第4話 血と研鑽
ジェムス宮廷の広場は騒然としていた。宴の翌日、昼日中のことである。
既に神剣『女神の骨』の操者はカテフ王国のアズミラ王女に定まっていた。当初は王家の血を引かない彼女が選ばれたことに異を唱える
悪魔でも一部だったが、カテフ王家の血を引いていないことを理由に陰口をたたく貴族も、母国にもいたのだ。それは王家の名に見合う実力で黙らせるに限る。それは母国を離れていようと変わらない。広場を焼き尽くさんばかりの火勢を伴う『女神の骨』の剣戟を見せつけられば、文句を言える者はいなかった。
そもそも、神剣はアズミラ王女が手にしたとたん、神盾『女神の皮膚』と共鳴するかのようにまばゆい光を放ったのだ。それで十分だった。念のために他の王女たちが持ってみてもアズミラの時ほど輝きはしなかった。
しかしただ一人、諦めきれずにこの決定に異を唱える者がいた。内親王ティチェである。
「どうしてお前みたいな田舎者が神剣の操者なのよ!」
泣き叫ぶティチェの手には訓練用の模造剣が握られている。これが真剣であれば兵士たちが羽交い絞めにして止めただろう。その場で全てを見守っていた皇帝と皇妃は事の成り行きを見守っている。
斬りかかる摸造剣を、アズミラもまた同じもので受け止める。そのまま腕に力を込めてティチェを押し返した。
「内親王殿下の思いを踏みにじるようで心苦しいが、魔獣討伐成功の暁には陛下が褒章を賜るという。我が国のような田舎にとってこれはまたとない機会。それに、田舎者にも譲れぬものはあります」
よろけた皇女はなんとか体勢を立て直して、剣を頭上に構えてアズミラに振り下ろした。
「王家の血も引いていないくせにッ」
カテフの王女はそれをかわすように素早く身を低くして構えを取ると、そのまま抜刀の動きで剣を振るった。がら空きになっていたティチェの胴部に横薙ぎで摸造剣がしたたかに打ち付けられ、彼女の剣の切っ先は目標を見失って奇妙な動きでアズミラの羽織っていた上衣をはぎとった。
ティチェ内親王が地面に転がったのと、アズミラの両腕が露わになったのは同時だった。
「おい、なんだあのアズミラ殿下の腕は……」
「傷らだけだわ……」
「剣による傷か? 火傷痕まで」
観客たちが身分の高低なくざわついた。王女アズミラが丈の短い上衣を脱ぐと、運動用の
転がってなお、ティチェはあきらめない。摸造剣を握りなおしてアズミラに斬りかかりながら顔を真っ赤にして叫んだ。
「王家の血も継がない、死にぞこないの捨て子が生意気をッ!」
だが、アズミラは手首を返してその斬撃を受け流した。ティチェの左肩あたりが無防備になったのを見逃さず、アズミラはそこを素早く、強く摸造剣で突いた。
皇女はうつぶせになって地面に倒れた。額に髪を張り付けながらあぜんとして己を見上げる皇女ティチェに、カテフ・ジェムス王国の捨て子姫が言い放った。
「
カテフ王国第二王女アズミラは再び模造剣を構える。
「悔しいならもう一度だ! 内親王の血と私の10年の研鑽、どちらがより
猛獣もかくやというあたりを震わせるような声でアズミラがティチェを挑発したが、それは重々しい声にさえぎられた。
「そこらで良かろう、アズミラ王女!」
アズミラの声を打ち消すほどの迫力ある制止は、黒衣の皇帝のものであった。皇女の父親はチラと娘に視線を見やると、威厳のある声で咎めた。
「ティチェよ、
「でも、お父様ッ!」
「納得のいく説明もせぬ神剣の決定に反目を抱くこともあろう、それを余は責めぬ。だが、他国の王族に対する暴言を見過ごすわけにはいかん。生まれという自らの選べぬことであればなおさらだ」
皇帝は娘に1週間の謹慎を申し付けたあと、王女アズミラに向き直った。
「……苛烈であるな、
「陛下の前で取り乱しました。申し訳ございません」
「己の信ずる正しさを何者相手でも貫く、か。なるほど、その
厳かな声で言い、ジェムス皇帝ハサバは宣言した。
「今この時より、神剣『女神の骨』の操者はカテフ王国第二王女アズミラ王女となった。この決定、
大陸盟主の言葉に、全ての者が膝をつき、事態はこれで収まった。
かに見えた。
***
それから出発までの1週間、特に何事もなく神剣と神盾の操者たちの旅立ちのための準備が
この1週間の間にアズミラはヌールスール王国のネイラ姫から魔法を込めた宝石飾りのお守りを受け取った。宮廷に留まる彼女はその実、アズミラの次に操者の適性が高かった。このネイラ姫が渡したお守りは二つで一つになるもので、相手との無事の再会、つまり今回はアズミラの無事の帰還を願うものだった。アズミラはいたく感動し、これを肌身離さず身に着けることを約束した。
さらに彼女はこれを真似して急ごしらえながら同じものを用意してハルシャーフに渡した。すると、この生真面目な騎士も同じようなものを差し出し、2人はしばらく回廊に笑い声を響かせた。
神剣の操者の防具、神盾の操者の武器が用意され、女神の御座への旅順を確認し、彼らに途中まで同行する世話係や医療者が選ばれ、彼らへの面通しや旅立ち前の帝都内の女神神殿への礼拝など、あわただしく1週間が過ぎ、当日の朝になった。
神剣『女神の骨』の操者アズミラは
今日は宮廷全体が早朝からざわつき、皇帝と皇妃以下、上級官吏たちが大切な任務に赴く者たちを見送るために支度をしていた。
そこに凶報がもたらされた。
「神盾操者ハルシャーフ卿、行方不明!」
従卒が彼の私室に声をかけたところ返事がなく、無理やり部屋に入ったところ、寝台がもぬけの殻だったという。一瞬にして宮廷は上を下への大騒動となり、皇帝と皇妃の招集により上級官吏以下、神剣操者のアズミラ、ハルシャーフの世話係の従卒らが手近の談話室に集い、そこを指令室としてハルシャーフの捜索を開始した。
「ハルシャーフ卿の私室の様子はどのようであった?」
「身の回り品の類は一切残っていません! ハルシャーフ卿は宝珠化した神盾をいつも腕飾りにして身に着けていますから、おそらく神盾も彼のもとにあるかと」
アズミラは急いたように従卒に問いかけた。
「これの片割れになるものを彼の部屋で見ませんでしたか? 私がハルシャーフ卿と交換したお守りの片割れです!」
「いえ、本当に部屋には一切……あッ」
「どうした」
「は、その、陛下、私が部屋に入ったとき、ハルシャーフ卿の部屋の窓が開いていたんです。この時節ですから窓を開けて寝ていてもおかしくはないのですが……。部屋は荒れておらず、ベッドとカーペットが少しよれていたくらいで」
一同は顔を見合わせた。
「本人の意思であればどうしようもないが……」
「誘拐? ベッドはともかくカーペットのよれというのは……」
「寝ているハルシャーフ卿を引きずって運んだ?」
「目覚めるだろう、普通」
「薬を盛られていた?」
「医務局に連絡を取れ!」
「力自慢の者たちを確認しろ!」
人々がそばにいる小間使いたちに指示を出していると、スッと二人の女が立ち上がった。
一人はアズミラであった。腕飾りを付けた右手首を掲げている。
「忘れていました、この神剣! 神盾と共鳴して光を放ちます、それで居場所を特定できます」
もう一人は皇妃シェナであった。アズミラは急ぎその場で膝をついた。
「急ぎ、ティチェの謹慎している部屋に向かいましょう、陛下」
皇女の母はため息交じりに言った。
行動は早かった。皇妃を先頭にして皇帝、そしてその子らと数人の侍従、それにアズミラは、神剣の放つ光を頼りに回廊を足早に移動する。
「あなたが気づいているかは知りませんけどね、ティチェは今でも創世神話に並々ならぬこだわりがあるわ」
「……あれは幼い頃からそうであったな。
「兄上に騎士役をやらせていたの、私はよく覚えていますよ」
「そうそう、一回では飽き足らず、僕は何度も騎士役をやった」
皇女の家族は口をつぐんだ。アズミラはあちこちに剣をかざし、一番強く光を放つところを指さした。
「皆様方、こちらです! 内親王殿下の謹慎部屋のある方面ではありませんが……」
***
「ハルシャーフ、わたくしと一緒にいるとおっしゃい!」
ピシャリと鋭く乾いた鞭の音が暗い石牢に響く。若く優雅な女の声は、やっぱり涙交じりだった。それを目の当たりにして、ハルシャーフ卿は裸の胸に傷を作りながら困ったように笑った。
(また傷痕が増えるかもしれないな)
しかし、素人の扱う鞭は痛くはあるものの、神盾の加護を受けた者にはあまり効果が無いようだった。ただ、逃げ出せないのは頑丈に四肢を拘束されて天井から下がる鎖でつながれているからに他ならない。
「ハルシャーフ、わたくしと一緒にいなさい!」
騎士は鞭を握る貴人に優しく語りかけた。
「内親王殿下、無理をおっしゃいますな。私は陛下から女神の御座へ礼拝と魔獣撃滅の命を受けております」
「そんな命令破って! わたくしがお父様に口添えするから!」
「できません。私には、神剣『女神の皮膚』の操者のそばに
盾の騎士は端に血のにじむくちびるで言って、首を横に振った。それが憎らしいほどに美しくて、ティチェは目の前の男をにらんだ。
「じゃああの女から神剣を奪って、私のところに持ってらっしゃい!」
張り裂けんばかりの声で命令し、皇女ティチェはもう一度鞭を振るってから、血をこぼす騎士の胸に縋り付いた。
今では使われなくなった古びた地下の石牢の隅には、背中や頬に生々しい傷を作った女官や庭師や兵士たちがひと固まりになって息を止めて事の成り行きを見守っている。たった一つの出入り口には皇女の魔法ですさまじい風が吹きすさんでおり、彼らがここを逃げ出すことを妨げていた。皇族の血が由来するのか、彼女の魔法の腕は並の者をしのいでいた。
「失礼ながら、それは私に対する過剰な期待です、内親王殿下」
「名前で呼んで! ……ティチェって」
「……恐れ多いことです」
苛立ちと悲しみを混ぜた声がハルシャーフの精悍な頬を叩いたが、騎士は応じなかった。
「どうしてよ」
こぼれたつぶやきは答えを求める類のものではない。顔を上げた皇女ティチェの長いまつげが涙にぬれて、重くまばたきしている。朝露をまとって咲く薔薇のようなたたずまいを、騎士はただ痛ましそうに見つめて首を横に振る。僅かに体が揺れて、重々しく鎖が鳴った。
「どうしてあのアズミラとかいう女なのよ! 私の方が女神みたいで、地位もあって、神剣に相応しくて……あの女みたいに傷だらけじゃないわ!」
王女が高く鞭を鳴らして、今度は腹のあたりに傷を作った。赤い線が引かれた身体を見下ろし、騎士は形の良い
(アズミラ殿下なら、きっともっと上手く鞭打ちなさるだろうな)
本人に言えば怒るだろうか、と考えてから、きっと笑うだろう、と思い直す。
それにしても、まさか寝る前に供された茶に睡眠薬が混ざっているとは思わなかった。神盾の操者などという大層な肩書を背負っていてこれか、と騎士は自嘲する。そろそろ日が昇るころ合いだろうが、きっと宮廷内は大騒ぎに違いない。
(かれこれこの牢で目覚めて何時間だ? 素人の鞭打ちで死ぬことは無いけど、腕を上げっぱなしでさすがにしんどいな……)
考え事をしながら騎士は、石牢の隅にうずくまった女官たち視線をやる。アズミラから貰ったお守りは身の回りの品と一緒にティチェ内親王の哀れな部下たちの手元に置かれていて、手が届かないばかりに魔力を込めることもできない。左腕に飾っている宝珠化した神盾の腕飾りも、今は内親王本人の手の内にある。希望があるなら、それと対になる神剣の存在だろうか。
(俺はアズミラ様にご足労をかけてばかりだな、騎士とあろうものが情けない。いつか俺から迎えに行って差し上げて、この醜態を許していただかねば)
さすがにこれにはハルシャーフも気落ちして、ため息をついた。
想い人の物憂げな顔に、ティチェは眉間に皺を刻み眉を吊り上げた。
「わたくしを目の前にして何を考えているのッ!」
パシン、と乾いた音で騎士の頬が叩かれた。くちびるの裂傷が広がって血がにじんで、それでもなおハルシャーフの美貌にかげりはない。盾の騎士は首を振って癖のある金髪を払い、熱を持った頬を空気に晒し、すみれ色の瞳で皇女を見下ろして平然と言った。
「アズミラ王女殿下のことを」
ティチェ内親王の感情はそこで決壊した。
「どうしてあの女なのッ! あんな傷だらけの女より、私の方がずっと綺麗でしょう! 誰もがこの私をジェムス宮廷の薔薇と称えたわ、若い貴族子弟にこの私を褒めそやさない者はいないわ! その私が、血統と魔力と美を備えたこの私が、あなたを欲しいと言っているのよ!」
細い腕で騎士の裸の胸を叩きながら帝国皇女は一介の騎士に苛立ちをぶつけた。
「だとしても」
ハルシャーフの言葉は良く澄んで響き、夜明け前の一瞬に吹く風のようだった。
「俺にとって星のように美しいのは、太陽のような勇猛と、月のような思慮を備え持つ、アズミラ王女殿下ただお一人です」
帝国皇女がわずかにあとずさり、全身を緊張させて騎士を睨みつけた。
「神盾の操者として死に物狂いで生きてきた俺の希望であり続けたアズミラ殿下が、俺と同じように約束のために傷を作って死に物狂いで10年を過ごしてきたアズミラ殿下の在り方が、俺にとっては一番美しいのです」
そこが内親王ティチェの限界だった。激情に駆られて鞭を頭上に振りかざしながらも、もう片方の手で騎士の首のあたりを掴んで彼の顔を引き寄せ口付けようとする。
その時だった。
「迎えに来たぞ、我が盾の騎士よ!」
払暁のきらめきに音を与えれば、きっとこんな響きだろう。そう思わせる声で言うや否や、神剣の加護を受けた王女は赤茶の髪をなびかせて、石牢の中に飛び込んで間合いを詰め、剣を振るってティチェの鞭をからめとった。ただの鞭が神剣の刃に耐えられるはずもなかった。ついでに内親王が取り落とした神盾を回収する。
「またもやご足労をおかけしまして申し訳ありません、アズミラ様。俺は大丈夫です、それよりあちらの方々を」
騎士の言葉にうなずいて、アズミラは皇女を彼女の家族に託し、皇帝らの連れてきた侍従らと石牢の隅にうずくまっていた人々を元気づけ、手当てを受けさせながら話を聞いた。どうやら謹慎中だと渋る手元の使用人たちに鞭打って彼らを動かしたらしい。女官の一人が眠り薬を盛ったことを自白した。
「いやよ、近寄らないでッ!」
ふいに少女の悲鳴のような声が響いた。
「お母様、お父様を私に近寄らせないで!」
皇女ティチェであった。彼女の兄や姉は彼女をなだめようとし、あるいは皇帝への不敬を取り下げるように言ったが、末娘はぼろぼろと涙を流しながら小柄な皇妃の後ろに隠れた。困ったように父王が娘に右手を伸ばすと、悲鳴のような声が上がった。
「触らないで、人殺しッ!」
その剣幕に巨漢の大陸盟主ハサバ帝がひるんだ。
「近寄らないで、女子供の首を平気で斬るくせに! この……ッ」
18歳の少女がそれ以上の罵倒を口にすることは無かった。父王以下、家族に対して気が引けたというよりも、女神のごとく純潔であるべき己のくちびるを
黒衣の父王は身体を小さくしてゆっくりと後ずさった。言葉もなく、ジェムス皇帝は、あの日自らが手にかけたトサーク王国の姫君の生首が転がって自分を見上げるあぜんとした表情や、玉座の間に集った人々の恐怖に満ちた視線が突き刺さる感覚を追体験している。
鋭い声が不意にアズミラに向いた。
「お前もよ、カテフの第二王女! お前の姉は自分と同じ年頃の少女の首が切られたというのに、悲鳴のひとつも上げなかった人でなしよ!」
敬愛する姉アンフの名を持ち出され、彼女はゆっくりと顔を上げた。どんな感情になればよいのかわからなかった。
「ハルシャーフ、お前はあんな冷血女のそばに侍ると言うの? そんなの間違ってるわ!」
巡視局長の手によって拘束から解放された神盾の操者はゆっくりと首を横に振った。
「私はただ、神盾の誓いを果たすまでです」
皇帝を前にして、騎士は言葉を選んで明瞭な声で言った。
***
「余は間違ったことをしたとは思わぬ。トサークの姫の斬首を誰かに任せたとしても、それは斬る手が違うだけで、斬る意思は余のものだ。ならば人殺しの罪まで、その意思の主である余が引き受けるのが道理だろう。だが……何も思わぬわけではない。あのトサークの姫は、そっちの娘と丁度同い年だった」
父王に目を向けられて、文書館長を務めている第二皇女は母親似の顔立ちで困ったように笑っている。
ハルシャーフの傷の手当てが終わるころには皆すっかり空腹で、二人の操者と皇帝一家はそのまま朝食を共にする流れになった。
「……王とは矛盾に満ちた生き物だな。民には人命を貴べと言いながら、あらゆる大義名分を掲げて兵士には人殺しを命じる。誰かの伴侶で親で子でありながら、必要とあればそれらを重く処罰し時に殺すこともある」
言いながら、末娘に拒絶された己の右手を見つめている。皇妃がその手をそっと握って、黙って目を伏せた。その手を握り返しながら、ふと大陸盟主はアズミラに目をやった。
「カテフのアンフ王太姫は、良い悪いは別として、あの歳でその矛盾を恐ろしいほどに飲み込んでおった。……せめて年の離れた末娘くらいはその矛盾に苦しまなくてよいように、と思ったが、甘やかしすぎたか」
皇帝は
帝都郊外にある女神神殿での3年間の謹慎、それが内親王ティチェへの処分だった。神盾を預かる者への監禁・暴行と、元の謹慎を破っての使用人たちへの無茶振り、大陸の命運をかけた皇帝の勅命を妨げたこと、この3つに対しての処分である。
平民なら死罪の可能性もあったが、皇女という立場や事態の解決が早かったことを
大陸盟主はこれを受け入れ、彼がひと声命じるとあっという間に内親王の荷物がまとめられ、彼女の馬車が用意され、早朝に旅立つはずだったアズミラやハルシャーフよりも早く宮廷を去った。
結局、アズミラとハルシャーフの出発は翌日に先送りされた。出発に際し、皇妃が怪我人を気遣った。
「もう少し休んでいかなくて良いの?」
「お気遣い痛み入ります、皇妃殿下。神盾の加護のおかげで、身体は人並み外れて頑丈ですので心配ありません」
空が完全に明け放たれたころになって神剣と神盾の持ち主たちは、数人の部下を連れて王都を出発した。皇帝と皇妃以下、上級官僚ら、5国の王女の中でも特にヌールスール王国のネイラ姫、そして何よりもポーム卿らとあのカテフ兵たちが馬上のアズミラ王女の旅の無事を祈った。神盾の持ち主にはアズミラ姫を良く守るように言い含めた。
「神盾の誓いは破れません。どうぞ吉報をお待ちください」
「皆様に幸運がありますよう!」
そう言って、2人は大陸中に根ざした人々の文明を破壊せんとする魔獣を撃滅すべく、女神の御座を目指し、朝の帝都を旅立った。
「本当に傷は大丈夫なの? 散々鞭で打たれていたでしょう」
なだらかな丘を往きながら不意に王女が騎士に問うた。
「問題ありません。傷の治りも早いんです」
それはよかった、と笑うアズミラは、少しの沈黙の後に思い出したように妖艶にほほ笑んだ。
「ティチェ内親王殿下も、まあ、可愛らしいと言えば可愛らしいわ」
意外な感想であった。
「鞭打ちであなたの身体を壊してまで自分の傍にいさせようとはしなかったのだから、慎ましいじゃない」
自分の答えが正解だったことを思いがけず突き付けられ、鞭打ちに合っていた男は困ったように笑った。
「お詳しくておいでだ」
「私が13か14の頃、国中を荒らしまわっていた盗賊団の一人が捕まえられてね、アジトを割り出すための拷問の現場を見たことがあるわ。プロの
鞍上の王女は目を閉じた。母国にいる姉のことと、皇帝の言葉を思い出しているのだろう。そしていつまでそうしていたか、アズミラはあの日の少年に爽やかに笑いかけた。ハルシャーフもまたすみれ色の瞳でほほ笑んだ。
「なんにしても、約束を果たせてうれしいわ、ハルシャーフ。操者同士としてもこれからよろしくね、我が盾の騎士」
「こちらこそ、望外の喜びです。良い冒険の旅にしましょう、我が剣の王女よ」
その顔に、安堵が浮かんでいる。あの頃互いに誓いを立てて泣いていたばかりの少年が、涙をこらえて苦しそうな顔をしていた少女が、無事に成長して屈託もなく笑っている。忘れても良かったはずの約束を覚えていて、そのために互いを待ちわびていた。
その事実が2人の胸を熱くした。
神剣『女神の骨』と神盾『女神の皮膚』の操者は後続の者たちに声をかけ、風のように駆けていく。
秋の初めの、とある朝のことであった。
剣の王女と盾の騎士 鹿島さくら @kashi390
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