紅葉の中で温泉に

真朱マロ

第1話 紅葉の中で温泉に

 空は快晴。

 天高く晴れた空は底抜けに青く、雲一つなかった。

 足を踏み入れた山はすっかり秋の顔をしていて、鮮やかな紅が目にまぶしい。

 背負ったリュックはさほど重くないけれど、小一時間も歩けば息が上がってくる。

 少しひんやりした秋の風は、火照ってくる身体にちょうど良かった。


 ミッチリと密集した雑木もすっかり秋の色で、色鮮やかな美しい風景も、先の見えない獣道寸前の山道は不安をあおる。

 登山というには軽いが、気軽なハイキングとは呼べないハードさなのだ。

 それでも黙っておとなしく歩いているのは、先を行くのが結婚間近な未来の旦那様だからだ。


 それでも声掛けも何もなく、黙々と一定のペースで歩いているのは、話すことで無駄なエネルギーを消費しないためだとわかっているけれど、ちょっぴり寂しい。

 軽い休憩だけで延々と山道を登っていることに、さすがに疲れてしまった。

 朝から歩きっぱなしだから軽くでいいから胃に何か入れたくて、大きな背中に声をかけた。


「ねぇ、桃くん。お腹すいたから休憩しよ」

「ん~もう少しだから、あと五分がんばれ」


 わざとではないが「えー」と声が出てしまったが、桃くんは「ん」と右手を差し出してくれたから許すことにした。

 理由があってもなくても、手をつなぐのは好きだ。


「最初っから手をつないでおけばよかったね」

「片手がふさがると危ない場所もあったから」


 そうだねーとうなずきながらも、桃くんの大きな手は安心感で出来ているから、知らずニコニコしてしまう。

 桃くんは一瞬、何か言いたげな顔をしたけれど、つないでいる手をちょっと見て、何も言わずに歩き出した。

 それでも、私の歩調に合わせて速度を緩めてくれたのがわかったので、ぎゅぎゅっと手を強く握っておいた。


 私達の始まりは高校時代だから、かれこれ八年越しの付き合いになる。


 初めて会った時、大きい、と思った。

 桃くんはその頃はすでに高校生らしからぬ落ち着いた雰囲気をしていて、上背があるからスッとして見えるけれど、近づくと身体の厚みも凄かった。

 制服が特注品だと聞いて、なるほどな、と思ったけれど、大きすぎて視界をふさぐからという理由で、座席はいつも教室の一番後ろだった。


 大きい、の次に思ったのは、冗談みたいな名前だな、だった。

 なんと名前が「桃太郎」なのだ。

 私自身の名前が「東湖」なのでちょっと変わっているけれど、どんなに頑張っても「桃太郎」にのインパクトには負けると思う。


 正真正銘の本名が「桃太郎」であることに、私は失礼なぐらい驚いてしまって思い切り顔に出てしまったけど、他のクラスメイトの反応も似たり寄ったりだった。

 きっと名乗るたびに驚かれているから慣れているのか、周囲の驚きの声にも桃くんは何もなかったような顔をしていた。

 桃くん自身は名前のことで他人にからかわれてもどこ吹く風で、気にする素振りすらなかった。

 そのスタンスが新鮮で、なんとなく気にして見ているうちに、いいところ発見が続いてしまい、気が付くと本格的に桃くんを好きになっていた。

 我ながらチョロいと思う。


 チョロいなりにグイグイ押して押して、押し倒してはないけれど、とりあえず押せるだけ押して、何事に対してもフラットで大きな反応を返さない桃くんの彼女になったのだから、私のチョロさも偉大なチョロさではなかろうか。

 自分の見る目を褒めたくなるぐらい、桃くんは何ごとにも動じなくて、落ち着きのない私をドーンと受け止めてくれる懐の深い所が特に良いのだ。


 と、不意に視界が開けた。

 上り続きの山道が終わり、遠くの山並みや谷まで見える。

 桃くんが「こっち」と手を引く方には小さな石積みの温泉らしきものがあって、そこからあふれたお湯で出来た小川がちょろちょろと谷のほうへと流れ落ちていた。


「これが、桃くんちの秘境温泉!!」

「秘境ってほどじゃないけど、まぁ、うちの所有地だから親戚ぐらいしか来ない」

「親族しか来ないなら、秘境って呼んで差し支えないよ」


 わーい! と喜んでいる私に、桃くんは目を細めた。

 険しい山道を登ってきたのに汗ひとつかいていない涼しい顔をしているが、とても良い事があったときの嬉しい表情をしている。


「そんなに来たかった?」


 桃くんの問いかけに「うん」とうなずく間にも、私は靴やソックスを脱ぎ捨ててジーンズの裾をクルクルと織り上げて、チャポンと足をお湯につける。

 少し熱いくらいのお湯の温度が、疲れた足をじんわりと温めてくれるからとても気持ちが良い。


「誰も来ない山奥の温泉で、好きな人と一緒って最高だもの。どうせ来るなら、秋がいいと思ってた。八年越しの夢ですからね! 気持ちいー!」


 そう、高校時代からだから、八年越しの夢がかなったのだ。

 あれは確か試験明けで、一夜漬けでヘロヘロしている友達同士の雑談だった。

 眠くて疲れて半分寝ぼけていた私は、とにかく癒されたくて「温泉に行きたーい!」と叫んだ。


「他に誰もいない自分だけの温泉で、のびのび―って手足を伸ばして、ちゃぷーんって溶けたい。それでもって、見晴らしがよくて、秘境っぽい、最高のロケーションがあったら、もう、天国!」


 それを聞いていた友達は「そんな場所はないよ」とか「カラオケならすぐに行けるのに」とか口々に言いながら笑ったけど、桃くんだけは「場所だけなら心当たりはある」と言った。

 当然ながら私は食いついた。


「ほんと?! 行きたい!」

「ん~でも、東湖さんは女の子だからなぁ」

「女の子だとダメなの? なんで? 女人禁制?!」

「いや、そうじゃなくて、険しい山道の先にある露天風呂だし」

「露天風呂、最高だと思う! 行きたい! 連れてって!」


 グイグイ攻める私を、まぁまぁと女友達が押しとどめてくれたから、桃くんの困惑した表情の謎はすぐに解けた。


「ちょ! 東湖ちゃん、それ一歩間違えるとセクハラ! 秘境っぽい露天風呂に、交際もしていない女の子を案内してほしいなんて、桃太郎君だって困るよ」


 バカでしょ、と頭をはたかれて正気に戻った。

 確かにそうだ。秘境の露天風呂に二人きりで、とか想像だけで恥ずかしい。というか、思い切り想像して頭に血が上り、睡眠不足もたたってそのままひっくり返ってしまった。

 鼻血は出なかったけれど、貧血を起こしてそのまま寝てしまったのだ。

 気が付くと保健室で寝ていて、帰りの会もすっかり終わっていて、申し訳なさそうに桃くんが付き添ってくれていた。


「ごめん、簡単に行けない場所を言って、期待を持たせて悪かった」

「桃くんのせいじゃないよ~寝不足だったし、私が考えなしだから。でも、そういう面倒な事を差っ引いても、秘境の温泉に行きたいってのは本音」

「まぁ、俺も一瞬、連れていきたいって思ったから、考えなしの仲間」


 そっか、って私たちは笑いあったけど、高校生が一緒に行ってはいけない場所だって事ぐらいは共通認識として持っていた。

 そう、私たちは真面目だったのだ。真面目だったけれど、一歩踏み込んでもいいよって信じられるような、声にならない隙もあった。


「大人になったら、連れてってほしいな」

「ん~でも、よくよく思い出したら、子宝の湯だからなぁ」


 真面目に「子宝はなぁ」と悩んでいる桃くんに、私も「子宝かぁ」と頭を悩ませたけれど、そんな今すぐに関係しない事でウダウダ悩むのは性に合わなかった。


「なら、とりあえず、付き合う所から始めてみない?」

「東湖さん、きみ、変わってるって言われるだろ?」

 

 失礼だな、と思ったけれど、確かに変わっているから反論できなかったと思う。

 ちなみに、その後は桃くんに家まで送ってもらった。

 頼んでいないのに私の荷物も持ってくれて、ただ「家はどっち?」って尋ねられて、試験の出来が良かったとか悪かったとか言いながら、てくてく歩いた記憶がある。

 桃くんにとっては大したことのない親切だったかもしれないけれど、私はとにかく感激して、私の人生には桃くんが必要だと思ったのだ。


 そうだ、あれから私の「桃くんを押せ押せ人生」が始まったのだ。

 今こうして考えてみるに、桃くん以上に私と楽しく一緒に居られる相手はいないから、やはり私の見る目は確かだったと思う。


 桃くんとの思い出を反芻しながら、ジーンと桃くんと付き合える幸福をかみしめていたら、不意に後ろから腕が回る。

 ギュッと背後から抱きしめられる形になり、桃くんの熱が身体にじかに伝わってくることに、私は「ひゃぃ」と情けない悲鳴を上げた。

 耳元にふわりと桃くんの息がかかる。


「なぁ、ここが何の湯か覚えてる?」


 思い切り覚えていて、その思い出を繰り返しかみしめていたとは、とても言えない。

 言えないけれど緊張に震えて、身体が固まったので桃くんには覚えていることがバレたと思う。


「ふたりっきりだって、わかってるよな?」


 耳に心地よい低い声に艶が混じり、悪い笑顔になっているんだろうな、と予想できたけれど、上手い反論が思い浮かばない。

 このままでは、紅葉の中でゆったり温泉に癒されるという目的から遠ざかってしまいそうだ。

 癒されるために温泉に入りに来たはずなのに、いけないとわかっていても桃くんの腕を振りほどけない私がいる。

 だって高校時代から、ずっと好きなんだもの。


 帰り道は自分の足で歩けない予感がした。




『 おわり 』

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