仮面がずり落ちたご令嬢

佐々木尽左

第1話

「きゃっ!?」


 馬の悲鳴が聞こえて、馬車がつんのめって、ちょっ、わたくし浮いてます!?


 ああ、母上からいただいた香水の瓶もゆっくりと宙を舞っていますわ。


 手前の座席が次第に近づいてきていて、あれにぶつかってしまえば、わたくしは。


「シャルリーヌ!」


 隣に座っていらしたレノー様の声が真横から聞こえ、急に目の前が暗くなって温かい何かにぎゅっとされました。え、これって?


 頭に疑問が浮かんだ瞬間、強い衝撃がわたくしの全身を襲いました。思わず目をつぶって温かい何かにすがってしまいます。


「シャルリーヌ、大丈夫ですか?」


 わたくしが目を開けるとレノー様の白いお服が目の前に広がり、お鼻には香水と体臭の混ざった殿方の香りがいつもより強く、強く? 強く!?


 周りを窺いますと、わたくしは両手でレノー様のお服をぎゅっとしていて、レノー様はわたくしをしっかりぎゅっとなさっていて、つまりお互いぎゅっとした密着状態。は、は、肌のぬくもりを感じるではありませんか!


 古い木戸を開けたときに鳴るきしみを空耳しながらわたくしが顔を上に向けますと、間近にレノー様のお顔が! こう言うのも何ですが美形の多い貴族の中では平凡なお顔ですけど別に悪くはなくて親しみ安さではむしろ勝っているというか結婚後長く顔を向き合うのならむしろ落ち着いている方が好ましいですしあーえーっと、うー!


「シャルリーヌ、痛むところはないですか?」


「え? あ、はい」


「どうやら賊が近いらしいですね。でも大丈夫です。僕が身を挺してでも守りますから。これでも剣の腕は悪くないんですよ?」


 無理に笑っていたレノー様はぎゅっとしていたわたくしを体から離してお立ちになりました。ああ、わたくしったらレノー様のお体の上に乗っかっていただなんて!


 ご自身の剣をたぐり寄せたレノー様が座るわたくしに顔を近づけておっしゃいます。


「もし賊が馬車の扉を開けたら僕が相手をするから、きみはそこでじっとしていてください」


「ですが、レノー様は」


「普段は守られている僕だけど、こういうときこそ男としての本文を果たさないとね」


 不安そうな笑みを浮かべたレノー様が剣を鞘から抜いて扉の前に膝立ちになられました。外の騒がしさがすぐ近くまで迫ってきています。


 レノー様の青ざめた横顔を見つめていたわたくしは胸を締め付けられました。お互いに家同士が決めた相手、そこに愛情などないし必要もないはずなのに、それなのにレノー様はそこまで身を挺してくださるなんて!


「レノー様、わたくしは!」


「来るよ!」


 わけもわからずに声をかけようとしたわたくしの声をレノー様はさえぎられました。次の瞬間、馬車の扉が勢いよく開き、外の眩しい光を背にした人物がぼんやりと目に映りました。


 それは──




 目が覚めて最初に見えたのは見慣れた天蓋、体は柔らかい羽毛の寝具に包まれてますわね。ということは、ここはわたくしの部屋。ああ、思い出しましたわ。


「もう二週間も前のことですのね」


 今思い出してもまだあのときの恐ろしさを体が覚えていて震えそうになります。


 けれど同時に、あのときのレノー様のことを思い出して顔が火照ってしまいました。馬車が大きく揺れてこの身が投げ出されたときに、あの方がわたくしを守るためにぎゅっと、ぎゅっと、ぎゅーっと!


「あああーっ、恥ずかしいですわー!」


 また思い出してしまいましたわ!


 この世の終わりかという馬車の中で宙に舞うわたくしをとっさに庇ってくださったレノー様。それまでは単なる政略結婚のお相手としか見ていませんでしたが、あんなことがあってからはもう!


 今もはっきりと覚えているあの温かさと力強さと香りに、思わずわたくしはシーツを頭から被って身もだえました。うう、火照りが治まりません!


 そんなわたくしに侍女たちが声をかけてきました。


「おはようございます、シャルリーヌ様」


「朝からお元気ですねー」


 耳に二人の声が入ると、わたくしはシーツから顔を出しました。


 一人は背が高く体つきが細く、もう一人は背が低くて胸が大きい二人です。どちらも良家の子女らしくすました顔ですが、どちらが何を言ったのかは声でわかりますわよ。何しろ二人は長年わたくしに仕えてくれている気心知れた者たちですからね!


 顔の火照りが落ち着いてからわたくしが寝台から降りて立つと、二人はゆっくりと一礼してきます。


「お召し物をご用意しております」


「ジネット、ドレスはいつものにしてちょうだい」


「本日のご予定についてお伝えしますねー」


「マノン、今日は何があるのかしら?」


 夜着のまま姿見の前に立ったわたくしは前を向きながら侍女たちと言葉を交わしました。鏡には癖の強いシルバーブロンドの髪に緑がかった青い瞳の美しい子女が写っています。自画自賛みたいですけど、これは周りの方々の意見を述べただけですからね!


 ともかく、メイドたちがわたくしの夜着を脱がせて体を拭いている間にマノンから今日の予定を聞くことにします。


「本日は、朝の鐘が鳴る頃に当家でレノー様と面会のご予定になっておりますー」


「レノー様がいらっしゃる?」


「はい、何事も起こらなければー」


「朝の鐘が鳴る頃に?」


「はい、朝一にー」


「そんなお話は聞いてませんでしたわよ?」


「現在ご静養なさっているシャルリーヌ様にはご予定がありませんし、お見舞いですから当日に知らせれば充分だというご当主様とご母堂様のご判断ですー」


「こ」


「こ?」


「心の準備が全然できていませんわ!」


「今まで通りお目にかかればよろしいのではないですかー?」


 鏡越しにマノンを睨みましたがまったく怖がっているようすはありません。ええい、小憎らしいですわ!


 確かに今まででしたら完璧な淑女を演じてレノー様とお付き合いすれば良かったですが、いえ、今でもそうすればよろしいのはわかっています。ただ、前と同じように今も演じられるのかというと!


 ああ、どうしてこんなに心をかき乱されるのでしょう。思いがぐるぐると回って何も考えられません。


 メイドたちがわたくしを着せ替え始めた頃、ジネットがマノンに声をかけます。


「マノン、シャルリーヌ様に無理を言ってはいけないでしょう」


「ああ、ジネットはわかってくれるのね!」


「もちろんでございます。幼いときに憧れた王子様的行動ムーヴを婚約者様にしていただけたのですから、一発で恋に落ちるのは当然です」


「なっ!?」


「なるほどー。お嬢様、その思いをくみ取ることができずに申し訳ありませんでしたー」


 くっ、マノンったら全然反省している顔じゃありませんわね!


 鏡の前の顔はぷるぷると震えながら顔を赤くしてちょっと涙目になっています。悔しい!


 けれど、ジネットの追撃はまだ続きます。


「昔から憧れていらっしゃいましたものね。貧乏貴族の子女を王子様が見いだすお話、不幸なご令嬢を支える青年君主のお話、囚われのお姫様を助けるお話、それから」


「いつのお話ですの!?」


「もちろん今のお話ではありませんか。だからこそ、普段通りお目にかかれないのでしょう?」


「うー!」


 図星だからこそ何も言えない! けれど、長年積み重ねてきた淑女教育のためにも、簡単に引き下がるわけにはいきませんわ!


 わたくしは反論しようと口を開きかけました。ところが正にそのとき、わたくしの寝室へと一人のメイドが入ってきたではありませんか。


「申し上げます。ブルダリアス公爵家のレノー様の先触れがいらっしゃいました。もうしばらくの後にいらっしゃるとのことです」


「いくら何でも早すぎませんこと?」


 わたくしの言葉で困惑するメイドに代わって、マノンがわたくしの疑問に答えてくれました。けれど、その言葉に目を見開いてしまいます。


「シャルリーヌ様、朝の鐘までもうあまり時間がありませんよー」


「え? そんなはずはないでしょう?」


「近頃はお目覚めになるのが以前よりも遅くなっていらっしゃったので、もうそろそろ朝の鐘が鳴る頃ですねー」


「なんですって!?」


 お茶を飲んで落ち着く暇もありませんの!?


 ようやく着付けが終わったわたくしが振り向くと、マノンはジネットと共にすました顔を見せるばかり。何か言ってやりたかったですけども、何を言ったところでレノー様がいらっしゃるときは変わりません。


 ああもう、こうなったら無理にでも落ち着いてお目にかかるしかありませんわ!




 ついにこのときがやって来てしまいました!


 わたくしのお屋敷にレノー様がいらしたとの連絡がありましたわ。事件以来のご対面です。


「それでは参りましょうか。ところで、ジネット、わたくしの姿でおかしなところはありませんか?」


「いつも通り完璧です、シャルリーヌ様」


「六回もお聞きにならなくても大丈夫ですよー」


「マノン、いちいち数を数えいたのですか!?」


 気持ちを落ち着けようとするわたくしの努力を理解できないなんて、わたくし付きの侍女として嘆かわしいですわ。


 ともかく、レノー様をお待たせするわけにはいきません。わたくしは侍女二人を引き連れて応接室へ向かいました。以後は淑女として見苦しくないように振る舞わなくてはいけません。


 ジネットが扉を開けたのでわたくしは応接室へと入りました。お父様の趣味で白を基調に統一された室内は見慣れたものです。


 応接室の中央近くに置かれているソファには、久しぶりに拝見するレノー様が座っていらっしゃいました。そのお顔を見た途端、わたくしの心がざわつきます。


「シャルリーヌ!」


「レノー様、お久しゅうございます」


 立ち上がるレノー様に向けてわたくしは優雅に一礼しました。あれ、どうして近づいてこられるのですか? いえちょっとそれ以上は。


 動かないでいるわたくしはレノー様に抱きしめられました。そう、あのときのようにぎゅっとされたのです。目の前には一面に白いお服が広がっていて、お鼻には香水と体臭の混ざった殿方の香りがいつもより強く、強く? 強く!?


 え、いきなり!? こんなの予想外ですわ!


「よかった。無事なようだね」


「ひゃい」


 噛んでしまいましたわ! 最初っから淑女的行動ムーヴ失敗ではないですか!


「ひゃい?」


「なんでもありませんわ! それより、レノー様、いきなりどうなされたのですか?」


「婚約者が無事だと知って喜んでいるんじゃないか」


「それは嬉しいですけれども、少々近すぎませんか?」


「これでも遠慮しているくらいだよ。シャルリーヌは僕とこうして嬉しくないのかな?」


「いえ、それは」


 ああどうしましょう、今絶対顔が真っ赤に違いありませんわ!


「しかし、紳士淑女としてはしたないことは」


「公式の場ならね。けど、ここなら誰も見ていないだろう?」


「じ、侍女が二人」


 言いながら振り向きますと、わたくしの背後で控えていたはずのジネットとマノンは壁際に立っていました。しかも、背を向けているではありませんか。なぜ?


「私たちは壁です」


「お気になさらずにー」


 むしろ気になりますわ! 服の色が壁と似ているからって騙されませんからね!


「ほら、誰もいないだろう?」


「レノー様!」


「以前のきみはいつも淑女として完璧だったから本心がわからなかったけど、今ならよくわかるよ」


「うっ!」


「淑女教育だけでは隠しきれないほどの乙女心をお持ちなのです」


「あばたがえくぼに見えるようになったら、もうダメですよねー」


 背後から聞こえてきた声にわたくしは肩をふるわせました。二人とも、壁ではなかったのですか!?


「安心したよ。愛しているのが僕だけじゃないってわかって」


「ひぇ」


「毅然としているいつものきみと違って、今日は普通の女の子らしいじゃないか。こういうのもいいな」


「そ、そうですか?」


「こんなきみが見られたのなら、賊の襲撃にも感謝しないといけないかな」


 再び強く抱きしめられたわたくしは、レノー様の胸の中でその温かさと香りに胸がいっぱいになりました! ついでに精神もいっぱいいっぱいですわ!


「シャルリーヌ、愛してる」


「うっ」


「シャルリーヌ?」


「わ、わたくしも」


「わたくしも?」


「あ、愛していましゅ!」


 噛んだ! 一番大切なところで噛んでしまいました! 恥ずかしすぎますわぁ!


「はは、僕のシャルリーヌはかわいいな!」


「うー!」


 あまりの情けなさにわたくしはレノー様の胸で顔を隠しました。すると、更に強く抱きしめられてしまいます。もう何が何だかわかりませんわ!


 けれど、胸の内に温かいものが広がっていくのがはっきりと感じられます。これをいつも感じられるのであれば、こういうのも悪くありませんわね。

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