第67話 笹井さんは気づいてる?
僕は人を殺した。いや、失敗した。だが首を切ったのは本当なんだ。今も手に血の感触が残っている。手を見ていると、赤く染まっているように錯覚する。
「うわぁー」
本当に視界が真っ赤に染まった。手が血濡れている。感触は錯覚ではない。彼女の血が。血が。
「渡辺くん、ごめんなさい」
「笹井さん、やるねえ。わたなべが面白いことになってる」
そうだな、笹井さんだ。笹井さんが僕に血のように真っ赤な絵の具を大量にぶっかけたんだ。亜衣さん、ウケすぎ。
「まただね」
「またいい?」
「いいわけあるかーい」
笹井さんは絵の具まみれの僕の手を画用紙に押しつけて絵を描こうとする。抵抗して僕の手を使わせない。
「前は協力してくれたのにー」
「判断力がにぶっているあいだに協力させられただけで、自分の意志ではない。美術の時間のたびに絵の具をぶっかけられる可能性を考えると、協力するわけにはいかん」
「むう、いぢわる」
ほっぺをふくらませてスネる笹井さん愛らしい。抱きしめたい。なんなら胸の中に埋め込んでひとつになってしまいたい。亜衣さんは写真撮るのやめろ。
ラブコメの神様はいたらしい。僕たちは3年生になった。笹井さんと同じクラス、しかも1学期はとなりの席になった。感謝だ。校庭にラブコメ教の教会を建てたいくらいだ。ついでに亜衣さんも同じクラスのとなりの席というのにはひと言申したくもなるが。
美術の授業が終わって廊下の水道で筆を洗う。こちら側は校舎の裏で、目の前の窓からは日陰でひんやりな景色しか見えない。
「わたなべ、大丈夫?」
「平気平気、バスタオルも着替えも用意してあるからな」
「笹井さん、ひどいよ」
亜衣さん、笹井さんを責めてはいかんぞ。なんたってドジっ子なんだし、魅力の一部ともなっているんだからな。さっきは面白がっていたくせに。いまも顔がにやけているぞ。笑いをガマンしようとするなら、しっかりガマンしろ。
「教室に行ったらジャージ貸してあげるね」
「大丈夫だ、バスタオルと着替えなら用意してあるって言っただろ」
笹井さんと一緒にいるとバスタオルも着替えも頻繁に必要になる。僕は教室に常備しているのだ。
「ボクのジャージだよ? いいにおいするよ、着たいよね」
いや、大丈夫だ。僕がひどい目にあったのをいいことに、なにかのイベントを起そうとするな。
道具の片づけが終わり美術室を出て教室に戻る。3年生になって教室は2階になった。1階分階段をおりなければならない。道具をもって階段をおりるのはちょっぴり危険、僕が笹井さんの前をゆく。亜衣さんは踊り場にいて待っている。待たなくていのに。
がたっと物音がして、背中に衝撃がきた。
「おおう」
足を止める。振り返ると、僕の背中に笹井さんがしがみついていた。階段につまづくか、足を踏み外すかしたんだろう。
「きゃっ、渡辺くん血が」
「血って、さっき笹井さんが絵の具をぶっかけたんだろ?」
「でも、カッター背中に刺さってる」
「そいつはヤバいな」
「わたなべが死んじゃう!」
背中が痛がゆい。本当にカッターが刺さったみたい。絵を描くのにカッター使ったっけ? これはバスタオルと着替えじゃどうにもならん、救急車呼んで。亜衣さん、僕は死なないぞ、変な期待するな。
傷は深くなく、担任の先生に病院に連れて行ってもらうことになった。付き添いに笹井さんも一緒だ。亜衣さんまでついてこようとしたけれど、担任に止められた。
担任というのが運悪く2年のときと同じで、三原さんの葬式のときに乗せられたせまい車だ。笹井さんを後部座席に押し込んでの移動となった。
「あらん少年、私のこと大好きなの?」
診察室にはいると、なぜか看護師の角野さんが僕を診てくれる医者の助手のようなことをやっていた。入院患者の世話とは部署がちがうんじゃないか。
「冗談よう」
「ぎゃー!」
なにが冗談なのかわからないうちに背中をバンと叩かれたものだから、僕は悲鳴をあげた。こんなおばさんに看護師をやらせていてはいかんだろ。
僕の背中は角野さんに傷を広げられそうになりつつも、何針か縫って治療が終わった。治療のあいだに、角野さんは入院部門から外来部門に異動になったと聞かされた、僕は聞いてないのに。苦情が多かったせいにちがいない。
痛かったら飲めと痛み止めが出されることになったのだが、まずそれくれ。燃えてるんじゃないかってくらい、めっちゃ痛いんだが。麻酔の効果きれるの早すぎでは? この病院、麻酔の量をケチってんじゃないだろうな。
医者の注意を聞いて待合室にもどることになった。そろりと立ち上がる。
「よかったわねえ。元サヤってやつ?」
余計なことをおぼえているおばさんだ。亜衣さんは彼女じゃないんだからな。笹井さんもだけど。
先生が窓口で手続きをしているあいだ、笹井さんとベンチにすわって待つ。
「ごめんね、痛いでしょ?」
「めっちゃ痛いけど、笹井さんが階段を転がり落ちなくてよかったよ」
笹井さんはドジっ子なだけなんだから、なにも悪くないし、気にしなくていいんだ。
「2年生になってすぐのときにも渡辺くんにたすけてもらったんだ、階段を落ちそうになって。そのときは突き飛ばしちゃって、渡辺くん足首ひねったんだよ」
「そうだっけ」
「わざと突き飛ばしただろって責められるかと思ったら、今みたいに痛いけど大丈夫って言ってくれたんだ」
たぶん笹井さんと話ができてラッキーだと思っていたんだろうな。
「階段はあぶないからおりるときは誰かのうしろについて行った方がいいって。僕のうしろとかって言ったんだよ。おぼえてないかな」
おぼえてないな。笹井さんとの会話をおぼえていないとは、僕のポンコツ!
ちょっと待て、これってあれじゃないか? 階段を落ちそうになったというささいな事件をきっかけに、僕のことが気になっていたというグレイトなエビソードなのでは。笹井さんなだけに。ラブコメだ!
「あ、ちがうよ」
ちがうのかぁ! ラブコメの神様を信用し過ぎたぜ。
「落ちても大丈夫なように渡辺くんのうしろにいたんじゃないよ」
そっちね。僕がわざと笹井さんのまえを歩いたんだ。
「でも、渡辺くんはわたしにやさしすぎるよね」
そりゃあ、笹井さんは僕の特別天然記念物だからな。保護しないといけない。
「なんでかなあって不思議なんだ。ミステリー」
そいつぁー、恋のミステリーだね。笹井さんにしか解けない。
「渡辺くんはわたしのこと殺そうとしたり、殺そうとしたって言ってきたり、三原さんを殺したって言い張ったり、謎だらけだよ」
僕にもよくわからんからな。三原さんも笹井さんも、なんで殺したくなってしまうのか。殺したい衝動を克服しなければ笹井さんと一緒にいられないんだから、どうにかしなくてはいけない。
「最初の謎は、早く解きたいな。あともうすこしかも?」
いやいやいや、もう気づいてない? 僕の感情は顔に出やすいみたいだし。
笹井さんは立ち上がる。
「先生、終わったみたいだよ」
笹井さんとの素敵なおしゃべりの時間は終わりだ。先生が窓口のところでこちらに向きを変えて手をあげている。僕も慎重に立ち上がる。
「気をつけてね」
笹井さんやさしい、僕を待ってくれている。
「うん、ありがとう」
「あっ」
僕がとなりに追いついて笹井さんは前を向こうとした。足をもつれさせて体勢がくずれる。僕は腕を伸ばして笹井さんを受け止める。
「ぐぎゃ」
背中に激痛が走った。これ、傷口パックリ開いただろ。
笹井さんとの未来があったとして、僕の体はどのくらいもつのだろうか。
笹井さんは気づいてる? 九乃カナ @kyuno-kana
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