38.天馬と架純

 その日、天馬は朝から外に出ていた。

 大事な取引先との商談。会社内で再び再評価され始めていた西園寺天馬のここ最近で一番の仕事。役員の期待も大きな商談を前に、電車に揺られる天馬の表情も自然と緊張する。


(ふう、ちょっと落ち着くか……)


 約束は午前十一時。取引先まではまだ十分に時間がある。

 天馬は近くのカフェに入り、落ち着かせる為にコーヒーを注文した。場所柄、店内には同じように時間を潰すサラリーマンや商談を行う人達の姿も見える。天馬は大きなガラス窓がある眺めの良い席へと座りコーヒーを口にする。



(今日は架純ちゃんの卒業式か……)


 今日の商談の為にずっと時間を割いて準備をして来た天馬。架純にとって大切な卒業式に行けずに申し訳ないと思いつつも、社会人である彼にとってはやはり今日の商談は絶対に行かねばならない大切なもの。口にしたコーヒーの味も分からなくなるほど緊張している。

 そんな彼がガラスに映った自分の姿の異変に気付く。



(あれ?)


 椅子に座っている天馬。だがガラスに映ったその天馬はしてこちらを見つめている。


(なにこれ? 俺!? どうして立って……)


 現状が理解できない天馬。夢か幻か。周りを見回すも近くで立っている男性の姿はない。つまりその人物はやはり自分。恐怖と共に確認しようとマジマジとその姿を見つめる。



『急げ』


(!!)


 不意に天馬の頭に男の言葉が響いた。訳が分からない天馬。そうこうしている内にガラスに映った自分が手を伸ばし、自分の腕を掴んで言う。



『架純ちゃんが危ない。急いで帰れ!!』


(え? 架純ちゃんが!!??)


 何が起きているのか全く分からない。ただ彼が触れている腕には確かに掴まれているような感覚がある。それは紛れもない事実。声もはっきりと聞こえる。天馬が心の中で尋ね返す。



(お前、誰だよ一体……)


 それを聞いたのかどうか知らないが、ガラスに映った天馬が怒りの表情を浮かべて言う。



『早く行けって言ってるだろ!! 架純ちゃんを失いたいのか!!!』


(!!)


 天馬は自然と席を立った。

 すぐに会計を済まし駆け足で駅へと走り出す。理解ができない。ただ、これだけは分かった。



 ――あの男が架純ちゃんに接触する


 それは何よりも避けなければならないこと。予定の二十五日よりは随分早いが、あれは夢の話。あのガラスの男は誰だか知らないが今やるべきことは理解した。


(架純ちゃん、待ってて!! 俺が行くまで頑張って!!!)


 天馬は走りながら取引先に今日の商談ができないことを告げ全力で走った。






 馬場信二は裕子から半ば無理やり奪ったアパートの鍵でドアを開け、部屋に入った。室内に充満する女の香り。若くて甘酸っぱい、熟した裕子とは一線を画す男をそそる芳香。信二は部屋の隅に居る架純を見ながら言う。


「へへへっ、やっぱり居やがったな。ああ、堪らねえぜ」


 架純の頭は混乱していた。夢で見た日にはまだ時間がある。だがこのシチュエーション。それはまったくあの正夢と同じ。震える架純に信二が尋ねる。


「お前、裕子のなんだろ?」


 架純は恐怖で何の反応もできない。それをあざ笑うかのように信二が言う。



「お前の母親よお、お前のこと『息子』だとか俺に嘘つきやがって騙してやがったんだ。なあ、酷い母親だよな?」


「あ、あなたどうしてここに……?」


 初めて聞いた架純の声。それにやや興奮しながら信二が答える。


「俺のこと知ってんだろ? 会うの初めてだが、俺は馬場信二。お前の母親と再婚する予定の男だ」


 こうして正面から向き合うのは初めて。強い圧力。男として最も醜いオーラが全身から溢れている。信二が言う。



「お前の母親はダメ女だから、俺がしっかりお仕置きしてやったよ。二度と俺を騙すことのないようにな。スマホも没収した。それでだ……」


 信二が架純の部屋に入り近付きながら言う。


「お前も共犯なんだろ? だったらお仕置きが必要だな。もうすぐ『パパ』になる俺が、悪い子供にお仕置きをしてやらなきゃな」


「や、やだ……、来ないで……」


 ようやく絞り出せた声。自分でも聞こえないほど小さな声。架純は恐怖に震えて体が動かなくなっていた。





(急げ急げ急げっ!!!!)


 駅を降り、アパートまでの道を全力で走る天馬。電車内で何度も架純に電話をしたが全く反応がない。これまでにない状況。まだ冬の空気が残る寒い風の中、真っ赤な顔で天馬が走る。



(あっ、あの車!!!)


 アパートについた天馬は愕然とした。路上駐車された黒塗りのセダン。見覚えがある車。まさしくそれは架純の母親の再婚相手のもの。


(最悪だ、くそっ!!!)


 天馬が駆け足で階段を上がり、架純の部屋のドアノブを握り開けようとする。


 ガチャガチャ



(鍵が掛かっている!?)


 中に誰かいるのか分からない。だが鍵が掛かっていて開かない。ここに来て架純から合鍵を貰っていなかったことを後悔する。

 一方、部屋の中にいた架純は突然誰かがドアノブを掴んで回していることに気付き、玄関へと走り出す。


「待て、こら!!!」


「きゃ!!」


 だがそれを信二が架純の髪を掴んで押さえつける。



「うぐぐぐっ……」


 同時に塞がれる口。信二が言う。



「ちっ、誰か来たようだな? 隣の奴か? まあいい。鍵さえしていればここに入ってこらねえ」


 そう言いながら髪を掴み上げ架純の顔に自分の顔を近づける。


「マジ上物だな。裕子も若い頃はこんなに可愛かったのかな~、いっそうのこと、お前に乗り換えるか??」


「うっ、うぐぐぐっ……」


 架純は必死に抵抗する。だが男で力も強い信二。どれだけ抵抗しようがびくともしない。信二が舌で自分の唇を舐めながら言う。



「さあ、大人を騙した罰だ。お仕置きの時間だぜ」


(て、天馬さん。天馬さーーーーーーん!!!!)


 架純は心の中で叫んだ。ありったけの声で叫んだ。届くはずはない。だけどきっと来てくれる。その思いは通じた。



 バリーーーーーン!!!!



「!?」


 部屋の方から響く何かが割れる音。驚いた信二が振り返ると、ベランダの窓ガラスを割って仁王立ちする男の姿があった。


「だ、誰だ!? お前……」


 突然現れた男に驚く信二。その男が大声で怒鳴りつける。



「何やってんだよ、お前っ!!!!」


 その声を聞いた架純が目から涙を流し走り出す。


「天馬さん!! うわーーーーーん!!!!」


 天馬に抱き着く架純。一瞬の隙をつかれ架純を放してしまった信二が立ち上がり、天馬に言う。



「お前、隣の奴か? 何しに来た? これは俺達の話だ。出て行け」


 ドスの利いた低い声。一瞬怖気づく天馬だがすぐに言い返す。


「何が家族だ!! お前こそ出て行けよ!!!」


「ほお。てめえ、この俺とやり合う気か?」


 そう言いながらゆっくりと天馬に近付く信二。やれば確実に負ける。そんなことは天馬だって分かっている。だから咄嗟に天馬はスマホを見せながら言った。



「ここに来る前に通報した。もうすぐ警察が来る。それまでお前を抑えればいい!!!」


「なっ」


 意外な反撃。脳筋ですべて力で解決して来た信二にとって、天馬の反撃は意外だった。真剣な目。絶対に引かないと言う決意に満ちた目を見て、信二がつまらなそうに言う。


「ちっ、まあいい。俺は帰る」


 そう言ってまるで逃げるようにドアを開けて出て行った。



「天馬さん……」


 信二が帰り力なくその場に崩れ落ちる架純。天馬は彼女の肩を抱き優しく言う。


「ごめんね。遅くなって」


「ううん。良かった、来てくれて……、ううっ……」


 安心したのか架純が嗚咽する。


「あの……」


 架純は天馬が手にしたスマホを見て不安そうな顔をする。


「ああ、警察ってのは嘘。ああいう奴って絶対この手に嘘に引っかかるから」


「良かった……」


 架純も警察沙汰になることは望んでいない。ただ天馬と平穏に暮らしたい。それだけ。天馬が割れたガラスを見て言う。



「ごめんね。後で大家さんに言って弁償するから」


「天馬さん……」


 架純が再び天馬に抱き着く。天馬が答えるように言う。


「今日から一緒に暮らそ。部屋も引っ越しする。ふたりで新しい部屋で」


「はい。天馬さん……」


 天馬と架純は自然と目を閉じ唇を重ねた。






『良かったね』


『うん』


 駅にあるとあるビルの屋上。その隅に立つ黒髪の少女が嬉しそうに言った。


『ありがと、本当に感謝してるよ』


『うん……』


 そう笑顔で話す黒髪の少女と対照的に男の表情は暗い。少女は少し笑いながら言う。


『大丈夫だって』


『なあ』


『なに?』


 少女が笑顔で答える。男が尋ねる。



『ほんとに行かなきゃならないのか?』


『うん、決まりだから……』


 初めて少女の表情が曇る。男が悔しそうな顔で言う。


『こんなの俺……、!?』


 少女が男に抱き着きながら優しく言う。


『大好きだよ。さん……』


『あっ』


 少女はそう言い残すとビルの上から倒れるように落ちる。男が手を差し出し、彼女の腕を掴もうとする。



『待って!!!』


 だが伸ばした手はまるで空気を掴むように感触なくすり抜けていく。黒髪の少女は落ちながらにっこり笑顔でそれに応え消えて行った。

 ひとり残された男は屋上に膝をつき涙を流して無音の叫び声をあげた。






「架純ちゃん」


「ん? なに天馬さん?」


 信二襲撃から数日、ふたりで新しい部屋を探しに出かけた架純と天馬。駅前の横断歩道を歩き出そうとした架純を天馬が呼び止める。振り返った架純の手を天馬がしっかりと握る。


「どうしたの? 天馬さん??」


 よく意味の分からない架純が首を傾げて尋ねる。天馬が少し恥ずかしそうに答える。


「いや、危ないからと思って……」


 そう言いながら掴んだ手をぎゅっと握りしめる天馬。架純がやや小悪魔的な表情となって天馬の横に来て言う。


「天馬さんの弱点みーっけ!!」


「え?」


 驚いた顔の天馬に架純が笑顔で言う。


「天馬さんの弱点は心配性なところ!!」


「あ、うん」


 天馬もそれに笑顔で答えつつ内心思う。



(俺の弱点なんて最初から決まってるんだよ……)


「じゃ、行こっか」


「はい!!」


 天馬の声に架純が笑顔で答える。



 ――俺の弱点は、最初から架純ちゃんだよ


 天馬は架純と繋いだ手を離さないようにしっかりと握り締めて、一緒に歩きだした。

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隣に棲む悪魔のような天使ちゃんが俺を離さない。 サイトウ純蒼 @junso32

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