胸の扉

高黄森哉

胸の扉


 とても暖かな、春の陽だまりの下、二人の子供がいた。名をオルカとトイという。少年オルカの方はしりもちをつき、少女トイは柔らかい膝をぺたんとして座っている。顔の産毛が太陽光線にちらつくのを、彼らは光の粒と呼び、それをつかもうと顔に手を近づける。もちろん、つかみ取ることは出来ない。ただ、肌のさらさらとした質感を感じるのみだ。しかし、彼らはそれでいいのだ。なぜならば、光の粒掬いなどという子供でも分かる幻想は建前で、本当は、お互いの柔らかな頬にふれあいたいだけなのだから。


「ねえ。トイの歯車も見せて。歯車」


 オルカは尋ねた。少年は少女に、胸の内側を見せたばかりであった。彼女に頼まれたわけではない。ただトイに、今日の歯車の形と動きを、知って欲しかっただけだ。歯車を見せるには、シャツをまくり上げるだけでよかった。


「やだ。恥ずかしいよ」

「なんで。もしかして、大人になっちゃったの。いいじゃん」

「ママがもう子供じゃないんだから見せちゃダメ、っていうんだもん」

「まだ子供だよ。僕たちは学校に通い始めたばかりじゃないか」


 と言われたトイは、考えるように、オルカの向こう側にある丘を眺めた。芝生のように整った、やや背の高い丘。景色はそこで中断されている。それなのに、向こう側の雄大な広がりを、疑うことは出来ない。美しい光景が際限なく与えられることは、必然なのだと、少女は信じている。それはまるで、この新しい発見に満ちた日常のように。


「ねえ、お願い。最後の一回。大人になるまえに、最後の一回だけ」

「しょうがないね。オルカくんは。じゃ、一回だけだよ」


 少女は、ワンピースをお腹でつまんで引っ張った。薄手の生地だが、肌は透けていない。ただ支えがないように風になびいている。おへそまで見えたところで、少年はてのひらを前に突き出して待ったをかけた。


「待って。やっぱり二回。あと一回は、どうしても、トイの歯車の動きを見たいとき用のとっておきとして、とっておきたい」

「よくばり。でも、昨日、飴をくれたから、いいよ」

「うん」


 少女は、ワンピースを胸のところまでたくし上げた。上の下着は、着ていなかったが、少年は気にしなかった。彼女の体のつくりはまだ、少年とそうかわらない。

 海岸の貝殻みたいなお腹。ワンピースの庇の影が斜に落ちている。だから、面積の半分程度しかない太陽光線の反射、なのに比喩でもなく眩しくて、少年は目を細める。


「開いていいの?」


 胸のフタは初めて見た。彼の同級生は、まだ誰も、胸にフタをはめているものはいない。これから増えだすと、周りの大人たちは言うものの、あの彼らがそれをしおらしく装着するとは、にわかには信じられない。


「いいよ。そっと開いてね。中身がずれないように」


 脇腹にある取っ手をつまみ、胸の扉を右へ開くと、彼女の中身が現れた。歯車の塊であった。大きな真鍮色の歯車が肺のあたりに収まっていて、その向かって右下に、中くらいの歯車が接続されている。その代表的な二つの歯車を取り囲むように、細かな歯車が寄り集まっている。どれも、それぞれの速度で動いていた。大きいほど遅く、小さいほど早く。断続的デジタルではなく、連続的アナログに。それは、心臓の代わりではないのだ。


「オルカ、私の歯車、錆びてない?」

「そんなに錆びてはないよ」


 数少ない錆びは、部品の表面に、シャボンの景色のような被膜を作り出し、それはそれで綺麗である。


「どう。ちゃんと、動いてる」

「うん」


 部品の中には宝石を使ったものも存在した。それは装飾というよりかはむしろ、なにかしらの仕事をしているようだ。水晶の共振などを利用して、外の変化を計測するのかもしれない。


「どうして隠さなきゃならないんだろう。どうして、こんなに綺麗なものを、大人になると、隠さなければならないんだろう」

「どうしてって、それは、大人だからでしょう」


 少女は当然のように答えた。


「うん。だけどトイ、歯車を見せたまま大人になることは出来ないのかなって。だって、そうしちゃいけないって、法律はないよ」

「でも大人になっても、歯車を見せてる人なんていないよ」

「それは、誰も試してないからじゃないかい。みんな怖いんだよ。大人になっても、まだ歯車を見せていると、子供に見られるから」

「だけど、大人になっても胸の扉をつけないなんて変だよ」


 オルカに悲しみがにじんだ。初めて、彼女があくまで他人であることを実感した。つながりがプツンと切れる音がする。


「でも、大人になるのに、出来ないことが増えるなんて変だ。だって、だっておかしいよ。人間って、前に進み続ける動物なんじゃないの。どうして、前に進むために退行しなきゃいけないんだろうか。ねえ、本当に歯車を仕舞わないといけないのかな」

「そんなのわからない。どうして、オルカは私を責めるの。大人になりたくないの。じゃあ、オルカは歯車を仕舞わなければいいじゃない」


 トイは立ち上がった。少年は、立ち上がった彼女を見上げた。少女の前髪の影が目元まで落ちていて、目が必要以上に、軽蔑を語っていた。

 少女は消えるように立ち去ってしまった。まるで、体勢を崩したようにして、次の瞬きには、視界から消えていた。もう、この原っぱのどこにもいない。それだけ、少年の瞬きが長かったのかもしれない。


 実際、オルカの彼女に対する瞬きは、実に二十年もの長さがあった。その間、彼女を見つけることは出来なかった。目をつむっていたからだ。久々に目を開けたときには、彼女は原っぱどころか彼の住む町からも消えていた。だからかは、彼自身もわからないのだが、あてもなく電車に乗る必要があった。


 駅のホームは閑散としている。平日の昼間のホームは、いつも、こんな具合だ。真上に太陽があると、影はすっぽりと駅のホームを包んでしまう。

 青い駅のベンチに腰掛けながら景色を眺める。世界は陰に落ちていると、より発色が良くなると、不穏なことを考えたりする。

 次の電車まで時間があった。だから、暇をつぶさなくてはならない。こういったとき、スマートフォンを持っていないと不便だ。彼は、対面のホームにも、誰もいないことを確認してから、念のため、チェックのシャツで覆いを作るようにして、お腹の歯車を観察した。

 それは、昔と比べて、もう少しだけ錆が浮いていた。ずっと開け放していると、どうしてもこうなってしまう。でも、病的ではなかった。中古屋のトランペットとか、それこそ銀色の腕時計とか、そういった静止した錆付きだ。

 歯車の動きは、昔よりもギクシャクしていた。一番大きな歯車は、少年期よりも速度が落ちていたし、その下にある中くらいのも、それにともなって、活動を抑えられていた。小さな歯車の中には、ゆがみのせいか、断続的に動くものさえ存在した。それでも、全体としては、ちゃんと一つの旋律を共有しているように見えた。一つが狂うと、他も同様に狂うので、全体がバランスを欠くことはないのである。


「それって、歯車。わあ、懐かしいな」


 見上げると、見知らぬ女性が立っていた。細身のスーツを着た女性で、髪の毛は永ぐ、うっすらと茶髪である。顔つきは全体的に縦に長い。誰だか知らないが、これだけは断言できる。彼女はトイではない。絶対に。


「まだ、開けたままにしている人って、いるんだ」


 彼女は、浮浪者のような男に、驚きと好機の視線を送った。わざわざ顔をやや横に向けてまで横目を使っているのだから、彼に気づいて欲しいのだろう。オルカも耐えきれなくて、ついに言葉を発した。


「開け放しにして錆びだらけさ。ひどいことを言われたこともあった。でも、無理やりにでも、ふたを付けようとするものは現れなかった」

「ふうん。私のも開けてみようかな」


 彼女は懐かしむように口を尖らした。


「ほんとうに」


 オルカは濁った眼で物をみるため、まなこに明かりをともした。瞳孔が均一に円になって、世界がはっきりしたような見え方で迫った。そんなことも、久々だ。

 彼女は、まず周囲を見渡す。歯車を見せることよりも、淫乱な人間だと思われることが恐ろしい。なぜなら、歯車を見せるためには腹を見せなければならない。遠目で見た際にどう思われるか分かったものではない。

 彼は、今まで、幽閉された歯車を見たことがなかった。外気にさらされてこなかったそれは、子供時代の輝きを今も保っているのだろうか。あの美しい歯車。


 その期待は、ろうそくの炎のようにもろく砕け散ってしまう。


 彼女の胸には、歯車はなかった。全く別の法則で、身体を動かしていた。それは心臓だった、肺だった、胃だった、肝臓だった、脾臓だった、腎臓だった、腸だった、大腸と小腸と、ほんのちょびっとだけの盲腸と、エトセトラ、エトセトラ。

 オルカはうなだれてしまった。膝に立てられたろうそくの灯が消えないように、しているようだった。彼は彼自身を包み込んだ。

 きっとトイはもう歯車を持っていない。この優しい女のように。あの美しい機構をきっと捨ててしまった。それがたまらなく悲しかった。美しい方法で、世界を紡ぐのをやめてしまった。

 その時、ついに彼は孤独になった。歯車を抱える唯一の人間として。心に、ふたをしてしまいたかった。それか胸にふたをしたかった。この空白が外側へ出ていかないように。


 空白。はっとして、彼は胸元をまくり上げて確認する。相変わらず歯車はそこにあって、彼だけの幻想を回し続けていた。

 

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胸の扉 高黄森哉 @kamikawa2001

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