満月が輝く夜
入江 涼子
第1話
私が満月の輝く夜に外へくり出すようになったのは十六歳の春の頃だったろうか。
私はしがない都の宮廷に仕える役人だ。官職の名は治部中丞(じぶのちゅうじょう)である。
治部省は戸籍などを管轄する役所で私はそこの中級の官吏になるのだが。位は低いので一生懸命働いて毎日の暮らしがかつかつといった感じだった。
それでも貴族の中ではましな方かと思う。
「どうした、中丞殿。何か浮かない顔をしているな」
そう声をかけてきたのは友人で同僚の紀直忠(きのなおただ)だった。
「いや、今日も変わりがないなと思ってな。直忠はいいな。女人にもてて」
「…有親(ありちか)。冗談でも言わないでくれ。女人は一人で間に合っている」
直忠は眉をしかめながら言った。私は少し色の薄い茶色の瞳に真っ直ぐな黒髪の友人に苦笑した。
「悪かったよ。からかうつもりはなかったんだが」
「だったら、手を動かしてくれ。書類は溜まっているんだからな」
直忠に言われて書類捌きを再開した。なかなかに大変な一日はあっという間に終わったのだった。
あれから、夜中になり私は通い所にしている妻の温子(あつこ)の元へ徒歩(かち)で向かう。牛車で行ってもいいのだが。
経費削減だったりする。
温子は付き合いが長くもう通い所にしてから三年が経とうとしていた。私が二十八歳だから温子は二十一歳くらいだろうか。
まだ、彼女は若いが私との間に二人の息子をもうけていた。長男が三歳で次男が一歳になったばかりだ。
三日間通い続けて後朝の文も自邸に帰った後ですぐに出している。れっきとした正妻である温子は中流貴族の出身だ。私と似たような身分といえる。
徒歩で歩き続けて小半刻ほど経って温子の住む四条の邸にたどり着いた。門の見張り番に私の名前を告げると彼らは心得た様子で開けて中に通してくれる。
中に入り、階(きざはし)の近くで靴を脱いだ。そのまま、上がり込む。
室内から二人ほど女房が出てくる。
「まあ、中丞様。よくお越しくださいました。お方様もお待ちかねです」
「ああ。いきなり来てすまないね。とりあえず、上がらせてもらうよ」
「…はい。お方様にお知らせしてきます」
女房はそう言って温子がいるであろう奥に入っていった。
私はしばらく待つ。今は葉月だから夜になってもまだそんなに寒くない。
庭を眺めながら待っていた。女房が再びこちらにやってきた。
「中丞様。お方様がよいとの事です。お上りくださいませ」
「ああ。わかった。では上がらせてもらうよ」
私は簀子縁から中に入る。女房たちの内、一人が先導役になって私を奥に連れていく。しばらくして廂の間にたどり着いた。
女房は御座を用意して出ていった。私は御座に座り温子が出てくるのを待つ。
中は一つ灯明があるだけで薄暗い。それでも人の気配が御簾の向こうでして私は居住まいを正した。
「…中丞様。いえ、敦衞(あつひら)様。よくおいでくださいました」
ゆるゆるとした声が聞こえて私は温子が来たのだとわかる。返事をしたのだった。
「ああ。夜分遅くにすまないね。温子、元気にしていたか?」
「ええ。元気にしていましたよ。敦衞様もお元気そうで何よりです」
温子はそう言いながらころころと笑った。私の実名は大江敦衞(おおえのあつひら)といって温子からは敦衞様と呼ばれている。
といってもよく知った相手といる時か二人きりの時くらいだが。
温子は御簾の内からふいに出てきた。膝でゆっくりとにじり寄ってこちらに近づいてくる。
少し毛先が細くなって翡翠色にも見える髪と小さな顔。華奢な肩にはらはらと髪がかかる。
ほのかに香が薫り彼女の好きなものだとわかった。私は二重だが少し垂れ気味の瞳とすっきりとした鼻筋、薄いが紅い唇を見て変わっていないなと思う。
「温子。長い間、来れなくてすまなかった。仕事が立て込んでいてなかなか時間が取れなくてね」
謝ると温子は私の側までやってきて苦笑した。
「いいえ。気にしていませんから。その分、きちんと文はくださっていたではありませんか。息子たちの事も気にしてくださって」
「それでもだよ。温子には負担をかけさせるね」
「敦衞様。それより、お酒をお持ちしますね。肴は何がよいでしょうか?」
温子はそう言って立ち上がり女房を呼んだ。
その後、温子と話をしながら酒を飲んで肴に手をつける。肴は川魚の塩焼きに唐菓子などだ。
温子の実家は現在、国守をしていてそのツテで唐菓子を入手できるのだと聞いた。
「敦衞様。お仕事が本当に忙しかったのですね。直忠様もお元気でしたか?」
「ああ。あいつは元気にしているよ。直忠は私よりも武芸が得意だから。大丈夫だと思う」
「確かにそうでしたわね。そうそう、子供たちの事ですけど。長男の鶴若と次男の小若に付ける先生をどなたにしようかと思いまして。敦衞様はどう思われますか?」
温子から意外な事を聞いて私は驚きながらもさてと考えた。
「…そうだな。学問の先生だったら直忠の知り合いの紀先生がいいだろうな。歌とか風流事の先生は赤染時継殿か。武芸の先生は源氏の武士で依光殿がいいかな。このお三方に私から頼んでみるよ」
「わざわざすみません。けど、鶴若たちの先生を早めに決めておかないと困るので」
「それはそうだろうな。わかった、直忠にも紀先生に受けていただけるように働きかけてもらおうか」
そう言って盃に入った酒を飲んだ。ほんのりと甘い酒は体をじんわりと温める。
温子と鶴若と小若の話をしたのだった。
翌朝、温子と同じ部屋で目覚めた私は朝日が昇る時間に身支度を始めた。温子も少し後に起きて袍(ほう)を着たりするのを手伝ってくれた。冠を被り何とか着替えは済んだ。
「敦衞様。せめて、朝餉はお召し上がりになってください。用意させます」
「すまないね。そうしてもらえると助かるよ」
私が礼を言うと温子は笑いながら気にしないでくださいといった。私は言葉に甘えて朝餉として出された汁粥と大根(おおね)のにらぎを食べたのだった。
温子に見送られながらまた治部省に出勤する。
ちなみに洗顔などもすませてはいるが。徒歩で行くとさすがに笑われるとあって温子が気を利かせてくれた。
牛車を用意して引く牛や牛飼童、従者を付けて出立させたのだ。私は自邸を持ってはいるが国守に就任した事がないために貧乏な暮らしをしているといえた。
「殿、大内裏の近くまで来ました。徒歩で行かれますか?」
従者が声をかけてきた。
「ああ。ありがとう。そうだな、徒歩で行きたいから浅沓を用意してくれ」
「わかりました」
従者はきびきびと答えると浅沓を足を置く台に乗せる。それを履くと地面に降り立つ。
既に牛は離してあり私は従者に夕刻になったら今の場所に来てくれるように言付けた。
それをいい終えてから大内裏の内に続く門から中に入る。歩いて治部省の建物を目指した。
浅沓は新品ではないが穴などもなく歩きやすい。温子が新しい物に買い換えてくれてからこれをずっと履いている。彼女と結婚してからは衣もきちんと縫ってもらえるし身の回りの世話も気を配ってくれていた。
いつかは温子に恩返しをしてやりたい。そう思いながら治部省の建物に入ったのだった。
あれから、通常通りに書類を片付けて昼餉を食べて夕刻まで資料を片手にまた書類の作成をしていた。直忠も必死に書類を捌いている。
日時計で時刻を確認したら既に夕刻になっていた。
「直忠。もう夕刻だ。そろそろ、退出しないか?」
「ああ。そうだな、中丞いや。敦衞の言う通りだ。切り上げるとするよ」
直忠は筆を置くと伸びをした。
その後、仕事を切り上げて牛車のある大内裏の外まで直忠と歩きながら向かった。すっかり暗くなっていて日は沈んでいた。
空にはぽっかりと綺麗な満月が浮かんでいる。私と直忠はそれを見上げながらゆっくりと歩く。
「見事な望月だな。かぐや姫が月にでも帰ってしまいそうな」
「…なかなかに不吉な事を言うな。直忠、いきなりどうしたんだ」
私が問いかけると直忠は何でもないと首を横に振った。
「いや。ただ、こんな満月の夜はどうしても思い出してしまうんだ。敦衞は覚えているか?」
「何を?」
私が本当に訳がわからず問い返すと直忠は仕方ないかとため息をつく。
「…敦衞は覚えていなくても仕方ないか。もう随分昔の話だしな。今から十五年も前だ。わたしには初恋の姫がいてな。敦衞も知っているだろう」
「初恋の姫か。もしや、温子の姉君の事かな?」
「そうだ。四条の女君の姉姫、名を晁子(あさこ)姫といったんだが。晁子姫はわたしや敦衞と幼なじみだったろう。彼女をいつからか異性として意識し始めて…」直忠は遠い所を見るような目付きで昔を思い出していた。
「晁子姫はわたしの気持ちに気づいていたようでな。いつしか、両想いになっていた。晁子姫とわたしは筒井筒の仲になって将来を約束し合うようになった。わたしが成人をしてから晁子姫の父君に直談判して結婚までこぎ着けた。が、晁子姫はわずか五年後に双子の姫を残して儚くなってしまってな」
「…確か双子の姫は姉姫が直忠の元に引き取られて妹姫は晁子姫の叔母君、出雲守の北の方様が引き取られたんだったな。双子は縁起が悪いと周囲が騒ぎ立てたが」
「そうだ。敦衞、もしよければだが。鶴若とうちの姫を会わせてもいいか?」
いきなりの提案に私は驚いて固まってしまう。
「お前んとこの姫と鶴若を?」
「ああ。姫は昌子姫(あきこ)という。鶴若は今年で三つだったか。昌子姫は同い年だから遊び相手にはちょうどいいだろう」一人で話をつけてしまう直忠に私は待てと言った。
「直忠。待ってくれ。いきなりそんなことを言われてもな。まず、温子に知らせないと」
「それもそうだな。四条の君に聞いてみてくれ」
「まあ、期待はしないでくれよ。温子と晁子姫は姉妹だしな」
そこを念押しすると直忠は苦笑しながらもわかったと頷いた。私は牛車に乗り直忠に見送られながら家路に着いたのだった。
あれから、直忠の話を温子にしてみた。鶴若と直忠んとこの姫が同い年で会わせてみたいと彼が言っていたと簡単に説明する。
「まあ、直忠様が娘君を鶴若に会わせてみたいと。それは娘君は承知なさっていますの?」
「まあ、娘君は鶴若と同い年だから知らないんじゃないかな。けど直忠も乗り気な事だし。もしよければ、この話を受けてみてもいいと思うんだが」
私が言うと温子は悩む様子を見せる。
「…そうですわね。鶴若と昌子姫様は年が近いですし。わかりました、会わせてみてもいいでしょう。その代わり、小若のお相手はわたくしが決めます。よろしいですね?」
「わかったよ。小若の相手は君が決めたらいい。ありがとう、恩に着る」
私が礼を言うと温子は鶴若のためですからと告げた。感謝しながら彼女の温かな手を握りしめたのだった。
「父上。こんにちは!」
元気に私に声をかけてきたのは長男の鶴若だ。
「ああ、こんにちは。鶴若、元気にしていたか?」
「うん。父上が僕らの対屋まで来るなんて珍しいね」
鶴若が黒目がちで切れ長な目を細めてにかっと笑う。
「ああ。確かに言われてみればそうだな。鶴若、今日は父上と一緒に出かけようか?」
「え。父上と?」
「そうだよ。直忠のおじ様んとこだ。そこにお前と同い年の子がいるから遊びに行こうか」
「え。もしかして僕と同じ男の子?」
「すまない。違うんだ。男の子ではなくて女の子でね。でも、お前と同い年なのは本当だよ」
わかりやすく簡単に説明したが鶴若は不機嫌になってしまった。
「ちぇっ。女の子かあ。僕、同じ男の子の方がいいな」
「まあまあそう言わずに。昌子姫といってね、鶴若と仲良くしてくれるはずだよ」
「そう言われても。でも、どんな子なのかな?」
鶴若は幼い子供らしく昌子姫がどんな感じなのかは気になるらしい。二人がうまくいってくれればなと思った。
鶴若と二人で直忠が住む五条の邸を訪れた。「父上。直忠おじ様と会えるかな?」
「会えると思うよ。後、昌子姫にもちゃんと挨拶しよう。お話だけでもしてくれたら父上としては嬉しいんだけどね」
そう言っても鶴若にしてみると理解できないらしい。むすっと顔をむくれさせてしまう。
「だって。僕と同い年といっても女の子の相手なんてできないよ。母上が一緒だったらよかったのにな」
「鶴若。母上は一緒には来れないよ。昌子姫と挨拶さえしてくれたら後は好きにしてくれたらいいから」
仕方なく言うと鶴若はやっと機嫌を直してくれた。わかったと頷いて邸に入るまでおとなしくしていた。
直忠の邸に入った。
直忠本人が簀子縁で待っていて側には乳母らしき女人がいる。
「よく来てくれた。鶴若も大きくなったな」
「はい。おじ様もお久しぶりです」
鶴若は三歳とは思えないしっかりとした動作で頭を下げる。直忠は笑いながら鶴若を褒めた。
「おお。なかなかにしっかりとしてきたな。鶴若、姫の前でも今のように頼むぞ」
「…はい」
鶴若は気が進まないながらも頷いた。直忠は乳母らしき女人に姫を呼んでくるように言ってから私と鶴若に中に入るように促す。
御簾をくぐり中に入ると御座に座った。直忠は鶴若が喜ぶようにと珍しい芋粥や唐菓子を用意していた。
「鶴若。今日は芋粥や唐菓子があるから食べていきなさい。姫はもう少ししたら来るから。待っていてくれ」
「わかりました」
鶴若は素直に頷くと折敷に乗せられた芋粥を食べ始めた。
「うん。おいしい!」
早速、口元に甘葛(あまずら)の汁をべったりとつけながら満面の笑みを浮かべる。側に控えていた女房が気を利かせて布で鶴若の口元を拭ってくれた。
私も唐菓子を口に運びながら直忠と話をした。
「なかなかに美味な唐菓子だな。油で揚げたのがいい」
「そうだろう。父上に言ったら送ってくれてな。姫のために取り寄せたらしい」
「へえ。昌子姫は直忠の父君に可愛がられているんだな」
頷きながら言うと直忠は肩を竦める。
「まあ、父上は兄上がなかなか子供たちに会わせてくれないからその分、昌子を可愛いがっていてな。時折、連れて行くと膝に乗せたり遊び相手を母上としていたりするぞ」
「ふうん。昌子姫をね。うちの両親とは違うな」
だろうと直忠は苦笑しながら頷いた。
「昌子は賢いし顔立ちも綺麗な子だからと父上は目に入れても痛くないくらいに気に入ってはいるな。姫だから余計に手放したくはないようだ」
芋粥にも手を伸ばしながら直忠は呟いた。私もそうだろうなと相づちを打つ。
男二人で鶴若の事や昌子姫の事を話したのだった。
しばらくして昌子姫が乳母に手を引かれながら私たちのいる部屋にやってきた。尼削ぎの髪が艶々としていて眉も綺麗に整えられている。
目元は直忠に似て二重でぱっちりとしており鼻筋もすっきりとした端正な感じの美しい姫君だ。私は叔母にあたり妻でもある温子に少しだが似ているなと思った。
昌子姫らしき少女は泣くでもなく笑うでもなく鶴若と私を見つめている。
「父様。こちらの方はどなた?」
澄んだ声で姫は直忠に問うてきた。
「こちらは父様の友達で大江敦衛殿だ。んで隣にいるのが息子さんの鶴若君だよ。今日は昌子に会わせたくて来てもらったんだ」
「ふうん。そうなの。父様、わたくしと鶴若様を会わせたかったのね」
「まあ、そういうところだね」
直忠はそう言いながら昌子姫に手招きをした。姫はわかったらしくゆっくりと歩いて彼の元まで来ると膝の上に乗った。ちょこんと座っている様子はこちらも微笑ましくなる。なかなかに愛らしいなと思った。
「父上。あの子がおじ様の姫なの?」
「そうだよ。挨拶しておいで」
鶴若に促すと私の側から離れて姫の方に歩き出した。昌子姫も大きな二重の瞳で観察している。
三歳の姫とは思えないほどに冷静だ。驚きながらも子供たちの様子を見守った。
「…あの。あなたがおじ様の姫君かな?」
「そうです。あなたが鶴若様?」
「うん。えっとお名前は昌子姫だったよね。昌子殿と呼んでいいかな」
「かまいませんわ。でしたら、わたくしは鶴若様と呼ばせていただきます」
鶴若は昌子姫の返答に驚きながらもにっこりと笑った。
「わかった。じゃあ、昌子殿。何で遊ぶ?」
「お外で池を見ません事?とても大きいんですのよ」
「へえ。池か。わかった、見に行こう!」
昌子姫は直忠の膝から降りると鶴若と手を繋いで外に行ってしまった。慌てて乳母や女房たちが後を追う。
私と直忠は目を見合せながら苦笑した。
「さすがに子供同士、打ち解けるのは早いな。何か互いの小さな頃を思い出すよ」
直忠が言えば私も頷く。
「そうだな。鶴若は最初はあんなに嫌がっていたのに。不思議なもんだ」
「ああ。昌子は将来引く手あまたになりそうではあるが。鶴若も困りそうというか」
直忠の言葉にそうだなと笑う。確かに昌子姫はかなりの美人に育ちそうではある。鶴若の手にあの姫が負えるかどうか。なかなかに悩み所ではあった。
息子の恋路の険しさにため息をつきたくなったのだった。
あれから、一年が経って鶴若と昌子姫はすっかり仲良しになっていた。二人とも四歳になり少し大人びてきたような気がする。
長月に入り涼しくなってきたので直忠は二人に手鞠を与えて遊ぶように言った。手鞠であれば、昌子姫でも遊びやすいだろうと直忠が気を使ったのだ。
娘のためとなれば直忠も気配りを欠かさないらしい。私も見習わなければなと思った。
「敦衛。二人を許嫁にして一年が経ったな。温子殿はどうだ?」
「その。温子は今、懐妊していてな。会えないでいるんだ」
「え。温子殿が懐妊か。でかしたな、敦衛!」
直忠がにやりと笑いながら言ったが。私は彼の口を手で塞いだ。
「な。子供たちに聞こえたらどうするんだ!ただでさえ、鶴若は最近ませてきたっていうのに」
焦って言えば、直忠は目を見開いた。そしてお腹を抱えて笑い出した。
「あはは!鶴若がませてきたね。それはお前、少しは姫の事を意識しだした証拠だろう」
「…はあ。いいよな、お前は気楽で。鶴若ときたら女童で可愛い子がいたら年上だろうと構わずに声をかけるんだ。さすがにちょっかいは出させないように温子と気をつけてはいるんだが。いつからあんな風になっちまったんだか…」
私がトホホと言いながら愚痴ると直忠は笑うのをやめて真面目な顔になった。
「ふうむ。女童で可愛い子がいたら声をかけるか。そりゃ、こちらとしても困るな」
「何でだよ」
「え。だって鶴若が浮気性な奴に育ってしまうと昌子が困るじゃないか。今の内に直しておかないと俺としても敦衛にしても互いに面倒事になりかねん」
「まあ、そうなるな」
私が頷くと直忠は本当だと言う。鶴若たちはそんなこと知らずに庭を走り回っている。親の心子知らずとはよくいったものだと頭が痛くなった。
鶴若と昌子姫が婚約してからさらに三年が経った。二人は七歳になり四歳の時より互いの事を異性として意識するようになっている。鶴若は既に花にご料紙を結びつけて昌子姫に恋文を送るまでになっていた。でも書いてある歌は姫から「要練習」と言われ、つれない返事しかもらえていない。
こればかりは父として何とかしてやらねばと思っている。後で紀先生などに歌を重点的に教えてやってほしいと頼んでおこう。
そう習字をしている鶴若の背中を見つめながら決めたのだった。
「おとうたま!」
舌足らずな言葉づかいで末っ子の伊予姫が私に走って近づいてきた。伊予姫は今年で四歳になる。
だが、成長が他の子よりゆっくりで私や温子を心配させた。何せ、体も丈夫ではなくてちょっとした事で熱を出したりしてしまう。
鶴若と小若もひどく心配して伊予姫の様子をよく見に行っている。「殿、今日は伊予も体調が良いみたいで。鶴若や小若たちと一緒に貝合わせをしていまして。楽しそうに遊んでいましたよ」
「そうか。それはよかった。伊予の遊び相手を昌子姫にお願いしてみようか。昌子姫に我が家にいらしてもらう事になるが」
「そうですね。昌子姫にいらしていただいても良いかもしれません。もしよければ、直忠様にお願いしてみては?」
「ああ、そうしてみるよ。直忠だったらいいと言ってくれると思うが」
頷いて温子の提案を実行してみせる事にしたのだった。
直忠に伊予の遊び相手を昌子姫にしてもらえないか頼んでみた。最初は娘を外出させる事に難色を示していたが。
私が伊予は体が弱いし男兄弟しかいないから同性で遊べる相手が一人でもいれば喜ぶと言うと直忠は条件つきで承諾してくれた。鶴若を迎えに寄越す事、これが昌子姫を我が家に来させる場合の条件だった。
仕方なくそれは受け入れた。
昌子姫は今年の春頃から我が家に来るようになる。最初は緊張していた伊予も昌子姫の落ち着いた話し方や穏やかな物腰に今は慣れてなついていた。
「…姉様(あねさま)。今日は物語を読みましょう」
「わかった。どの物語にする?」
伊予は昌子姫を姉様と呼んで慕っている。姫も伊予さんと呼んで二人とも実の姉妹のように仲が良くなっていた。
温子とそれを遠目で眺めながら笑い合う。
「伊予があんなに昌子姫になつくとはな。鶴若とも順調に仲良しみたいだし。よかったよかった」
「そうですね。伊予も姫と一緒に遊ぶようになってから体調もよくなりましたし。この状態が続けばいいのですけど」
そうだなと頷いた。
空は青く澄んでいる。それを見つめながら伊予や鶴若たちの健康を祈った。
そうして、六年が経ち鶴若は元服した。名を忠親(ただちか)と改めて元服式の夜に昌子姫と結婚する。
直忠は男親なので三日夜などの儀式を取り仕切ったのは実は温子と彼の姉君だった。私も後朝の文に必要なご料紙などを用意したりで忙しかったが。
初夜を無事に迎えて忠親は一人前の男になった。といってもまだ十三歳だが。
「お父様。兄様(あにさま)が婿入りなさったから寂しくなりましたね」
娘の伊予が話しかけてきた。私もそうだなと頷いた。伊予も今年で十歳になる。
「忠親兄様が婿入りなさって後は小若の兄様とわたしだけになりました。昌子姉様もこちらに来るのが難しくなりましたし」
「うむ。そうだな。小若も今年で十一歳になったし。どうするかな」
私は顎を撫でながら考え込んだ。今年で三十八歳になり温子も三十二歳で年を取ったなとしみじみとなる。
「兄様たちが婿入りしたらわたし一人だけになります。寂しくなるわ、余計に」
「そうだな。まあ、忠親や小若たちも姫が生まれたら連れて来てくれるかもしれんぞ。それを楽しみにしてもいいと思うが」
冗談めかして言うと伊予はふふと笑った。
「そうですね。確かに姪が生まれたら兄様は連れて来てくれるかもしれません。じゃあ、それを待っていようかしら」
そうしなさいと言うと伊予はまた笑った。側には妻の温子もいる。涙ぐみながら伊予を見ていた。
温子は伊予が長くは生きられないと知っている。それでも、せめて直親や小若に子が生まれるまでは元気でいてほしい。
私は心の中で神仏に祈った。伊予は庭に咲く萩の花を眺めながら嬉しそうに笑う。
私と温子は悲しさを押し隠しながらも伊予に笑いかけたのだった。
―終わり―
満月が輝く夜 入江 涼子 @irie05
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます