第20話 雲海を望む
季節は秋になった。
玲花と坂崎は真夜中の2時に待ち合わせした。玲花がT20号で彼の家の前に到着すると、防寒対策をした坂崎が保温ボトルを手に門の前で待ってくれていた。
夜空は澄み切り、雲はほとんどなく、星が輝いている。昨日の夕方まで雨が降っていたのに本当にすっきり上がったものだと雨雲レーダーの威力に感心する。
坂崎は保温ボトルからコーヒーを注ぎ、玲花に手渡す。すっかり温かい飲み物が美味しい季節になっていた。
「雲海見られるかな」
「気象条件はばっちりだけどね」
坂崎はスマホを取り出し、1時間ごとの気象情報を見る。
今日の5時と6時は湿度98%で風速は1メートルだ。
「うん。これで見られなかったらどうしよう」
「また見に行けばいいよ。何度だって、諦めずに」
玲花の言葉に坂崎は頷く。
「そうだね。そうしよう」
玲花がコーヒーを飲み干すと出発だ。
今回の面白いもの探しは、雲海見物だ。
今夜は満月に近く、月が西に傾き始めている中、2人が乗ったT20号は北に進む。以前、房総往還ポタリングで通った県道88号線をずっと北に行く。目的地は君津市の鹿野山、九十九谷公園だ。館山から鹿野山まで50キロほどもある。玲花と坂崎が一緒に走る距離としては一番の遠出だ。
坂崎の心臓の内視鏡手術が済んでから3ヶ月近い時間が経っている。主治医からも有酸素運動の許可が出ている。術後の経過もよく、今までチアノーゼが出たことはない。
「自転車久しぶりだ」
「山の中のカフェに黒イチジクを食べに行って以来だから1ヶ月くらいだね」
玲花は黒イチジクのおいしさを今も思い出せる。あんまり美味しいものだからその場で翡翠のところに宅急便で送ったくらいだ。カフェのお姉さんにも付き合い始めたことを報告して、喜んで貰えた。黒イチジクは翡翠にも堪能してもらえたようだった。翡翠と坂崎は退院して1回目の通院のときに機会を設けて会って貰った。佐野倉の家のテラスでお茶をして、楽しかった。
「山のカフェにも機会があったら行こう」
今日はスタートが早すぎて帰りはまだ開店していない時間になりそうだった。
月が明るいから街路灯がほとんどなくても進むのに不安はない。もちろん前照灯の明かりも相当なものだ。
玲花はサイクルコンピューターのデータを逐一確認しながら、クランクを回す。速度より、坂崎につけて貰っている心拍計のデータに一番気をつけなければならない。気休めかもしれないが、心拍数が多くならないよう、なるべく100を越えないように速度を調節する。
「月も星もきれいだね」
「うん。こんな時間に外出を許して貰えるなんて僕らも親に信頼されているものだ」
それはそうだと玲花も思う。特に坂崎の方は心配だろう。彼が東京の大学病院を退院したときに彼の両親に会ったが、いい人たちだった。父親の方は自分のような彼女が息子にできたことにいたく感動していた。空河という名前をつけたのも、彼が母親のお腹の中にいるときから心疾患があることは分かっていて、病気に負けない強い子に育って欲しいという理由からヒーローの名前にしたのだと教えて貰った。
とてもいい、親の希望が詰まった理由だなと玲花は思った。
その後、南になんで玲花なのか聞いたら、玲は宝物である玉の音で色鮮やかな様子の意味で花をつけたのは玲だけだと冷たい感じになるので、温かなイメージで花にしたのだということだった。なお、姉の方の那は美しい様を意味するとのことだった。
なるほど2人とも名前に負けない自慢の娘になることができたかな、と思った。
「いいご両親だったじゃないですか」
「会わせたくなかったんだよ。君のお父さんに迷惑がかかるから」
坂崎の父は市議会議員で、上泉に出馬のラブコールをする立場だったので、玲花が娘と知れば利用するに違いないと思っていたらしい。実際、彼の父親は自分の名字が上泉と知って食いついていた。珍しい名字だからごまかしがきかないのは難点だ。
「喜んでいたね」
「ごめん。でも君自身についても、もちろん喜んでいたよ」
「期待を裏切らないよう頑張ります」
退院したその日、せっかくなので2人で上野公園の散策をして帰った。坂崎は子供の頃から病院の窓から眺めていた上野公園をようやく散策できて、相当喜んでいた。暑い日ではあったが、坂崎は木陰で膝枕券を使ってくれた。オプションで用意していた綿棒が役に立ち、耳かきもしてあげられた。ご両親は息子の荷物を持って一足先に帰り、館山駅まで迎えに来てくれた。
帰りの電車の中、玲花は坂崎の肩にもたれて眠れ、幸せを感じた。
県道88号線はアップダウンが続くが全体的には上り基調だ。カーブも多いが、真夜中だけあって車通りは少ない。ときおり、トラックが通るくらいだ。3時くらいになるとうっすらともやが出てきて、注意しながら走ることになった。
「もやが出てきたってことは期待ができるね」
「ずっとこのタイミングを待っていたんだから、出て貰わないと困るよ」
坂崎の言葉に玲花は頷く。
民家も畑もなくなり、山の中を通る道になる。
不意に道の前を横切る影に気づき、玲花は声を上げる。
「鹿の群れだ」
「本当だ」
10頭ほどもいる鹿の群れは玲花たちの自転車など気にすることなく、道路を斜めに横断していった。
「びっくりした」
「房総は鹿の害が多いっていうけど実際にこんな風に出くわしてしまうんだなあ」
T20号はそのまま北上を続ける。
「玲花姉は北海道でキタキツネに会ったって言っていたからなあ」
玲花は結局、父と一緒に俊に付き添って北海道にいった。俊は無事、巡と同じケイリン競技で優勝し、自信をつけたようだ。2人が付き合っているのかは分からないが、関係性が変わったことは誰の目にも明らかだ。何より2人とも幸せそうに見えた。
坂崎はキタキツネに反応して言う。
「今晩はイノシシに遭わないことを祈る」
「イノシシは怖いなあ」
鹿だけでなくイノシシも夜に出ることがあるという。途中で休憩するのもちょっと不安だが、出発して1時間で、道路脇のスペースで一休み入れる。保温ボトルのコーヒーを飲み、持ってきたパンを食べる。
ゆっくり来ても半分くらいは進んでいた。旅程は順調だ。
玲花は後期は図書委員会に所属した。正式にこれで図書室に出入りするようになったわけだ。自分が図書委員、と思わなくはないが、玲花はこれも運命なのかなと思う。何より彼と一緒にいられるのが心地よかった。
月がだいぶ西に傾いてきた。
再出発し、玲花がメインでペダルを踏む。
また1時間ほど走るとようやく鹿野山の南の麓を走る国道465号線に出た。途中からもやは濃くなり、完全に霧になっていた。
「これなら雲海を期待できそうだね」
「トライ1回目で見られるなんてラッキーですよ、センパイ」
「本当だね!」
国道465号線を少し東に向かって走り、鹿野山を上る道に至った。
街灯は1つもなく、木々が生い茂る細い道で、台風の後、道路清掃が入っていないようで、小枝や葉っぱが道に散乱している状態だったが、通れなくはない。
玲花は一番軽いギアを選択してゆっくり進んでいく。坂崎の心臓のことを考えてT20号のリアの
あまりにもゆっくりなのでダイナモライトが暗くなり、玲花はヘルメットのヘッドライトを点灯する。月はもう木々に隠れてしまっていて道は暗い。2灯のLEDライトが頼りだ。枝を踏むとパキパキと音がする。枝を踏んでも滑らないよう、玲花は慎重に坂を上る。
幾つものカーブを曲がり、ゆっくり、上る。
坂崎の心拍数をモニターすることも、もちろん忘れない。心拍数は100前後で落ち着いている。これなら大丈夫そうだ。
「センパイ、苦しくないですか?」
「これくらいは平気だよ」
本当に苦しくなさそうな声で返答があり、玲花は安心する。
細い上り道をようやく抜け、マザー牧場前を通る広い片側1車線道路に出る。
まばらだが街灯もあり、ホッとする。霧ほどではなく、もや程度になっているのは標高があるからだと思われた。
月はもう西の空に掛かっていた。もう5時になろうとしていた。
目的の九十九谷公園まであと少しだが慌てず、2人は一休みを入れる。
「楽しみだね」
「きれいだといいですね」
こんな他愛ない会話が玲花は嬉しい。
息が整ったらゴールまで最後の走りになる。広い道でも先に急勾配の坂があり、2人は苦労して上った。
あとは小さな上りと下りがあるだけで、目的の九十九谷公園に到着した。
自動販売機とトイレがあり、助かった。
自転車置き場にT20号を停め、公園の奥の方にいく。
ピクニック用のテーブルなどが設置された先に柵があり、明るければ房総丘陵が一望できるはずだった。見えるのは建物の明かりだけだ。しかしその明かりは霧でぼやけていた。雲海が期待できそうだ。
まだ朝日は見えない。しかしじき、東の空が白み始める予兆が見て取れた。
もやで服がしっとりと濡れていたが、寒さは感じない。
玲花と坂崎は柵の前で恋人つなぎで手をつなぎながら、明るくなりつつある東の空を眺める。
山の端がくっきりと見えるようになり、房総丘陵の中に霧が立ちこめているのがはっきりと分かった。谷の間に霧がたまっていて雲の海のように見える。
「やったねえ」
「きれいだねえ」
30分ほどもじっと眺めているとだんだんと明るさが増し、はっきりと雲海が見えるようになる。
日の出の15分位前になるともう房総丘陵が雲の海に沈んでいるのがよく分かった。
東の空が赤く染まり、朝日が顔を出すと雲海がオレンジ色に染まった。
玲花と坂崎はそれをスマホで画像に収めながら、お互いを見る。
「これからも面白いもの探し、つきあってね」
「君が飽きるまでは」
「飽きないと思うよ、たぶん」
2人の恋人はお互いの瞳を見る。
そして自然に軽く唇を重ねる。
お互いの温かさを感じ、玲花は思う。
この先、いろんなことがあるだろう。けれど1人でなければ、そして自分ができることを1つ1つ確かめて、諦めずに積み重ねていけば、必ずなんとかなるはずだと。
唇が離れても、1つになっていると玲花は思う。
坂崎の瞳は玲花を見つめ続けている。
「大好きだ!」
「大好き!」
そして抱擁を交わし、再びお互いの温かさを確かめたのだった。
鉄仮面な秀才美少女と病弱な図書委員長がラブラブになる話 八幡ヒビキ @vainakaripapa
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