第18話 「楽しくないなら、面白いものを探そうよ」の意味

 朝5時に館山駅発の長距離バスに乗って、7時には東京駅に到着する。


 東京駅から根津までは歩くことが出来る距離だが、都会の人間には歩く距離ではないらしいので、地下鉄に乗っていく。


 田舎の人間にとっては死ぬほど混雑する中、痴漢に遭ってお尻を触られ、瞬時に捻り上げ、私人逮捕すると宣言した後、暴れたので今度は両腕を極めて大人しくさせた後、駅員に突き出し、警察を呼び、事情を聞かれ、根津の佐野倉の家に到着したのはオンライン講習が始まる9時1分前で、玲花は玄関で受講し始め、家の人に驚かれつつ、そのまま1時限目はキッチンで受講した。


 休み時間に家の人に事情を説明すると、ゲラゲラと盛大に笑われた。


「ああ、可笑しい。こんなに笑ったのは久しぶり。あなた、素敵ね」


「申し訳ございません。自己紹介もまだでしたね。失礼をいたしました。私、上泉玲花と申します」


「巡くんのお師匠さんの娘さんよね。私、佐野倉翡翠さのくら ひすいっていうのよ。翡翠さんって呼んでくれると嬉しいわ」


 80歳近い、とても上品なご婦人は、微笑んだ。


「はい、翡翠さん。私も玲花って呼んでください」


「はい、玲花ちゃん」


 しかし改めて見るとおっぱいお化けの祖母らしいスタイルだった。


 手土産のいちじくジャムは大丈夫だったが、騒ぎでビワは少し傷んでしまっていた。


「大丈夫よ。味は変わらないでしょうから。穴川さんにお昼に剥いて貰いましょう」


 穴川さんと呼ばれたお手伝いさんはビワを持っていき、冷蔵庫に入れた。


「お腹空いてない?」


「大丈夫です」


「お茶でもどう?」


「実は騒ぎのせいでカラカラで」


 穴川がお茶の準備をしている間に2時限目が始まってしまう。


 玲花はノートを広げつつ、とても美味しい紅茶をいただく。


「すごいです、この紅茶。おいしい」


「穴川さんはお茶を入れる達人なの」


「こつを教えてください」


「ええ。もちろん」


 穴川は笑顔で答えた。


「この子、かわいいわあ」


 翡翠は目尻を下げて玲花を見る。


「いやいや、お孫さんの優海さんも相当かわいいですよね」


「あの子はダメ。融通が利かない鉄仮面って言われていたんだから。最近、やっと丸くなってきたけど」


「不本意ですが、私も鉄仮面ってあだ名されていました」


「偶然ねえ。でも、私の前でかわいければそれでいいのよ」


 そしてふふふ、と翡翠は笑った。


 本当にかわいらしいご婦人だな、と玲花は思った。


 そして順調に2時限、3時限と夏期講習をこなし、お昼過ぎに本日の夏期講習は終わった。宿題も出て、配信されてきたので今夜、片付けないとならない。


 佐野倉の家は山手線の中にあるにしては大きなお宅で、結構な資産家に思われた。部屋数もそれなりにある。布団を用意して貰った空き部屋に通され、荷物を置き、お昼ご飯を翡翠と一緒にとる。


「誰かとお昼ご飯なんて久しぶり」


 今日のメニューはトマトソースのパスタだ。鶏肉がメインだが、いいお肉が使われているのは玲花にもわかる。香草が効いていて、とても食欲がそそられる。


「翡翠さんは、外にはあんまり出ないんですか?」


「穴川さんのお料理が舌に合うし、誰かに会うのが面倒になる年齢だから」


「お若く見えますよ」


「それは、あなたの若さに引っ張られているのよ」


「奥様、本当に楽しそう」


 穴川の言葉に翡翠が答える。


「だって楽しくなりそうなんですもの。いつまでいるの? 用事が終わるまでいてもいいのよ」


「分かりません。母からどこまで聞いていらっしゃるんですか」


「心臓の手術を受ける彼氏に毎日会いたいから上京すると聞いているわ」


「ほぼ全部ですね」


「心臓の手術で悲恋なんて昭和の定番よね~ でも今は令和だから大丈夫よ」


 その辺のシチュエーションも翡翠には楽しいらしい。


 パスタを食べ終わると今度はコーヒーだ。紅茶ほどではないが、美味しい。


 そして剥かれ、よく冷えたビワが出てきて食べると、とても美味しかった。今まで食べた中で一番のビワだと思った。


「美味しいわねぇ、このビワ」


「同じ農園のいちじくも美味しかったんです。食べ比べとか出来て。9月中頃にはすごいいちじくが出るんですって」


「そうなの。それは楽しみね」


 翡翠は梱包に入っていたチラシを見る。館山に食べに来てくれるなら、是非お迎えしたいと玲花は思う。


「ねえねえ、彼氏の写真見せてくれない?」


 宿を借りている身としては断るどころか躊躇もできない。


 玲花はスマホで展望台の写真と海水浴の写真と体育祭の寝顔を見せる。


「かわいいわあ、2人とも」


「青春ですねえ」


 翡翠も穴川も表情が緩んでいる。


「しかし玲花ちゃん、スタイルいいわぁ」


 海水浴の写真を見て翡翠が言う。


「優海さんほどでは」


「女は胸じゃないから」


「翡翠さんに言われても説得力がありません」


 そお、と翡翠は大笑いする。ちょっと空気が読めないところがあるらしい。


「館山からお見舞いに来るなんて、彼氏、嬉しいわよねえ。幸せお裾分けしてもらおう」


 翡翠の笑顔を見ると、どうにも憎めない。


「実物に会います?」


「そんな野暮なことしませんよ」


 翡翠と玲花は笑った。




 大学病院の面会時間は午後2時からなので、玲花はそろそろ、そわそわし始める。歯を念入りに磨いて、身だしなみを整える。今日は白のフリル付きのワンピースを持ってきてある。髪も今日は下ろして、梳いてある。勝負である。


 それを見た翡翠が白に合う帽子を持ってきてくれた。かわいらしくてぴったりだった。


 ニヤニヤする翡翠と穴川に見送られ、玲花は大学病院に向かう。大学病院の敷地までは徒歩数分だ。


 玲花は大学病院までは何事もなく到着するが、新しくきれいで大きな病院だ。敷地の中で少々迷い、病院の入院棟の受付に到着する。端末に見舞い人情報を入力し、名札を貰う。そしてエレベーターに乗って、坂崎がいる病棟に向かう。佐野倉の家を出るときに連絡は入れてある。


 エレベータの扉が開いて、正面を見ると青いストライプの寝間着を着た坂崎が立っていた。玲花は小走りでエレベーターを降りる。


「センパイ」


「れ、玲花ちゃん」


 名前呼びの心構えをしていたであろう割に、坂崎は舌を噛んでしまっていた。


 玲花はどういう反応をすればいいのか分からなかったが、結局、小さく吹き出してしまった。


「ハイ、玲花です。クウガ先輩」


 坂崎は前に言っていたほど、やつれてはいなかった。


「本当に東京まで来てくれるなんて、君は行動力があるなあ」


 玲花は坂崎の手を取り、ぎゅっと両手で握りしめた。


「センパイを確かめに来ました」


「今日は木曜日だから、日、月、火、水で4日も会っていなかったのか」


「GW後に知り合ってからほとんど毎日会っていましたものね」


「白ワンピ、さすが玲花ちゃんだ。ものすごく清楚で、似合ってる。可憐だ」


「へへへ」


 照れて笑ってしまう。


「髪も下ろしているんだね。亜麻色の髪がすごくきれいだ」


 玲花はそう坂崎に言ってもらえて嬉しくて、もっと髪を見て欲しくて帽子を頭から取った。誰か知り合いに見られていたらと思ったら彼からは絶対に出ない台詞だろう。誰も知っている人がいない東京ならではなのではないかとまで玲花は思う。


「そんなに誉めて貰っても、照れるだけですよ」


「食堂に行こうか。時間ないし」


 面会時間は30分間しかない。1分でも惜しかった。


 2人は食堂に行き、自動販売機で飲み物を買う。


 そして坂崎はテーブル席に座り、玲花は彼の隣に座る。


 まずは玲花が朝、痴漢を捕まえた話をすると坂崎は激怒する。


「けど偉い! さすが玲花ちゃんだ。よく物怖じせずに私人逮捕って言葉まで出たね」


「私が捕まえたらそれだけ被害が減るでしょうから」


「痴漢、なんか言ってた?」


「俺じゃないっていっていたけど、お尻触っている手をそのまま掴んだから間違いないからね。その後、いきなりこいつが捻り上げたんだとか言っていたけど、上京したばかりで急いでいる女子高生がなにをもくろんでおっさんの腕関節を極めないとならないんだと言ったら、おまわりさんがみんな頷いていた」


 坂崎は大笑いした。


「――僕でさえ触れてないのに」


「クウガ先輩のお尻なら、抱っこしたときに触っているんですが」


 玲花は冗談を言い、笑った。


 そして翡翠さんの話をし、いい感じで迎えてもらえたと喜びの気持ちを伝えた。


「いい人でよかったね。外に出ると自然に面白いものにぶつかるよね。あ、痴漢に遭ったってことじゃないから」


「そんな誤解しませんよ」


 坂崎はペットボトルの口を開けて、レモンティーを飲んだ。


「面白いもの探しってさ、実はこの病院の中で始めたんだ」


「そうか……」


 玲花は少し分かった気がした。


「ずっと入院していて、友達もいなくて、楽しいことなんて、なにもなくて」


 玲花の思っていた『楽しいことがない』とはレベルが違った。


「いつも機嫌が悪い、イヤな子供だったと思う。親は館山で忙しくしているからろくに顔も出さなかったし。でもあるとき入院してきたおじいちゃんがいて、教えてくれたんだ。『楽しいことがないなら、面白いものを探せばいいんだよ』って。おじいちゃんの子供の頃は戦争が終わってまだそんなに経っていなかったみたいで、何にもなかったけど、何にもなくても、缶の1つもあればみんなで遊べたって。面白いものをみつけたら、それをみんなで分け合えたら楽しくなるんだよって、言ってた。そのおじいちゃんは将棋を教えてくれたな。あと、外の車を見て、赤い車が何台目にくるかかけてみたり、検診の看護師さん当てクイズとかいろいろやった。面白かったし、そのおじいちゃんと一緒にいて楽しかった」


 坂崎は遠い目をしていた。


「私が言っていた楽しくないなんて、甘えだよね」


「ううん。悩みはその人のものだから。甘えだなんて言葉でくくる必要はないと思う」


 玲花は坂崎の優しさに頷く。


「でもその頃ってさ、医者からはまだまだ予断を許さないって言われていた頃で……いつ、死んじゃうか分からないんだって子供心にも思ってた」


 玲花にはその寂しさを想像することも出来ない。


「眠るとき、次の朝には、目が覚めないのかもしれないっていつも思ってた。昼間、面白くして貰っていても、ダメだった」


「――うん」


「でもさ、先にそのおじいちゃんの方が死んじゃって、死ぬ前の日まで一緒に遊んでくれていたんだよね。本当に直前まで。急にだった」


 玲花は彼の悲しみを想像した。しかし彼は玲花の想像とは違う言葉を続けた。


「それから、死ぬのが怖くなくなったんだ。だっておじいちゃんみたいに自分のできることを最後まで誰かにしてあげられれば、それでいいと思えたから」


「それが、私と面白い探しを一緒にしてくれた理由?」


 坂崎は頷いた。


「そう考えたらベッドでもできることはいっぱい見つかったしね。いっぱい本を読んで、いっぱいネットで調べて、いっぱい外を見て、人を見て、話が出来る人と話をして――誰かに何かをしてあげられる日を夢見てた。考古学にはもうその頃から興味を持っていたよ。本をいっぱい読むとそれだけ理解度が深まる分野だからね」


「それを私に、一番に話したかった?」


「うん。入院したら、このことを思い出したから。忘れないうちに話したかった。僕の子供の頃の話、面白くないけど話せることはあるんだね」 


「今の私にできること、まだまだいっぱいあるね」


 健康で、要領良くて、若い自分にできることはたくさんある。


「アフガニスタンの女性への寄付には驚かされたよ。ベッドの上で面白いものを探すこともできるけど、結局、一番面白いのは生きている人間だなあって思った」


「私もクウガ先輩のこと、面白いなあって思ってた」


「お互い様だ」


「面白いこと探しは、自分に出来ること探しなんだね。私、全然分かってなかった」


「そう言い換えられるかもね。でも、そんなことは意外とどうでもよくて、肝心なのは一生懸命にやった先に、君に出会えたってことだと思う」


 玲花ははっとして坂崎を見た。彼はまっすぐ自分の瞳を見ていた。


「こんな未来がくるってことを、塞ぎ込んでいた6歳の僕に教えてあげたい。すごい美少女が僕に山盛りの青春を持ってきてくれるんだって」


 そして坂崎は目をそらし、真っ赤になった。


「ううん。やめておこう。こんな、とびきりかわいい女の子とつきあえるなんて知ったら、逆に死ぬのが怖くなるかも知れないから」


「クウガ先輩……」


 玲花は坂崎の手を取り、またぎゅっと両手で握りしめた。


「私がいます」


「玲花ちゃん……」


「私がセンパイを1人にしません」


 玲花は坂崎の手に頬ずりをする。


 そして思い立ち、手を取ったまま立ち上がる。坂崎もつられて立ち上がる。


「どうしたの?」


「もう辛抱できません」


 そして玲花は坂崎を連れ、自動販売機ブースに2人で入る。


 人気がなく、足音もしない。


 玲花は大きく深呼吸して、坂崎の瞳を見つめる。


「キスします!」


「ええ?」


「目、閉じてください」


 坂崎は緊張した面持ちで瞼を閉じ、玲花は坂崎の顎に手を当て、唇を重ねる。


 玲花からしてみればもう経験済みだ。


 唇からお互いの体温が伝わり、脳内で甘い感覚に変換される。


 脳内物質が放出されるのが、分かる。


 坂崎の唇はカサカサして荒れていた。それでも、気持ちよかった。


 やっぱり人工呼吸とは感覚が全く違った。


 玲花も坂崎も息を止めており、玲花が彼の唇から自分の唇を離すまでの10秒ほどの間で、2人とも肩で息をするほど緊張してしまっていた。


 玲花はもう坂崎の顔を見られず、俯いてしまう。


「――初めては僕の方からしたかった」


「これで私が生まれてから数えて12回目のキスです」


 坂崎は顔色を変える。


「前は誰とキスしたの?」


「人工呼吸をカウントしたのならです。ノーカウントなら、初めてです」


「人工呼吸――」


 坂崎は思い至ったように目を見開いた。


「私のファーストキスで、クウガ先輩の命をつなげられたんですから、絶対に忘れないでくださいね」


 玲花はウインクする。


「どうして僕はそんな重要なことを覚えていないんだ~ いや、最後の1回はなんとなく記憶にあるけど、よくわかんなかったし~」


 坂崎はがっくりと肩を落とす。


「やばい。ドキドキしてきた」


「じゃあ、さっき言ったとおりに今度はセンパイから。私が息を吹き込んであげます」


「それは冗談だよね」


「もちろん」


 玲花は瞼を閉じ、少しかがんで、坂崎の唇を待つ。坂崎の手のひらが玲花の後頭部に回される。5センチの身長差はやはりある。彼の唇の感覚が玲花の唇に訪れ、甘く、熱く、しびれるような快感に、数秒の間酔いしれた。


「ん……」


 本当に一つに心が重ねられた気持ちになれた。


 足音がして玲花と坂崎はぱっと離れた。自動販売機ブースに入院客が来た。何もなかったように振る舞い、2人は食堂に戻るが、緩みきった顔は元に戻らなかった。


 面会時間の30分間はすぐに過ぎ、玲花は坂崎に別れを告げる。


「また明日」


 残念だがおやすみなさいをいう時間ではなかった。


「うん……明日も来てね」


 そしてエレベーターの前で別れた。


 寂しい自分と、寂しくない自分が同居しているのが分かった。


 佐野倉の家に戻ると翡翠がお出かけの準備をして玲花を待ち構えていた。


「お帰りなさい」


「ただいま戻りました」


「どうだった?」


「はい。思ったより元気そうで安心しました」


「まだしばらく東京にいるわよね?」


「……? はい」


「じゃあ、お買い物にいきましょう! 一度、やってみたかったのよね。孫がそういう役には立たなかったから」


「お買い物ですか?」


「大丈夫よ。高級なところにはいかないから」


 翡翠は笑って玲花の手を引いた。


 翡翠は谷中の古い集合住宅を改装して、アクセサリーやお菓子、ファッション雑貨などを売っている通りに案内し、そのうちの1軒に入った。セミオーダーもやっているという小さなお店で、個性豊かなワンピースやシャツ、パンツが売られていた。


「こういう若い人が入るお店でお買い物したかったの。プレゼントさせて」


「そんな、いいです。プレゼントして貰う理由がありません」


「理由はね、お祝い」


 自分の幸せを見透かされていたらしい。


「それに、もうちょっと東京にいるならお洋服にバリエーションがあった方がいいでしょう? 彼氏もかわいい彼女を見たいに決まっているんだから」


「はい」


「2着くらいかな」


「そんな。さすがにそこまでは甘えられません」


 パワフルな翡翠に引っ張られ、そのお店で寒色系の涼しげなワンピースを1着買って貰ってしまった。 


 戻った後は穴川が作り置きしておいてくれた夕食を温めて2人で食べ、玲花が洗い物をして片付けた。翡翠はクラシック音楽を聞きながら読書をし、玲花は勉強をして、一緒にリビングで夜を過ごした。


 玲花の東京初日はこうして終わった。

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