山嶺は赤く白く晴れ渡る

栄三五

山嶺は赤く白く晴れ渡る

 幹に近い梅の枝の輪郭を何度か塗り重ね、枝先は一息で描いてゆく。呉須に浸された筆の毛先がすぅっと皿から離れる。


 私はろくろを回す手を止め、横目でハレの絵付けを眺めていた。


 今、晴が描いているのは下絵にあたる。一度低温で焼いた素焼きの皿に図柄を青い絵具で線描きする。この工程の後により高温で焼き直し、下絵付けをもとに多色で上絵付を施す。下絵付けとはあくまで下書きであり、漫画で言うならネームのような状態だ。


 しかし、下絵付けの段階で私が描いたものとは出来が違う。


 晴は私が見ていることなど気にも留めず、描き終えた皿を作業場の端で土を練っているお父さんに見せに行く。

 お父さんは晴が書き上げた下絵をしばらく眺めた後、下絵のいくつかの部分を指さしアドバイスを始めた。


 ハレは天才だ。

 

 晴が修業を始めてから半年で、姉である私は絵付けの腕をとっくに追い抜かされた。

 時に大胆に濃淡を交えて描かれる木々は青い線の端々にその力強さと瑞々しい生命力を湛え、繊細な線で描かれる人物の表情はその喜怒哀楽の色を余すところなく表現している。


 晴の手は下絵の時点で、白と青の平面の世界に深みと色彩を生み出している。


 晴が皿を抱えて戻ってきた。下絵の方はさすがに職人から見て合格点とまではいかなかったようで、本焼きはしないらしい。晴が筆を取って、皿の余白部分に青い線で雲の様な意匠を描きつけていく。


「あんた、まだあん変なサイン描いとうと?絵ん雰囲気に合わんけん止めとき」


 晴は練習で描いた皿には独自のサインを描いている。雲の陰から自分の名前『晴』を丸文字にした様な模様が覗いている不思議な意匠だ。

 売り物にする器ではない。サインを描こうが描くまいがどちらでもいいのだが、裏印と違って皿の余白に描いてあると図柄が台無しだ。それに、いっちょ前に自分が描きましたなんて主張してるのも癪に障る。


 晴がじっとこちらを見ている。こういうときは文句があるのだ。でも、口答えすると私がキレるのが分かってるから何も言わない。


「言いたかことがあるなら言わんね」

「何もなか」

「失敗してん器には違いなかんだけん、変なことするんやめな」


 晴は無視して、引き戸を開けて作業場を出て行った。


 ブチ切れようと思ったが、作業場にまだお父さんがいる。こちらが怒鳴れないのを分かってやっているのだ。

 最近こうやって躱すのが上手くなってきている気がする。それもまた腹が立つ。


 気を静めて、目の前の作業に視線を戻す。ろくろを回して、剣先で口縁を処理してゆく。ヘラのような道具で器の縁を切る作業だ。縁の部分が直接口に触れる器だと口当たりに直結するので外せない。

 作業に取り掛かろうとしたところで、お父さんがこちらにやってきて、晴が描いた皿を改めて眺めながら声をかけてきた。


レイ、晴はうちば継ぐ気か?」

「さあ」


 聞かれても知るわけがない。


 晴が本格的に絵付けの修行を始めたのは半年ほど前、あいつが中学に上がったばかりの頃だった。小学校の頃、晴は少年野球をやっていたため、陶芸の修業は少し齧る程度だった。それを中学に入ってからは、何の気まぐれか修業を継続して行うようになった。

 お父さんは窯元について一貫して「継ぐ必要なか」と言っていた。そのため、これまでも私達姉弟に修行を強制するようなことはなかった。修業も本来の順序であれば陶土の練りや成形から始めるところだろうが、真っ先に絵付けをしたいと言い出した晴の希望を聞き入れて、望み通りにさせている。

 一人息子が自分の仕事に興味を持ってくれているというのはやはり嬉しいのかもしれない。


 私の気の抜けた返事にかぶせるようにして、窯の方からお弟子さんが来て素焼きの終わった器を持ってきた。器を作業場の入り口に置いて、お父さんに何事か話しかける。頷くと、どうやら二人して窯の方へ向かうらしい。去り際にお父さんが私に声をかけた。


「そこん素焼きば棚に戻しといてくれ」


 そう言い残して、二人は作業場を後にした。


 作業場に一人取り残される。

 私には聞かないんだ。窯元を継ぐかどうか。

 私が修業を始めたのは晴と同じ中1の頃だ。4年も前から修業してるのに、私には一度も聞いたことがない。晴と違って、成形の練習もずっと欠かしたことがないのに。

 気付くと、手に持ったままの剣先を強く握りしめていた。



 晴は変わった子だ。


 たしか小学校低学年くらいの時期には突然哲学的なことを口にするようになった。

「なんで空は青かと?」とか「空ん白かといかんと?」とかそういうことを周囲の人に聞いて回っては困らせていた。


 当時、私は中学1年だったはずだが、コイツは大丈夫なのか?と、4才年下の弟のことを子供ながらに心配していた。


 だが、今ならわかる。その感性が晴の皿には載っているのだ。

 私が晴の短所だと思っていたものは実のところ長所で、あいつの皿を輝かせる宝石だった。


 それを自覚した後も、私は弟に絵付けについて指図している。


 私の言葉を無視した晴は、とっくに私のそんな気持ちも見透かしているのかもしれない。


 作業場の入り口脇に置かれた素焼きを運ぼうと手を伸ばすと、素焼きの皿の上にポタリと何かが落ちた。

 白い素地の上を、赤い雫が涙の様に伝ってゆく。血だ。

 指を見ると、右手の人差し指に切り傷があり、そこから血が出ていた。

 さっき剣先を掴んだときに切れたのかもしれない。怪我に気づいたことをきっかけに、痛みと情けなさが指先からあふれてくる。


 私は何をやってるんだろう。


 赤と透明な雫がポタリポタリと皿の上に落ちた。


 みっともない赤色が見るに堪えなくて、筆を左手で引っ掴んで逆手に持って、血と一緒に出たものをすり潰すみたいに、皿の上の赤い雫に押し付けてグシャグシャと掻き回した。

 いくつもの掠れた赤黒い線がひっかき傷みたいに皿の上を暴れ回る。

 力任せに筆を何度か往復させたところで、血が乾いて広がらなくなった。ポトリと筆を取り落とす。ポトリポトリと透明な雫が皿の上に落ちる。すり潰したはずの惨めさが皿の上に溜まってゆく。


 もういっそ、辞めてしまおうか。

 

 そう考えた時に、引き戸の向こうから声が聞こえた。


「姉ちゃん、母さんが呼んどうよ」


 そう言いながら引き戸を開けて部屋に戻ってきた晴は私の姿を見てギョッとした。

 当たり前だ。姉が泣き腫らした顔で皿に血を塗りたくっていたら驚きもする。


 もう最悪だ。よりによって一番見られたくないやつに……。


「どがんしたと?」


 晴が驚きというより困惑した声で聞いた。


 どうもこうもあるか。

 お前のせいだ馬鹿。お前が絵付けなんて始めたから、私は苦しいんだ。

 お前のせいで、絵付けの練習は地獄になった。

 お前のせいで、作業場で練習している私は息ができない。

 私たちが練習しているとき、お父さんはお前の事ばっかり見てるんだよ。


 出ていけ、と怒鳴るつもりで口を開きかけると、晴はおもむろに部屋に入り、床に落ちた筆を拾って皿の上の雫で血を延ばして筆を滑らせ始めた。

 予想外の行動に私が唖然としている間に、晴は絵を描き終わっていた。

 晴が手を除けると、そこに現れたのは赤い山の絵だった。


なんこれ……?」

「山や。朝日が昇る山」

「血で描くとかグロ」


 ドン引きした。混乱している時に自分よりおかしな行動をしている人間を見たら、却って落ち着いてしまうものだ。


「皿ば血だらけにした人に言われとうなか。覚えとらん?前、姉ちゃんも同じことしよったばい」

「私が?」


 記憶を手繰ってみてもこんなグロテスクなことをした覚えはない。


「血で描いたことじゃなか。小学校ん頃、父さんから何度教えられてん言われた通りに描けんで俺が泣きよう時、姉ちゃんが俺の皿に青か雲ん絵ば描いた。朝の来ん夜はなかって、しんどか時は夜ん明けて空ん晴れとうところば想像すっとたい、って。そう言うて皿の上に青か雲ば描いた。空ん白かんなら雲ん青うしてもよかと」


 そうだ。確かにそんな話をした。英語の授業で出てきたシェイクスピアの例文をさも自分が考えたかのように自信満々に話して聞かせたのだ。

 何の気なしに言った言葉で、今の今まで忘れていた。


「それなら日の出ん山を赤うしてもよかろう。姉ちゃんもしんどか時は夜明けば想像すっとたい。大変とがずっと続くわけじゃなかけん大丈夫ばい」


 晴が名前の通り、青空に輝く太陽みたいにニカッと笑った。はにかむように歯をみせて笑って、まっすぐな視線をこちらに向けている。


 だからって、血で描く馬鹿が何処にいるんだ。

 晴の馬鹿。

 夜になったのはお前が来たからだ。お前が絵付けを始めたからだ。

 

「なんで今になってまた絵付けば始めたと?」

「元々、姉ちゃんが修業ば始めたんと同じ年になったらちゃんとやってみようて思うとったんや。姉ちゃんが面白そうに器ば作っとうけん、俺もやってみとうなったんや。そんで、姉ちゃんが器ば作るんなら俺が絵ば描こうて思うて絵付けば練習ばしとうと」


 晴が目を細めて笑っている。まるで、眩しいものでも見てるみたいに。

 眩しいのはこっちの方だというのに。


 明けない夜はない。夜が明ければ山嶺から朝日が昇る。

 その後は青空が広がり、また夜になる。

 朝、昼、夜。つかず、離れず。その繰り返し。


 ふと、思った。

 私と晴も、たぶんずっと変わらずそんな関係なのだ、と。

 私が少しだけ先を歩いていて、私の通った後を晴が歩いていく。

 絵付けなんかは、晴が猛スピードで追い越して、私より前を歩いている。


 朝焼けと青空は日が変わるごとに順繰りに巡るのだ。

 どちらが先かなど知れたものではない。

 つかず、離れず、進んでゆく。


 晴の考えていることなんて分からない。天才の感性なんて分かるわけがない。

 それでもただ、晴が私の弟だということが、ストンと腑に落ちた。


 晴は天才だ。

 晴は変わった子だ。

 晴は私から色んなものを奪った。

 でも、そのずっと前から、晴は私の弟だった。


 皿の上に視線を落とすと、みっともなかった赤色の線は日の光を受けるようにテカテカと輝き、燃え立つ山々は不思議な生命力を放っている様に見えた。


「二人ともお父さんに認められるくらい上手うなったら、新しか図柄描こうや。朝焼けん山ん絵」

「よかね。そうや、姉ちゃんもサイン考えんか?」


 サインならもう決まった。

 赤く燃え立つ朝焼けの山嶺が、目に焼き付いているから。


 私が一人前になったら、私が作った皿には裏印の横に赤く燃える山嶺のサインを描く。

 私達の皿を見た人たちは、朝焼けの後の青空をもイメージするに違いない。


 きっとその空は、水縹みなはだ色の雲が漂う白色をしている。

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山嶺は赤く白く晴れ渡る 栄三五 @Satona369

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