第19話 切ない祈り


 2日目の午前中はオンラインで夏期講習を受け、お昼は穴川の作ってくれたランチを食べ、お茶の入れ方を教えて貰い、翡翠に披露し、ギリギリ合格点を貰った。


 玲花は保温ボトルを借りて坂崎に持って行くことにし、それならと翡翠が一緒に近くの商店街までついてきて、焼き菓子を買ってくれた。


 3時頃に見舞いに行き、坂崎と一緒にお茶をして過ごした。




 3日目は土曜日で夏期講習がなかったので、午前中は翡翠と一緒に彼女に買って貰ったワンピースを着て、美術館へ行った。翡翠は美術に造詣が深く、興味深く時間を過ごし、穴川も休みなのでランチは外食だった。洋食のカレーをいただき、これもごちそうになってしまった。


 午後は見舞いにいき、看護師さんに挨拶された。3日も見舞いにくると他の入院客や看護師、お医者さんまで玲花のことを認識し、手を振ったり挨拶してくれるようになっていた。それだけ玲花が目立つということもあるのだろうが、もしかしたら初日のキスを見られていて広まっているのかもと思うと、顔から火が出るほどとはこのことかと思うくらい、恥ずかしくなった。


「同室の人にからかわれる」


 坂崎は恥ずかしそうにいう。


「かわいい彼女でよかったねって?」


 彼はコクコクと頷いた。


「今日のワンピースも涼しげで、すごく似合ってる」


「これね、翡翠さんがプレゼントしてくれたんだ」


「玲花ちゃんのこと、相当気に入ったんだね」


「うん。会って欲しいな」


「僕も会ってみたいなあ」


 その日はベンチに並んで座って、2人で1台のスマホの画面を見て、上野公園の中をMAPのビュー機能で探索した。


「上野東照宮、行きたいなあ」


「退院したらそのタイミングでいきましょう」


 坂崎は嬉しそうに頷いた。


「手術、月曜日に決まったから」


「その日は、ご両親くるの?」


「どっちかは来ると思うよ。未成年だからそうでないと手術できないから」


「そっか」


「月曜日からは麻酔がさめてもしばらく集中治療室だから、会えるのは水曜日じゃないかな。集中治療室だとスマホは使えないからしばらく連絡できないね」


「恋人って結局まだ他人だよね」


 玲花は余計なことを言ってしまったかなと少し後悔した。


「他人だけど、君は実の親より僕を大事に思ってくれているよ。命の危険があるような手術じゃないから大丈夫。いや、心配させまいとして言っているんじゃなくて、本当にそうだから心配しないで。集中治療室から離れられたら連絡いれるからね」


「うん」


 玲花は目頭が熱くなるのがわかる。


「泣かないで」


「だって……」


 玲花は指で涙を拭った。泣くほどのことではないのだろう。しかし、涙が出てきたのは坂崎が自分の心の中の、大きな部分を占めているからだと玲花にはわかる。


 坂崎が玲花の頭を撫でている間に面会時間の終わりが来た。


 今日もエレベーターの前で別れるとき、坂崎は言った。


「また明日」


「うん、また、明日」


 まだ月曜日の手術まで1日ある。


 残る30分間を大事にしようとエレベーターの中、玲花は1人、思った。




 日曜日は非常階段で、隠れてキスをして過ごした。


 いっぱいみつめて、何度もキスをした。


 それ以外、何もしたくなかったし、できなかった。


 面会時間の30分は一瞬で過ぎてしまった。


 同じようにエレベーター前で坂崎と別れても、今までとは違う予感がして、玲花は怖かった。




 月曜日、午前中はオンライン講習だったが、まったく頭に入ってこなかった。


 翡翠には今日が坂崎の手術日だと伝えてあったので、彼女も玲花をそっとしてくれていた。


 穴川が紅茶を入れてくれた。


 ありがたかった。


 午後はごろごろして過ごした。


 心配で何も手につかなかった。


 タオルケットを頭から被って、1人であることを悲しみ、泣いた。


 泣き疲れてそのまま寝てしまったようで、目を覚ましたのは夜の9時頃だった。


 翡翠はまだ起きていて、キッチンに夕食が用意されていた。


「食べられる?」


 翡翠が聞いてきて、玲花は頷いた。温める気になれず、玲花はそのまま食べた。


 中華の炒め物で温めればさぞ美味しいのだろうと思いつつ、冷たくても美味しいやと言い聞かせ、口に運んだ。


 翡翠がキッチンに立ち、何かを作り始めた。初めて見る光景だった。ミキサーを使って何かを混ぜていた。その後、その中身を電子レンジで温めていた。


「はい。美味しいかどうかはわからないけど、材料的に飲めるのは間違いないわ」


 翡翠が玲花に差し出してくれたのはホットミルクセーキだった。


 玲花は熱すぎないか注意しながらすする。


「美味しいです……」


「それはよかった」


「翡翠さん、私の実のおばあちゃんよりおばあちゃんな気がします」


「玲花ちゃんのおばあさまはご健在なの?」


「父方はもう他界してますし、母方は海外ですから縁がなくて」


「そういわれて悪い気はしないわね」


 翡翠は笑顔を作った。玲花も笑顔を作った。


「玲花ちゃんが何か出来るわけじゃないんだし、生死がかかっているような手術じゃないんでしょう。こんなに心配していたら彼氏の方が心配するわよ」


「そうですね」


 玲花は苦笑する。


「楽しくないなら、面白いものを探せばいい、でしたっけ」


 玲花は翡翠にその話を報告していた。玲花は頷いた。


「玲花ちゃんにとっては今がそのときじゃないのかしら?」


「そうですね――ううん、そうなんですよね」


 玲花は笑った。悲しいとき、どうしようもないとき、不安なときこそ、必要な言葉

だった。彼に報告したら、それは面白いねと言ってもらえるようなことをしたかった。でもそんなことは思いつかなかった。思いつかなかったけれど、面白いものを探すためには自分が今できることをするしかないということを、玲花は思い出した。


「私、病院に行ってきます」


「入れないのに?」


「外からでもいいんです。声に出せなくてもいいんです。彼にがんばってって伝えたいんです」


「それもいいわね。いってらっしゃい!」


 翡翠は微笑み、玲花の背中を思いっきり叩いた。


 玲花は部屋着のまま、佐野倉の家を出て、大学病院に向かって走り出した。


 街灯で明るい不忍通りを走り、旧岩崎庭園の脇を曲がり、無縁坂を駆け上る。


 そして大学病院の門の前に立つ。


 門は閉ざされていたが、玲花は病院の建物を見上げ、坂崎の病室の方を向いて祈る。



 

 クウガ先輩、どうか頑張ってください。

 

 まだまだ一緒にいたいんです。

 

 一緒にやりたいことがいっぱいあるんです。

 

 そのとき、玲花のスマホがメッセージの着信を伝えた。慌ててスマホを確認すると坂崎からだと分かった。


〔トイレに行くって言って、やっと集中治療室から出られた〕


 手術が終わってからまだ半日くらいしか経っていないから、まだ点滴をしているだろう。点滴スタンドを押しながらトイレにいく坂崎の姿が目に浮かんだ。


〔待ってた。今、実は病院の外にいるんだ〕


〔なんで?〕


〔お祈りしてたんだ。がんばってって〕


〔伝わったよ。今、どこにいるの?〕


〔南側の門〕


〔待っていて〕


 少し待つとまた連絡が来た。


〔今、非常階段。僕からは君が見える〕


 玲花は顔を上げ、入院棟の隣の建物の非常階段を見た。


 外階段ではないので窓から見ているはずだった。


 坂崎が入院している階の窓に手を振っている人影を認め、玲花の目頭は熱くなった。


〔手、振ってくれてる?〕


〔うん〕


 玲花も大きく手を振った。


〔ありがとう。もう大丈夫だから、戻って。看護師さんが心配しているかもよ〕


〔そうだね〕


 そして人影は窓から消えた。


 嬉しかった。奇跡かと思った。坂崎は全然大丈夫そうだった。


 玲花は無縁坂を駆け下り、街灯の下、佐野倉の家へ走る。


 夜の不忍池にはビル群の明かりが映り込み、水面がきれいに輝いていた。こんな興味深いことにすら、気づく余裕がなかったついさっきまでの自分に玲花は驚く。 


 まずは一刻も早く、翡翠に報告したかった。


 私の大好きな人の手術は無事成功していました、と。

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