第7話

 有給を取った日曜に、僕とえりちゃんは杏花の部屋に引っ越した。

 僕の荷物は大きめのリュック一つだけ。えりちゃんも負けてなくて、大きなスーツケース一つという少なさだった。

 僕たちの荷物を見て、杏花は目を丸くした。

「ミナトはいいとして。えり、本当にこれだけなの? 学校関係の物は?」

「マンションに置いてきたよ。課題作りはあっちでやろうと思って」

「そんなの面倒でしょ? 持ってくればいいのに」

「お腹にいる赤ちゃんの近くで、ミシンかけられないよ。できるだけ気を遣わないようにするのが、今の私の目標だから」

 えりちゃんは明るく笑った。もう治ったんじゃないかと思うほど、えりちゃんは体重も増えて、元の体型に戻りつつある。

 僕の荷物は杏花の寝室に。えりちゃんは空部屋を貸してもらって、

「こんなに豪華なマンションで一室使わせてもらえるなんて、めちゃくちゃ贅沢だよね」

 そう言ってはしゃいでいる。そうかと思ったら次の瞬間、

「それにしても新婚さんの邪魔して申し訳ないです」

 急にしゅんとして、今にも泣きそうな顔になる。

「病気が良くなったら、すぐに出ていくからね」

「いいよ、気にしないで。私も初めてのお産で不安だし、お互いに支え合えたらいいなと思ってるよ」

「そう? やっぱ邪魔だよね」

 えりちゃんは僕を見る。

「邪魔と言われたら邪魔かもね」

「え? 何を言うのミナト」

 ぎょっとしたように、杏花が僕の腕を引っ張る。

「邪魔だけど、一緒にいたいと思う気持ちの方が大きいから」

「そういう言葉が、私には有難いです」

 えりちゃんは笑った。

「杏花も思ってること、素直に出しちゃってよ」

「困ったな……社会人だし、性格的にこういうのが一番苦手なのよ」

 杏花は頭をかきながら、

「非常に邪魔だけど、えりのことは心配だから。私を支えてほしいっていうのは本音だよ。これでもう許して」

 そう言って僕の後ろに隠れた。可愛いなあと思ってハグすると、

「ちょっともう。このノリには付き合えないから」キッチンの方へ逃げて、何やら鍋を出し始めた。

 僕とえりちゃんは、目を合わせて微笑む。こういうイジリ方があるなんて、高校の時に教えてほしかったな。

 荷物を片づけたえりちゃんは、友達と会ってくると言ってさっさと出て行った。

 僕はソファに寝転んで、妊娠と出産ガイドを読んだ。生命が生まれる奇跡に感動して泣いてたら、

「あれ? スキップしないの?」杏花がクールな目で僕を見た。こいつ、さっきのしかえしだな。

「そういえば、猫ちゃんはどうしたの?」

「えりちゃんの友達のテルちゃんが引き取ってくれたよ」

「ああ、あの可愛らしい子ね。良かった。引き取り手が見つかって」

 微笑みながら杏花はベランダへ出て行った。僕も興味を惹かれて付いて行く。わりと広めのベランダには植物がたくさん置いてあったり、白いテーブルセットなんかもあって、なかなかいい雰囲気。とりあえず柵に近づいて、外の景色を眺める。高い建物が少なくて見晴らしがとても良かった。少し向こうに川が流れていて、小学校らしき建物やグラウンドが見える。

「いい景色でしょ?」

 植物に水をやりながら、杏花が聞いた。

「うん。サイコー」

「この景色が気に入って、ここ買ったんだ」

「え? ここって杏花の持家?」

「そうだよ。分譲マンションだもん」

「この若さでマンション持ってるんだ」

 普通に感心していると、彼女は微笑んで、

「頑張ったんだよ。ミナトが外国に行ってる間、必死で働いたんだから。まあ現在も進行形だけどね」

 僕は杏花を優しく抱きしめる。

「これからは僕も頑張るからね」

「ふふっ。パパ頑張ってよ」

 彼女にキスをした後、

「それにしても杏花のお父さんって仕事が早くない? 式場とか招待客とか、着々と準備してくれて、僕の出番がないんだけど」そう愚痴をこぼすと、

「いいじゃない。きっと会長になったから暇なのよ。私はお式とか興味ない方だし、お任せする方が楽なんだ」

 杏花は笑って、僕の腕からするっと抜けだした。そしてお腹を触って、

「私は仕事と妊婦だけで精一杯だし、ミナトはえりで精一杯。だから助けてもらいましょ」

 楽しそうに笑って、ベランダから出て行った。

 

 その知らせを聞いたのは、リュージさんの自宅に招かれていた時だった。

 高層マンションのワンフロアを、自由に仕切ったようなだだっ広いリビング。そこで、クッションに寝転び赤ワインを飲んでいると、

「お待たせー」

 ソノちゃんがローストビーフを小皿に取って、持ってきてくれた。

「ありがと。ソノちゃんもそろそろ座れば?」

「うん」

 白いエプロン姿の彼女は、清楚な雰囲気が漂っていて、今までで一番キレイに見えた。

「えりと杏花も来れたら良かったのにね」

「また今度、二人でお邪魔するって言ってたよ」

「年配の人が多いから、ちょっと堅苦しくて。ミナトくんがいてくれてホッとしてる」

 そう言って振り返る。今日はリュージさんの友達が集まって、ソノちゃんのお披露目を兼ねたパーティが催されていた。

 つられて振り返ると、リュージさんはいつものテンガロンにアロハを着て、ちょっとお洒落なオジサマや、柄の悪そうな雰囲気のオジサマたちに囲まれて大笑いしている。

「入籍おめでとう」

 僕はワイングラスを持ち上げる。

 ソノちゃんは照れくさそうに微笑んで、

「ありがとう。今度こそ幸せになれるかな」と僕を見た。

「なれるよ。その指輪だけで、しばらく生活出来るんじゃない?」

 彼女の左手に光っているダイヤモンドを見て、

「リュージさん、本当にソノちゃんのこと好きなんだな」

 僕はため息をつく。

「ちょっと喧嘩してたんだけど、そういう一途なところを見せられると、仲直りしてやろうかって気分になってきたよ」

「そうしてあげて。ミナトくんに無視されて、結構傷ついてるから」

 ソノちゃんは笑った。

「あなたのこと、息子のように思ってるみたい」

「本物の子供が生まれたら、僕なんてお払い箱ですよ」

 僕はソノちゃんのお腹を見る。

「杏花が喜んでたよ。一緒に母親教室に通いたいってさ」

「うん。それ本当に楽しみ」

 彼女は自分のお腹をなでて、嬉しそうに微笑んだ。

「ミナトさん」

 僕の後ろからシンちゃんの声がした。振り返ると、いつもクールな彼が震えている。

「ヤバいです。僕と一緒に来てくれませんか?」

 嫌な予感がして、あわてて立ち上がった。

「何があったの?」

「ここでは、ちょっと……」

 ちらっとソノちゃんを見て、シンちゃんは口を閉ざした。気を利かせたソノちゃんが、

「急用が出来たって、彼に言っておくから」と背中を向けた。

 シンちゃんと一緒に玄関に向かうと、

「真琴さんが……。自殺を図りました」

 小玉さんが自殺……? それってどういう意味の言葉だっけ。

 頭が廻りだすまで少し時間がかかる。足元のふらつく彼を支えて、とりあえず靴を履いてエレベーターに乗った。

「それで? 生きてるの?」

「今、集中治療室に運ばれたって……」

 僕は一番近い階数ボタンを押す。

「ミナトさん」

 エレベーターが止まるとすぐに降りて、非常階段を探した。

「どこ行くんですか?」

「リュージさんを呼んでくる」

 走ろうとする僕の腕を、シンちゃんは強い力でつかんだ。

「んだよ」

 その手を離そうともがいたけど、僕なんかより彼の力が強くて歯が立たない。

「離せよ」

「早く行きましょう」

 僕の体を軽く持ち上げて、シンちゃんはエレベーターに戻った。

「あんな奴に知らせる必要はありません」

「だって。あいつのせいで……」

「違います。真琴さんが弱いだけです」

「シンちゃん、それは違うよ」

 エレベーターに放り込まれて、僕は尻餅をついた。シンちゃんは一階のボタンを押して、僕を見下ろした。

「腹立ちをリュージさんにぶつけることより、まずは真琴さんの所に行きましょう。間に合わなかったら、きっと一生後悔する。その後でゆっくり、リュージさんにお灸をすえればいいんですよ」

 僕はうなだれた。そして祈った。

 どうぞ小玉さんが死にませんように。悲しみのまま人生を終わらすことのないよう、彼女を助けてください。


 救急病院の治療室で、小玉さんは点滴を打たれて眠っていた。

 青い蛍光灯の下で見る彼女は、急に老けたように見えた。

 僕は廊下に出て、そのまま搬入用の出口に向かい、えりちゃんに電話をかけた。まだ学校にいた彼女は、小玉さんのことを話すとすぐに行くと言った。

 廊下に戻ると、長椅子に座ったシンちゃんが顔を上げた。

「どうします? リュージさんを殴りに行きますか?」

「ううん。生きてくれてたから。それはもう僕らの役目じゃないよね」

「そうですね」

 彼の横に座り天井を仰ぐ。腹立たしい気持ちは残ってるけど、それよりも気になることが。

「ねえ。シンちゃんって、小玉さんの身内だったんだね」

「叔父です。ていうか、僕が小さい頃にはもう叔母になりましたけど」

 彼は苦笑いを浮かべた。

「僕にとっては、たった一人の理解者ですよ」

「大事な人を失わなくて良かった」

 シンちゃんの手をぎゅっと握る。彼の動揺を思い出して、少し胸が痛んだ。

「ミナトさんは、真琴さんのこと好きなんですね」

「あったり前じゃん。あんなスタイルのいい美人、嫌いな人いないでしょ」

 僕は壁にもたれる。

「本当のこと言うと、死んだ母親に似てるんだよね。物心ついた頃に亡くなったけど、すっげーいい女だったって父親が言ってた。その父親も高校の時に亡くなったけど」

「ミナトさん。ご親戚はそれだけ?」

「そうだよ。天涯孤独。あれ、違うか」

 僕は立ち上がる。

「杏花のお腹に僕の子供がいるんだ。だからもう、天涯孤独じゃなかった」

「おめでとうございます。ちょっと悔しいけど」

「ありがと」

 僕は微笑んだ。そうだ、もう一人じゃない。そう思うだけで、ものすごく心強かった。


 手首を切った小玉さんは、思ってたより軽傷だったらしく、次の日には退院したらしい。

 仕事帰りに店に寄ると、僕に深々とお辞儀をして、

「この度はお騒がせしました」と微笑んだ。

「リュージが入籍したって人づてに聞いて、カーッとなっちゃったの。魔が差したのね。思わず切っちゃった。でも死ぬ気はなかったのよ。かすり傷みたいな傷口でさ。うふふ、自分でも笑っちゃった」

 明るく話す小玉さんだったけど、目の下には深いクマがあった。手首の包帯も痛々しくて、僕は目をそらす。

「大丈夫よ。気が済んだっていうか。これで本当にサヨナラが出来たの。あいつへの執着が取れてもうスッキリ。新しいワタシになったんで、これからもヨロシクね」

「僕はどんな小玉さんでも、付いて行きますから」

「本当にミナトは可愛いわね」

 彼女はカウンターから顔を近づけ、頬にちゅっとキスをしてくれた。うわ、ヤバい。嬉しすぎる。

「あ、そうそう。えりちゃんのことなんだけど」

 赤くなった頬を両手で隠しながら、何ですか? と聞く。

「いい子だよね。私が退院するまで、ずっと傍にいてくれて。それで色々聞いたんだけど。今あんたの家に住んでるって」

「ああ、正確には僕の彼女の家ですけど」

「良くないわよ、そういうの。それにえりちゃん、心に病気持ってるでしょ」

「拒食症ですよ」

 おでこに人差し指を当てて、彼女は下を向く。そしておもむろに顔を上げ、

「ミナト、わかってる? 今のえりちゃんの状況はね、私がリュージの家で、リュージと奥さんと三人で住んでるようなものなのよ」

「それなら、小玉さんと奥さんは友達ですよ」

「そこは重要じゃないの」

「……はあ」

 小玉さんはタバコに火をつけた。

「私がえりちゃんなら、そんなの地獄だよ。でもね、あの子ってミナトのことがとにかく大好きなのよ。どういう形でもいいから、傍にいたいんだって」

 僕は目を伏せる。全く気づかなかった。あれから時間も経ったし、もう僕のことは諦めてくれたんだと思い込んでた。

「ミナトは素直でいい子だけど、かなり鈍感だから。ちょっとしたことで、えりちゃんをいっぱい傷つけてる。あの子はこのままだと一生、治らないかもしれない。そうなっても、ミナトはえりちゃんと一緒に住んであげられるの?」

「小玉さん。僕はどうしたらいいんですか?」

 思わず彼女の手を握った。この問題の解答を、小玉さんなら教えてくれる気がして。

「えりちゃんを助けたいと思ってるのに、僕では助けにならないんですか?」

「離れた方がいいよ」

「でも……」

「ワタシが手伝うから」

「え?」

 思わずまじまじと小玉さんを見つめる。彼女はクールな顔で、タバコの煙を吐いた。

「しばらくえりちゃんを引き取るよ。最終的には、親御さんにお返しするけど、とりあえずワタシに任せてみて。こういうの、亀の甲より年の功って言うじゃない」

 小玉さんなら――確かに僕より適任かもしれない。経験豊富な彼女に託す方が、うまく行くかもしれないけど……。

「教えてもらえますか?」

「どうしたの?」

 小玉さんはカウンターに頬づえをつく。

「この話は選択の問題ですか? えりちゃんを取るか、彼女を取るかっていう」

「そうね」

 彼女は少しの間、目を天井に向けてから僕を見て微笑んだ。

「普通なら選択問題かな。経済的に余裕があって、時間にも余裕のあるリュージみたいな人なら、別かもしれないけど」

「なるほど。やっぱりそうなんだ」

「それに。キツイこと言うようだけど。ミナトのは自己愛だよ。えりちゃんの為に、じゃないでしょ? あんたがそうしたいだけ。えりちゃんだって、ミナトのことを本気で好きなら、さっさと身を引くべきなの。相手を思いやる気持ちがないなら、ただの自己愛でしかないよ」


 喫茶「プリンス」のカウンターで落ち込んでる僕と、その横で同じように落ち込んでる王子を見て、

「二人とも何を腑抜けとんねん。しっかりせえよ」

 ヤスはパシパシ背中をたたいてきた。

「痛いなヤス」

「放っておいてよ」

「何やねん。放っといてほしかったら、自分の家に帰ったらええやん」

「ひとりになりたくない」

「同じく」

「アホらし」

 椅子に座って、ヤスがフリーペーパーをめくった。

「それにしても。月が変わったら急に客足途絶えたな、この店」

「言うなよ、それ」

 ガバッと起き上がって、王子がヤスを指差した。すぐに上を向いて、

「あーあ。こうなったらお客さんの心を、ガッチリつかむようなメニューでも考えよっと」

 そう言ってから、雄叫びを上げる。

「ええやん。その前向きな姿勢。で? ミナトはなんで落ち込んでるん?」

「小玉さんに……言われたんだよね。えりちゃんを助けたいって思うのは、ただの自己愛だって」

「おお……。それはハッキリ言われたな」

「ナイフのようにぐさっと刺さって、ガラスのハートが粉々になったよ。その通りだと思ったから」

 誰がガラスのハートやねんと、ヤスが小声でつっこむのを無視して、僕は顔を上げる。

「彼女を幸せにしてあげたいって、ずっと思ってたんだ。付き合えない代わりに、何かをしてあげたくて。でもそれはただの自己満足なんだよね。振ってしまった罪悪感を晴らしたかっただけなんだ。僕のせいで不幸にしてしまったと、思いたくなくて。本当はえりちゃんがどう思ってるか、杏花がどう思うかなんて、気にもしなかったんだ」

「そっか」

 王子は僕の肩をポンポンたたいた。ヤスも同じような顔して、僕の肩をたたく。

「そのことに気づいたから。もう手を引くことにしたよ」

「うん。それがいいって」

 王子が大きく頷いた。

「おまえには杏花と子供がいるんだから」

「そやで。二兎追うもの、一兎も得ずや。おまえみたいなフラフラした奴に、杏花はもったいないんやから」

「えりちゃんに幸せになってもらいたい。だから手を引く。これが本当の愛なのかな?」

「うーん。愛っていうより、思いやり?」

「そうやで。そもそも、ほんまに好きやったんか?」

 僕は目を伏せる。そう言われたら……。自信がなくなるじゃないか。

「ミナトの好みでいうと、あの三人の中なら絶対にソノちゃんだよな」

「そや、こいつって何よりスタイル重視やもんな」

 こんなこと言って慰めてくれる二人にお礼を言って、僕は店を出た。夜の空気は冷えていて、もう秋の気配を感じる。杏花にと持たせてくれたベビー用品が可愛くて、早く彼女に会いたくなった。


 えりちゃんが家を出ていく日に、僕は見送らなかった。

 店の休憩時間に、

『ありがとう。さよなら。次に会うのは同窓会だね』とメールを打った。

 すぐに返信で、

『ミナトくんには本当にお世話になりました。離れるのはとても寂しいけど、また会える日を楽しみにしています』

 そう書いてあって、僕は少しだけ泣いた。


「ミナト、飯食いに行くよ」

 リュージさんが車のキーをチャラチャラさせて、僕の腕を持った。返事をしないまま、彼の車に乗る。

 ずっと話をしない僕に、

「そうだ。今から上海行って上海ガニ食べる? もしくは北京で北京ダック」とつまらない冗談を言ってひとりで笑っている。

「リュージさん、ひとつ聞いていいですか?」

「何?」

「小玉さんとソノちゃんって、リュージさんの中では同じぐらいの価値ですか?」

「うん、同じだね」

 僕は少し黙った後、

「どっちを選んでも変わらないと思います?」そう聞くと、

「変わらないよ。真琴を選んでも幸せだったし。ひとつしか選べない時は、そう思うしかないんじゃない?」

 リュージさんはそう言ってガハハと笑った。


END

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不甲斐ないミナトくんの選択問題 千花 @Chihana229

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