角を曲がれば中庭に出る、そんな所で聞こえてきたのは、紛れもなくダリエの待ち合わせ相手である――ディティーラの声だった。

幼少期からずっと隣で聞いてきた声を……大好きな声を、ダリエが聞き間違えるはずがない。

と言っても、想っているのは、ダリエ1人だけなのだろうが。


「……どいっても……よ。僕は…………愛しているんだ」

「オブニクス様……」


(……っ!!)


漏れ聞こえてしまったのは、愛の言葉。

恐る恐る覗いてみれば、そこには案の定ディティーラと、女生徒向き合っていて。

相手はどこのご令嬢だろうか、天使のように愛らしくて、思わず守ってあげたくなるような、そんな可愛らしい女の子だった。


(可愛らしいご令嬢だわ……)


サラサラとした綺麗なピンク色の髪と、空を写し取ったかのような瞳を持った少女を見て、ダリエは思わずため息をついてしまう。

自分とは違う……こんなどこにでも居るような栗色のーしかも湿気を吸い込んでもわっと膨らんでいるー髪の毛と、緑色の瞳なんかとは全く違うその少女の姿に、何故だか胸がミシミシと軋むような感覚がした。


少女は両手を胸の前で組んで、ディティーラを見上げる瞳はきらきらと潤み、柔らかそうな頬は朱に染っている。

まるでそれは、恋する乙女そのもので――そして、想いが叶って幸せ絶頂だ!というような姿である。


――そんなの当たり前だ。

あんな素敵な人に「愛している」と言われて、舞い上がらないはずがない。


(……わたくしだって、その1人だわ……)


だが、しかし、あのディティーラがその愛の言葉を捧げるのは――婚約者である自分、ただ1人だと思っていた。




――――――――――――――――




出会ったのは9年前……お互いが7歳の時だった。

王家主催の、同年代を集めたお茶会での事。


『知識の街ハートレイル』を納める領主の娘として産まれたダリエも、もちろん知識に対して貪欲な子供だった。

幼い頃から館にある本を熱心に読み、それだけでは飽き足らず街の中央に位置するハートレイル図書館にも通いつめた。

最近では読むものも無くなってきてしまったため、古代の言葉が使われた本を読むべく古語を勉強中である。


(……はぁ、早くお家に帰って本が読みたいわ)


そんなダリエが、王都で流行りのお菓子やら、最近社交界で人気なドレス、隣国からやって来たという演劇集団などについて、同年代と話せるわけがなかった。

どうしても行かなければならない、と母が言うから着いてきただけであって――。

ダリエは1人嘆息して、庭の隅っこでお菓子をちまちま食べ進める。

そして、所々に輪を作っている子供たちを眺めながら、頭の中で物語のページを開いた。



――父が言うには、ダリエ・ハートレイルは稀代の天才である。

僅か2歳で言葉を覚えたダリエは、3歳で分厚い物語を読み始め、4歳の時には歴史書を、5歳の時に異国の言葉を勉強し、6歳頃には異国の本を読んでいたという。

幸い、周りには知識を求めてやって来た者ばかりいたので、大人に交じって自国の歴史だけでは飽き足らず、異国の歴史にまで論争を繰り広げていた。

最近ではもっぱら、各地に伝わる伝説や石版の情報を集めているのが――閑話休題。


ダリエは1度読んだものは一言一句間違えずに覚えることができる。

ページをそのまま写し取ったかのように脳で覚え、それを頭の中にあるファイルに一つひとつ保存している感覚だ。

ダリエにとって、現実で本を開くのと同じように脳内で本を開き、それを読むのが最高の暇つぶしであった。


――しかし、10ページも読まないうちにダリエは本を閉じることとなる。


「ダリエ、また本を読んでいるのかしら?」

「おかあさま……」

「読書もいいけれど……まずはお友達を作らなきゃ」

「……でも、おかあさま、わたくしはどこか疎外されているように感じるのです」


いつの間にかそばに来ていたのは、ダリエの母であるフィリア・ハートレイル。

風になびく銀糸のような美しい髪と、翡翠のように輝く瞳を持った、自慢の母である。


「そうね……ダリエは少し、大人っぽいものね。でもね、これもいい機会だと思うの。普段は大人とばかり一緒にいるでしょう?同じ歳くらいの友人としか、作れない思い出もあるのよ」


そう言って笑う母は、本当に綺麗だった。

帰ったら新しい本を買ってあげる、そんな言葉に釣られたのもあって、ダリエは地面に張り付いていた足を何とか持ち上げる――が、その時。


「フォブニ・フォン・オブニクス国王陛下、リリサール王妃様、及び第5王子であらせられるディティーラ殿下のご登壇でございます」


男の声が響き渡った瞬間、華々しい音楽が鳴り響く。

それに合わせて登場したのが、紹介にもあった国王夫妻とその息子、第5王子のディティーラであった。

ダリエは庭の隅っこにいたので、国王夫妻は見えてまだ背の小さいディティーラの姿はよく見えなかった。


(さすが王族……やることが派手ね)


今年7歳になる第5王子はダリエと同じ歳で、周りにも近しい歳の子供ばかりが集められている。

我が国は長子相続制なので、第一継承権を持っているのは第1王子だし、例え何かあったとしても継承権は第2王子に移る。

第2王子に何かあったときも、また然りだ。

しかし、今年19になるという第1王子の優秀さはハートレイルにまで届いているし、よっぽどの事がなければ王位継承権が移ることはないだろう。

ではその他の王子たちがどうなるのかと言えば、国王を補佐する役職に就いたり、爵位と領地を貰い共に国の繁栄に務めていくことになる。


つまり今回のお茶会では、将来を見越してそばに置く人物の選別を行うのではないだろうか。

14歳になれば王立学園に通い、そこで自分のしたいことが見つかればそちらを専門的に、そうでなければ王の元で働くか領地を経営するかの2択になる。

しかし、臣籍降下したとしても元は王位継承権を持った王子だ、命を狙われる可能性は大いにある。

そのため、今後共に過ごしていく側近や騎士、婚約者などを今から選別していく必要があるのだ。


(……これから毎年お茶会に参加しなきゃいけないなんて、面倒だわ)


諸外国を見ても、毎年同年代を集めたお茶会を開くのは、ここ――オブニクス王国だけだと言う。

令嬢にとっては王子とお近づきになれるチャンスであり、令息にとっては安定した足場作りの場となる。

大切なのは分かっている。

分かっているのだが……。


「皆の者、忙しい中良くぞ集まってくれた。本日は我が息子、ディティーラの誕生日ということもあり、このような場を盛大に開かせてもらった。無礼講だと思って、心ゆくまで楽しんで欲しい」


国王の言葉を合図に、ディティーラにどっと人が詰めかける。

婚約者候補として名の挙がっているルーデンベル侯爵令嬢など、緊張とディティーラの美しさに顔が真っ赤になって、なんとまぁ可愛らしいものだ。


「オブニクス第5王子殿下は、王妃殿下に似ているわね。とても綺麗な顔立ちだわ」

「……そうですか?」

「まぁ、この子ったら。絵画の美しさはわかるのに人の美しさには興味が無いのね。……それもまた、いい事よ、ダリエ」


踏み出そうとしていたダリエの足は結局1歩も動かず、結局母の元に残ることとなった。

礼儀として国王夫妻とディティーラには挨拶をしなければならないが、流石にあの人混みに入っていくのは気が引ける。


「あなたはダトラ様に似て、人混みが苦手ね」

「分かっているならなぜ引きずっているのでしょうか、おかあさま」

「それはもちろん、挨拶するためよ。放ってほいたらあなた、行かないでしょ?……それにねダリエ、嫌なことは先にぱぱっと終わらせてしまった方が楽なのよ」

「……そうですね」


腕をがっしりと掴まれて引きずられるように歩いていたが、母の言葉になるほどと思い両足でしっかりと歩き出す。

お茶会を無事に乗り切れば新しい本も買ってもらえるというし、このお茶会だけでも頑張ろう。

しかし、そんな諦めにも似た境地で向かったそこにいたのは……。


(――――なんて、美しいの)


輝かんばかりの美貌を持った少年だった。

風に揺れるピンクブロンドの髪は少し長めだが、後ろでひとつに括っているところが何か可愛らしさを感じる。

伏せがちの瞳から覗くのはきらきらしたエメラルドのような瞳で、ダリエは思わずその瞳に釘付けになってしまった。

まるで作り物のような美しさと可愛らしさを併せ持った少年が、同年代にいるというのか。

これは将来一苦労しそうだ、と思ったのをダリエは今でも覚えている。



――その後ことは、正直よく覚えていない。

そのエメラルドに取り込まれたかのように脳は働くのを止め、言葉を発する事もせずひたすらにそのエメラルドを見つめていた。

母が言うには、きちんと挨拶はできていたらしいが、後にも先にもそんな事は1度きりだろう、とダリエは思う。


(ディティーラ様……)


今思えば、一目惚れだったのだろう。

ぼーっとしたままお茶会を終え、ぼーっとしたまま帰宅し、しばらくぼーっとしていたように思う。

それ程までに心を奪われていたのだ。


「わたくしなんかじゃ、一緒にいたってつまらないわよね」


『ハートレイルの書庫令嬢』などと大人からはもてはやされているが、実際はただの地味で大人しくてつまらない、ただの伯爵令嬢だ。

学園に通う同級生達からは陰気な令嬢として扱われているし、女生徒なんかは目の敵のように接してくるものも多い。

それもそのはず、ダリエがあの第5王子――ディティーラの婚約者だからだ。



そう、なぜかあのお茶会のあと、ダリエは第5王子の婚約者として選ばれてしまったのだ。

当時はなんの間違いかと家中大騒ぎになったのをよく覚えている。

実際には、国内の情勢や権力のバランス、家格などを見て決められたらしいが、それにしても婚約者となるまでのスピードが早すぎた。

ディティーラに聞いてものらりくらりとはぐらかされるし、ダリエはなぜ婚約者になったのかという疑問をずっと持ち続けていた。


(……でも、そうね、あの人が望むのなら、婚約は解消して頂かなければ)


ここ数週間、悩み続けていたダリエだったが、ついに婚約解消の決心を固める。

と言っても王家から打診された婚約だ、こちらから解消を申し出る訳にも行かないし、ダリエは今後の予定を立て始める。

ディティーラはもうダリエに心はなく、あの可愛らしいご令嬢に愛をかたむけているのだろう。

そう思えば思うほど、心臓がギュッと鷲掴みにされたように痛むが、何よりも大切なディティーラのためだ。

ダリエは痛む心臓を慰めながら、そっとため息を零すのだった。



――――――――――――――――――――




「可愛らしい蝶々さんたち、少し聞きたい事があるんだけど、いいかな?」


1週間後。

婚約解消のために動き出そうと決めたダリエだったが、未だに勇気を出せないでいた。

しかし愛しき婚約者の声は否が応でも耳にはいってくるし、他の女生徒に向けられたその言葉の甘さや柔らかさに胸がじくじくと痛めつけられていく。


――あぁ、そう、ディティーラと言う男はそういう男だ。


その見目の麗しさで女性を次々に惹き付けていくその様は、まるでたっぷりと蜜を蓄えた可憐な花のよう。

それに加えて第5王子という肩書きをもっているとなれば、他の令嬢たちが放っておくはずがない。

授業が終わった途端、女性に囲まれて教室を出ていく婚約者を横目に、今日何度目かも分からないため息をついた。


「ハートレイル嬢……良いのですか?」

「……リリアテッド様……良いのか、というのは?」

「麗しき婚約者殿ですよ。昔から蝶を惹き付けてやまないが、最近では自分から蝶たちをおびき寄せているように見える」

「……そう、ですわね」


あとは帰るだけだというのに、中々動き出せないでいたダリエの元にやってきたのは、1人の青年だった。

ダリエの前の席の椅子にドカリと吸わるその姿は、優美な容姿からは想像できなくて少し笑ってしまいそうになる。


――トミニグ・リリアテッド。

リリアテッド侯爵家の子息で、ダリエのクラスメイトだ。

普段はあまり関わることはないが、人が苦手なためよく1人でいるトミニグと、人から避けられているダリエには共通点が多く、時たまこうして話すことがあった。


「……でも、ああしてみると、やっぱりって思うのです。わたくしのような本の虫ではなく、可憐で美しい蝶たちを相手にする方が、楽しいに決まってますもの」


自嘲気味に笑うダリエを見て、トミニグは肩を竦めてみせる。


「ハートレイル嬢がそれで良いなら何も言うことはありません。ただ、後悔しないように、きちんと話し合うことも大切ですよ」

「……えぇ、ありがとうございます、リリアテッド様」

「いいえ僕は何も。……ま、同じ本好き同盟として、ハートレイル嬢の元気が無いのは気になりますからね」


迎えが来たらしいトミニグを見送って、ダリエも帰る準備を始める。

前までは、帰る際に馬車までディティーラと歩いていたが、最近ではそれも無くなってしまった。

その場合はディティーラから断りの言葉もあったものだが、ついに今日は何も言わず教室を出ていったので、きっとそういうことだろう。

いつもより重たく感じるカバンを手に取り、ダリエはそのままとぼとぼと帰路に着くのだった。


「……ねぇリラダ、あなたはどう思う?」

「どう思う……と言いますと?」

「ディティーラ様についてよ……なんて言ったらいいのかしら、最近……少し様子がおかしいみたいなの」


馬車の中、御者と共に迎えに来た侍女のリラダに、思わずそう問いかける。

リラダは、代々ハートレイル家に仕える家系に産まれ、7歳の頃からダリエと共に過ごしてきた。

侍女という形ではあるが、ダリエは産まれた時から一緒にいるリラダを、姉のように慕っていた。


「様子がおかしい……毎日メッセージ付きの花は届きますし、来週のお茶会も予定通り行いますよね。それ以外に何か気になることがあるのですね?」

「えぇ、そうね……」

「何かあったのですか?」


今までディティーラの行動については、家族やリラダにも話したことはなかった。

たくさんの女の子たちと一緒にいても、「愛してる」の言葉だけはダリエにしか与えないと思っていたから。

もちろん苦しく思う事もあったが、それがディティーラなのだと、一緒にいるためにはダリエが我慢すれば良いと思い続けてきた。

だが、しかし。


「……ディティーラ様、他に好きな方が出来たみたいなの」


思わず零れてしまった言葉に、リラダが目を見開く。


「それは、本当なのですか?あのディティーラ様が……?」

「この間、偶然聞いてしまったのよ。ディティーラ様が、可愛らしいご令嬢に愛している、と言っているのを……」


あぁ、駄目だ、泣いてしまいそう。

ダリエは目に力を込めて必死に涙を止めようとするが、あの光景がちらついてどんどん涙が溢れてくる。

眉根を寄せたリラダが心配そうに寄り添ってくれるが、それでも1度溢れ出した涙が止まることはなかった。


「……わたくし、明日、ディティーラ様とお話いたしますわ、きちんと」

「ダリエ様……明日は、ダリエ様の大好きなクッキーをご用意してお待ちしていますね」

「ふふ、ありがとう……。大好きよ、リラダ」

「えぇ、えぇ、私も大好きです、ダリエ様」


このままでは駄目だ。

トミニグの言う通り、ダリエが後悔しないように……きちんと話し合わなければ。

婚約解消のことを考えるとやっぱり涙は止まらなかったが、それでもダリエは、少しだけ前向きな気持ちになれたのだった。



そうして迎えた翌日。

きちんと話し合うと決めたダリエは、一日中そわそわしっぱなしだった。

狙うタイミングは2人きりになれる昼食か放課後だが、女生徒から人気のあるディティーラのことだ、既に予約はいっぱいかもしれない。

4限目が終わり、昼食に向けて皆が動き出すのを横目にダリエはディティーラの元へと向かった。


「……あ、の、ディティーラ様」

「ダリエ……どうしたんだい?」


震えそうになる声を愛しき男にかければ、途端に向けられる麗しい笑顔に、ダリエは思わず見蕩れてしまう。

その嬉しそうに下がった眉尻や、少し上気した頬まで嘘だと言うのだろうか。


「ダリエから声をかけてくれるなんて珍しいね、すごく嬉しいよ。……それで、どうしたんだい?思い詰めたような顔をしてる」

「あ、それは……えっと……」


まさかあなたのせいです、などと言う訳にもいかず、ダリエは俯くことでそれを誤魔化す。

しかしディティーラは、そのダリエの思いを察したかのように中庭への誘いを申し出てきた。

1歩前を歩くディティーラの、ひとつに結えられた髪が風に靡くのを見て、それだけで胸が高鳴ってしまう。

それに、自分の些細な変化に気づいてくれたのが嬉しくて堪らなかった。


やがて中庭へと着けば、猫1匹以外誰もいなかった。


「それで、ダリエ、僕に何か用だったかい?話しにくそうだったから午後まで連れてきてしまったけど……」

「あの、ありがとうございます……みんなの前では、話しにくいことでしたので」

「そっか、それならよかった」


あぁ、また、ふんわり笑うディティーラのその笑顔に、胸が飛び跳ねる。

何度も何度も言い聞かせているのに、この心だけはダリエの思い通りにはならないのだ。

ディティーラは可愛らしい女の子や美しい女性が大好きで、その中でも特に愛しているご令嬢がいる。

だから、幼い頃に決められた、面白いのない女はもう、必要ないのだ。

覚悟を決めて、大きく息を吸い込む。


「……ディティーラ様、単刀直入に言います……わたくしと、婚約を解消して頂けないでしょうか」

「……え」

「ディティーラ様はお優しいですから……今まで言い出せなかったと思うのです。しかし、わたくしのことは気にしなくても大丈夫です、ディティーラ様の思うようにして頂ければと」

「……ダ、ダリエ……?」

「そもそもわたくしとディティーラ様では釣り合いが取れません。まったく取り柄のないわたくしと、才能に満ち溢れたディティーラ様。それにわたくしはパッとしない顔立ちですし、見目の麗しいディティーラ様の隣に立つとディティーラ様が笑われてしまいます。わたくしにはそれが耐えられな」

「ダリエ」

「っ!!」


普段は思うように動かない口が、油でも差したかのようにすらすら回る。

いつもは眩しくて見れないそのディティーラの顔を、今は違う意味で見ることができない。

そんな私の耳に入ってきたのは、今まで聞いたこともないような低くて冷たい声だった。


「……僕は、ダリエが好きだ。釣り合わないだなんて、そんなことない……知的なところも、その可愛らしい顔も、全てを愛しているんだ」

「ディ、ティーラ様……」

「僕の愛しい人を貶すのは、やめてくれないかな……?」


緊張で冷たくなった手のひらにそっと触れるディティーラの手は、大きくてとても暖かい。

ダリエはその心地良さに思わずうっとりとしかけ――はっと大切なことに気づく。


「……おっ、お言葉ですが、ディティーラ様」


そうだ、なぜ忘れていたのか。

ダリエが婚約解消を決意したきっかけはなんだったか。

不自然な程に逸らしていた視線をディティーラにしっかりと合わせ、ダリエは再び大きく息を吸い込む。


「あ、愛しているなどと……そのお言葉は、誰にでも仰っているではないですか!」

「僕はダリエにしかそんなこと言わないよ、君しか愛していない」

「それに、常に可愛らしいご令嬢たちと過ごしていますよね。わたくしなんかより、可愛らしい子が好きなのでしょう!?」

「……そ、れは……」


やはりそうなのか。

胸が痛い、視界が滲む。

分かっていたことではあるが、こうして現実として突きつけられるとどうしようもなく苦しい。

ダリエは零れそうになる涙を必死に乾かしながら、言い淀むディティーラに更に詰め寄る。


「そっ、それに!この間聞いてしまいましたの……!ディティーラ様、あなた……どこかのご令嬢に愛している、と仰っていましたわ!!」

「……えっ!?」

「とぼけないでくださいまし!わたくしは決して忘れませんわ……!」

「ちょっと、ちょっと待ってよダリエ!」

「いいえ待ちません!昔は女性に興味のなかった貴方が、今では常にご令嬢に囲まれ、優しく接している姿を見てわたくし……苦しかったのです……!」


そう、昔のディティーラは、今と違い異性にはまったく興味を示していなかった。

それどころか若干の嫌悪感を抱いている程であったし、だからこそ今のディティーラの行動はダリエにとって苦しいものであった。


「ディティーラ様と一緒にいるような、可愛らしい女の子にわたくしはなれません……。頭は悪くないと思いますが、それだけです。ほかの方たちのように、楽しいお話もできませんし魅力的な特技もありません。……やはりわたくしには、ディティーラ様の隣は釣り合わないのです」

「……」

「……お騒がせして申し訳ありません。婚約解消のお話……検討して頂けると幸いですわ。失礼致します」


ついに俯いて何も言わなくなってしまったディティーラを横目に、ダリエは静かに踵を返す。

今日は帰ったら思いっきり泣こう。

リラダに美味しい紅茶と甘いお菓子をたくさん用意してもらって、それで。


(……いけない、こんな所で泣いたら、ディティーラ様が気にされてしまうわ……ディティーラ様はお優しいから……)


頬にこぼれおちた涙をそっと拭おうとした、その時――。


「ダリエ」

「……っ!?」

「ダリエ、ごめん、本当にごめん……今までの僕が、君を傷つけていたんだね」


力強く腕を引かれ、暖かいものに包み込まれた。

嗅ぎなれた心地よい香りが全身を包んで……。


「ディ、ティーラ様……?」

「僕が……僕が女の子に優しくするのは……その……理由があって……女の子が好きだからとかじゃないんだけど、えっと……」


耳元で低く艶のある声が響いて、思わず頭が真っ白になる。

婚約者という立場になって9年も経つが、直接的な触れ合いはほぼしてこなかったのだ。

ダリエが緊張やら恥ずかしさやらがあったのも原因だが、ディティーラの方からも必要以上に近づいてくることはなかった。

そんなディティーラの体温をすぐ側で感じてしまい、ダリエは声にならない悲鳴をあげるしかなかった。


「本当は、こんなこと言ったらダサいから、あんまり言いたくないんだけど……でもそれでダリエが傷つくのなら……」


ディティーラは気持ちを落ち着けるかのように、深呼吸をひとつ落とす。


「……ダリエ、覚えてるかな。2人で本を読んでいた時――君、女の子に優して人気者のキャラクターが好きって言ってたんだ」

「え……えっ?」

「ほら、あの、なんだっけ……題名は忘れちゃったんだけど、ダリエが読んでた恋愛小説に出てくるキャラクターでさ……。ダリエがあんまりにも集中してるものだから、気になって聞いてみたんだ、その本好きなの?って」


恋愛小説……一時期、そういうものにはまった時期もある。

そう、丁度――ディティーラと婚約をしたすぐ後だ。

それまでは好んで読むこともなかったありとあらゆる恋愛小説を読み漁り、自分とディティーラに当てはめてみたりして……ダリエは過去の自分を一気に思い出す。


「その時ダリエは、本というよりこのキャラクターが魅力的だ、って言っていて……」

「…………」

「……だから僕は、ダリエに好きになって貰いたくて、そのキャラクターの真似をしてたんだ……!!」

「な、な……!」


(なんということ……!まさか、そんな!)


ダリエに好きになってもらいたくて――その言葉が、頭の中をぐるぐる回る。

自分の心臓がドクドクとうるさいのに、背中越しにもその鼓動を感じて、ダリエの頭はオーバーヒート寸前だ。

そして何より、ディティーラの言葉……すっかり忘れていたが、そういえばそんな出来事があった。

ただ、それは、そのキャラクター自体が好きなのではなく――。


「……そ、それは!……そのキャラクターが、ディティーラ様に似ていて……好きだなって思ったんですの!」


ディティーラ以外を好きになると思われたくない一心で、ダリエは思わずそう叫ぶ。


「……え」

「挿絵のない読み物でしたから、完全に頭の中で思い描いたものでしたけど……それでも、なんだかディティーラ様に似ていて、ディティーラ様の姿を思い浮かべながら読んでいるうちに、そのキャラクターも好きになってしまいましたの!」


なんだか余計なことまで喋っている気がする。

顔を見られていなくて良かった。

もし面と向かってそんなことを言ってしまったら、冗談ではなくダリエは失神してしまうだろう。


「……ダ、ダリエ……」

「うぅぅ……お恥ずかしい…………」


顔も体も全身が熱くてしかたない。

ディティーラがご令嬢に愛を囁いていた時、ダリエは初めての感情に戸惑ったが、これもまた初めての感情だった。

今までの、暖かくて心地が良いような気持ちではなく、全身全霊でディティーラが好きだと叫ぶようなこの気持ちが、身体中の血が沸騰しているかのようなこの感情が、果たして恋などという生易しいものなのだろうか。

それに、なんだか背中に感じるディティーラの体温も熱いように感じる。


そうしてしばしの間、抱きしめられたまま無言の時間が過ぎ……。


「……っ!!ダリエ、ごめん!ずっと、こうしてダリエ触れたかったから思わず……あ、いや、そうではなくて……えっと、名残惜しくて……あぁ、そうじゃない……!」


ばっと勢い置く離れた背中が、なんだか寒く感じてしまう。

こんなとき、どうすれば良いのかという答えをダリエは持っていなかった。

そもそもディティーラの怒濤の攻撃がダリエを襲い、もうHPはゼロに近い。


「……ダリエ、こっち向いてくれる……?」


そんないっぱいいっぱいのダリエの耳に届いたのは、今まで聞いたことの無いような、覇気のないディティーラの声だった。

初めて聞くその声に思わず、ディティーラと視線を合わせてしまう。


「……ディティーラ様」

「本当は僕は、こんな人間なんだ……そもそも女の子にだって興味無いし、でもダリエに好きになってもらいたいから、頑張ったんだ」

「……!」

「僕はダリエの為だったらなんだってできるよ。だって君を……愛しているから」


一目惚れした人が、ずっと好きだった人が、自分の目を真っ直ぐに見て愛を囁いてくる。

こんな幸せな事があっていいのかとダリエは不安になりながらも、胸には確かに歓喜が溢れていた。


「……し、しかし、わたくしは……ディティーラ様が可愛らしいご令嬢に、愛していると仰っているのを聞いてしまいましたの……」

「それ、本当に僕かなぁ……ダリエ以外に愛を囁くわけがない。今すぐ結婚したいくらいに愛しているんだ」

「けっ……!!」

「まだ僕たちは学生だから、婚約者という形で我慢しているんだけど。早く名実ともに僕のものにしたいし、本当は誰の目にも触れさせたくないんだ」

「……」


どこか仄暗さを感じる瞳でそう呟くディティーラに、ダリエは何も言葉を返せなかった。

だって、だってそんなの嬉しすぎるじゃないか。

ダリエはずっと一方的な想いだと思っていたし、婚約者に対するディティーラはとても優しかったが、それはダリエに対してだけではない。

常に蝶々のように飛び回る可憐なご令嬢たちにも、常に優しかった。

だからこそ、そんな重い感情を抱いてくれていることが嬉しかった。


「……そ、そんなふうに思っていたいただけていたとは……うれしい、ですわ」

「ダリエに伝わったのは良かった、僕も嬉しよ。……でも、お互いの勘違いがあるままなのは嫌だな。僕が件のご令嬢に対して、愛しているなどと言っていたのはいつなんだい?」

「あ、あれは……2週間ほど前ですわ。放課後、待ち合わせ場所の中庭で」


あの光景を思い出すだけで、胸がジクジクした痛みを訴えてくる。

自分なんかよりも可愛いご令嬢に対して、愛の言葉を――。


「2週間前……だめだ、思い出せない。そもそも、ダリエ以外に興味なんてないから顔を覚えているご令嬢の方が少ないくらいなんだ……ほかな何か特徴はない?」

「えぇと、ピンク色の髪に綺麗な水色の瞳をしておりました。とても珍しい色合いだったので、よく覚えておりますわ……」


あぁ、痛い。

明らかな恋情を浮かべたあの姿が、忘れられない。

そして、ディティーラの愛しているという言葉が、忘れられない。

思わず視線を落とし、ディティーラのぴかぴかに磨かれた靴をじっと見つめる。

が、その時、大きな手のひらに両手を包み込まれたダリエはまたディティーラに視線を向けた。


「思い出したよ、ダリエ!ピンク色の髪、水色の瞳……間違いない、あの子か!」

「……!」


(……あぁ、やっぱり……可愛らしいご令嬢でしたもの、忘れる訳ないわよね……)


思い出したというその言葉に、嫌な想像があふれだす。


「でも、ダリエ、これだけは絶対に覚えている。僕は愛しているだなんて言っていないんだ。……ダリエはあの時、どこにいたんだい?」

「……中庭のすぐ手前の角におりました」

「僕の言葉ははっきりと聞こえていたのかい?」

「いえ、話の全容までは……ただ、愛している、という言葉ははっきりと……」

「やっぱりそうだ!ダリエ、僕はそのご令嬢に対して愛しているだなんて言っていない。僕は言っていたのは――ダリエ、君に対してなんだ」

「……え?」


いつのまにか冷たくなっていた手のひらに、じんわりと汗をかき始める。

あの状況で自分に対して愛していると発言したことと、再び愛しているとはっきり言われたことに頭が混乱してきた。


「僕はあの時、まったく知らないご令嬢に声をかけられて……」




――「私はオブニクス様のことが好きなんです!

――「その気持ちは嬉しいよ、ありがとう」



――「でも、何度言っても変わらないよ。僕はダリエを愛しているんだ」

――「オブニクス様……」




「……え、え?」

「だから、何度言っても諦めない人だったから、そう伝えたんだ。その後ダリエの好きな所を1つずつ語ってたらいつのまにか居なくなっていたけど――あれ?その部分は聞いていなかった?」

「え、えぇ、愛している、と言うのが聞こえた時に、いても立ってもおれず……急いで帰ってしまいましたの」


なんということだ。

「愛している」という言葉は、あのご令嬢に向けられたものではなく、ダリエに向けられた言葉だったのだ。

しかもその後、あのご令嬢に大してダリエについて語っていたなどと……!

あまりの勘違いに、ダリエはおもわずフラリと体勢を崩してしまう。

しかし、倒れるかもという不安を抱く間もなく、ディティーラの胸に包み込まれた。


「……も、申し訳ございません、ディティーラ様……」

「いいんだ、でも、婚約解消して欲しいだなんて、二度と言わないで欲しい」

「……はい、ディティーラ様」


力強く抱き込まれ、恥ずかしいやら嬉しいやらで更に混乱するも、ディティーラの少し傷ついたような声にはっと我に返る。

ディティーラの言う、ダリエを愛しているというのが本当なら、相当嫌な想いをさせたはずだ。

ダリエはその言葉を信じ、思い切って自分からも腕を回す。

幼い頃とは違うその逞しい背中に驚きながらも、好きな人と触れ合えたことに対する歓喜が湧いた。


「ねえ、ダリエ。僕は君を愛しているよ、ほかの何者にも変えれない程に」

「……ディティーラ様、その……わたくしと、ディティーラ様を愛しております」

「ダリエ……」


ディティーラの腕の力が弱まり、二人の間に空間ができる。

柔らかく垂れた緑色の瞳が、ダリエを真っ直ぐに捉えて離さない。


「これからは、ダリエが不安になる暇なんてないくらい、いっぱい愛を伝えるよ」

「わ、わたくしも、その……頑張りますわ」

「うん……愛しているよ、ダリエ」


あの日と同じような夕焼けが2人を包んで、しかしダリエの心は柔らかい愛で溢れていた。

そしてそんなダリエは、1つ胸に決めたことがあった。


――婚約者様の「愛している」を、これからは信じ続けようと。

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婚約者様!あなたの「愛してる」はもう信じません! ぽりぷろぴれん、 @poriporipiren

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