第3話 邂逅と再会

 ポーム卿によって案内されて入ったジェムス宮廷の広大さときらびやかさにアズミラは目を見張った。

 小山の上に作られたジェムス宮廷は大陸盟主の宮殿に相応しく、その内に大小さまざまな建物をようしていた。


 それらは情報の集積場であり、兵士たちの兵舎であり、過去の行政文書の保管室であり、官吏たちの仕事場であり、閣僚たちの会議室であり、将兵達の作戦指令室であり、王族の寝所であり、客人たちの宿であり、楽師や踊り子たちの練習室であり、画家のアトリエであり、大食堂であり、最先端衣装の展示室であり、学者たちの研究室であり、技術者たちの荷物置き場であり、宝物庫であった。


 つまるところ、ここが大陸の中心であり、ジェムス帝国によるジェムス連邦という一種の中央集権体制の象徴とも言うべき場所であった。


 各棟は一番奥まったところにある帝室の居住区を除き、全てが大きな中庭と渡り廊下でつながっている。そのうちのひとつに通されて、アズミラはまず玄関ホールで靴を脱いだ。


 ジャムス連邦は家に相当する場所では土足を脱ぎ、柔らかい室内履きに履き替える文化がある。城に入ってすぐの靴を履き替えるための広間がまず、異様な広さなのだ。イスに座って侍女たちが室内履きを差し出すのを待つ間、アズミラは周囲をきょろきょろと見まわさないようにするのに必死だった。


 淡い緑のカーペットが敷き詰められた廊下を歩き、まずカテフ王国の姫君が案内されたのは浴室だった。皇帝に謁見する前に身なりを整えよ、ということらしい。


 ポーム卿に連れられて渡り廊下を歩くが、どこもかしこも妙に騒がしい。バタバタと官吏たちが走り回って忙しない。さすがに王族の行列には一礼を施すが、それ以上は待っていられないとばかりに再び駆け出していく。その騒がしさに隠れてアズミラ王女を「捨て子姫」と罵る者もいるが、幸か不幸かそれが本人の耳に届くことは無かった。


「何かトラブルでしょうか」

 アズミラ王女とポーム卿が顔を見合わせて首をひねると、中庭を横切って来る甲冑姿の男が見えた。急ぎの用事があるのか、マントをひるがえして駆けているが、そばの生垣から黒い影が飛び出すと、騎士はうわぁっと声を上げた。

 まだ若い男の声であった。


 飛び出した黒い影は猫である。この小さな毛玉は甲冑帯剣の武人の足元をちょろちょろと歩き回り、肩から垂れるマントの端にじゃれつく。フリンジが揺れるのが楽しいのだろう、猫はそのまま上等な絹糸で出来た飾りを咥えて、しかもそのまま駆け出した。


 焦ったのは騎士だった。思いがけない方向に引っ張られ、それを止めようと金髪を揺らしてアズミラ王女の一行のいる方面に駆け出した。しかし気まぐれな獣は不意に足を止めて再び騎士の足元にじゃれついた。足にマントが絡みついて、若い騎士もついにはバランスを崩し、派手な音を立ててアズミラ王女の列の前に倒れこんだ。


 猫はそこで遊ぶのに飽きたらしく、人間たちの方には一瞥もくれずに駆け出して行ってしまった。 

 しかし獣ほど自由になれない人間は、そそくさとこの場から逃げることもできない。若い騎士は倒れこんだことにいささかの気恥ずかしさを覚えながら体を起こした。生垣の葉が金髪の上に乗っている。


「ハルシャーフ卿!」

 ポーム卿らしからぬ声の鋭さであった。

 周囲でこの様子を見守っていた宮廷人たちは、焦ったように互いの顔を見合わせている。王室帝室の列をさえぎることができるのは、王室と帝室にのみ許されることだ。


「卿がさえぎったこの列は、カテフ・ジェムス王国アズミラ王女殿下の列なるぞ! そもそも帝国騎士たる身でありながら鳥獣に足を取られつまずくなど、なんたる無様か! 疾く控え、カテフ王女アズミラ殿下に膝を付け!」


 甲冑の身体が目に見えて強張った。しかし若い騎士は叱咤されて貴人に叩頭するどころか、弾かれたように視線を動かし、自分の目の前にいる少女をまじまじと見つめた。


 そこでようやく少女……アズミラ王女もその騎士の姿をきちんと見た。

 バチン、と音がしそうなほどの強い力で、アズミラの若葉色の瞳と、青年騎士のすみれ色の瞳がぶつかった。


 青年騎士は美しい男だった。背が高く、年のころはアズミラと同じくらい。少し癖のある金髪に、色白の肌と、すみれ色の瞳。精悍な頬や整った眉が男らしい凛々しさを添えており、目元は涼やかで、美青年という言葉がよく似合った。


 その顔を見つめるアズミラの脳裏に、ひとつの思い出がよぎった。10年前のカテフ王宮の隅で、すみれ色の瞳を涙にぬらした金髪の男の子と、互いの手を握り合、指を絡め合って固く誓いを交わしたこと。目の前にいる青年騎士には、あの少年の面影があった。


(なつかしい……)

 暖かな感慨が沸き上がり、感じ入るように王女がゆっくりと目を見はった。貴人の繊細な変化を目の当たりにした青年騎士の目が、これ以上ないほど大きく見開かれる。その反応にアズミラは彼に声をかけようとしたが、それよりも早く、ふいに己の立場を思い出した騎士はその場に膝をついて叩頭した。


「王女殿下の列を妨げる不敬、このハルシャーフの不徳の致すところでございます。長らく剣と書ばかり相手にしてきた粗野な不心得者のこととして、王女殿下の寛大なお心でお許しいただきたく存じます」


 膝をつき、やや下を向いていてなお良く聞こえる明瞭な声であった。声の良さは、この大陸において人の持ちうる先天的な美徳のうちのひとつとされる。


「お立ちなさい」

 アズミラは努めて凛とした響きで第一声を発した。それがあまりによく通る声なので、周囲で不安そうに成り行きを見守っていた官吏たちまで思わずぴしりと背を正してしまった。


 王女は語調をゆるめて不敬を働いた青年に語り掛けた。

天然自然てんねんしぜんことわり、鳥獣のさがなど、人の身には予測しえぬこと。でなければ、我々は今ウーハ将軍の英雄譚を楽しむことはできなかったでしょう」

 ジェムス帝国の古い逸話を踏まえた王女アズミラの発言に、この一連の流れを見守っていた宮廷人たちは眉を上げた。


 ウーハ将軍とは戦場に突然現れた虎に片耳をかじられながらも敵と戦ったものの、耳からの出血多量で絶命したとして英雄譚に名を残した人物である。凡庸な戦士として終わるはずだった彼は、虎に片耳を食われたエピソードがある故に、古いジェムス大陸の言葉で「片耳」を表すウーハの名で今も知られている。


「さ、顔を上げて、お立ちになって」

 姫君はその場に屈んで青年の髪に引っかかっていた葉を払ってやってから、手を差し出す。青年騎士はその手をうやうやしく捧げ持って立ち上がった。彼の手の小指の付け根や人差し指の関節は皮が厚くなっており、それは剣や盾を握り続けた者の特徴だった。 


「このお礼は必ずや」

 腰を曲げてそう言った不敬な騎士に、王女はにこりと笑って彼を許すことを表明した。


 頭を下げる青年の横を、王女の列が通過していく。そのまま隣の棟に異動して湯殿が近づき、周囲に人がいなくなると、アズミラは小さく笑った。

「ありがとう、ポーム卿。自分なりにうまくやったと思うけれど」

「お見事でございましたよ、アズミラ姫様。あの場にはそれなりの数の官吏かんりがおりましたし、カテフ王国の王女殿下がどのような人となりであるか、皆理解したでしょう」


 さて、先ほどの青年騎士の騒動の一連の流れは、もちろんきっかけこそ偶然ではあったものの、結果として、今回の五行帰貴ごこうききに異国から送られてきた五貴集ごきしゅうのひとりであるアズミラの王族としての美徳をジェムス宮廷人に示すためのパフォーマンスとなった。


 目下の者への寛容、教養、声の良さ。貴人に備わっていることが望まれるいくつかの要素のうちの3つをアズミラ王女はあの場で披露したわけである。そのためにはまず、宮廷人であるポーム卿があの青年騎士を頭ごなしに叱りつける必要があった。アズミラ王女が宮廷で人望を得たり、業務で功績を挙げれば、それを世話するポーム卿も評価される。不敬を働いた青年騎士に対してポームがらしくもなく叱咤したことは、貴人の世話をする者として当然の振る舞いであったし、王女の評価を通して自分自身の功績を積むためにも必要なことであった。


 世話をされる王女と世話をする官吏は、ある意味で同士でもある。そのポーム卿が面白がるように言った。

「しかし、まさかあのように古い逸話をお出しになるとは」

「小さいころから英雄譚や戦記ものばかり読んでいたのよ」

 そうでしたな、と笑ったポーム卿はアズミラ王女を湯殿に送り出した。


 風呂場は広く、もうもうと湯気が満ちてあたたかい。どうやら今はアズミラ以外にここを利用する者はいないらしい。彼女が服を脱ぎさって全裸になると、湯殿付きの女官たちは、王女の傷だらけの身体に悲鳴のようなものを上げた。だが、アズミラが魔法と剣術修行の結果だと正直に説明すると、幻肢痛が起きないか熱心に聞いて、身体や髪を洗ってマッサージをほどこし、彼女の世話をした。


 風呂に入り身体を清潔に保つのは、ジャムス連邦の民のたしなみである。故郷カテフ王国でもだいたい集落や街に一つは風呂屋があって、人々の情報交換場所にもなっている。この水を引いてくるための術も、創世神話の頃に女神から授けられた技術を元に発展したものだ。


 薔薇や蜂蜜の香りのする石鹸で全身を洗い、湯につかるとアズミラは身体を伸ばして全身を弛緩させる。約1か月の旅程を楽しんでいたとはいえ、やはり身体に負担はかかっている。故郷ではろくにマッサージなど受けなかった彼女がおとなしく女たちに身を任せていたのはそういうわけだ。


(それにしてもさっきの騎士、あの反応と言い、多分あの時の子、だよね。名前は確か、ハルシャーフ卿。……大きくなってたなぁ、あの頃は私のほうが背が高かったのに)

 猫に戸惑っていたのを思い出して少し笑い、ハルシャーフ、ハルシャーフ、と忘れないように何度も彼の名前を心の中で繰り返す。彼の少し癖のある金髪も、すみれ色の瞳も、戸惑ったような表情にも、あの10年前の少年の名残があった。


 そんなことを思っていると、不意に入口の方から女たちの囁くような優しい声が聞こえてきた。

「姫様、床が濡れておりますので気を付けて、ゆっくり……」

「ええ」

「さ、腰を下ろして、椅子におかけになって。まずは御髪おぐしとお体を洗いましょうね」

「ええ、お願い」


 アズミラより少し年下の、淡い金の髪の少女が、あたりに忙しなく視線をめぐらせながら女官たちに手を引かれて湯殿に入ってきた。甲斐甲斐しく世話をされるこの少女はどうやら王女らしい。

 

 ほっそりとした色白の四肢を備えた姫君は、女官たちに声をかけられながら、湯殿付きの女中たちに頭のてっぺんから足先までをあぶくだらけにしている。首のあたりで短く切りそろえたプラチナブロンドの髪が月光のようだ。


 全身を洗い終え、マッサージまで受けた姫は女中に手を引かれ、湯船に足を入れた。アズミラの方に顔を向けたが、視線は彼女から外れている。

「遠く異国からいらした方ね。どちらからいらしたのかしら、当ててみるわ」

 しかしその声は、夏の木陰に吹き抜けていく風のような涼やかさであった。


 アズミラは答えた。

「では、私もあなたの母国の名を当てても?」

「もちろん」


 小首をかしげてみせた後に、さらりと月光色の髪を揺らして真向いの姫君は言った。

「カテフ王国の第二王女、アズミラ・カテフ王女殿下?」

 名を言い当てられて、口元に好意的な笑みを浮かべながらアズミラもまた言った。

「そちらはマールサール王国の第一王女、ネイラ・マールサール殿下でいらっしゃいますね?」


 どちらともなく、きゃあ、と歓声が上がった。

「どうしてお分かりに? その、ネイラ殿下は月光に愛された身でいらっしゃる」

 月光に愛された身、というのは盲目であることをはばかって言う、雅語の一種である。アズミラの言葉に、ネイラ姫はいたずらっぽく笑った。視線はやはり少しずれているが、それをものともしない賢明さを持っているのは既に明らかだった。


「まず、ここは貴人のための風呂場です。アズミラ殿下はついさっきここで特別念入りにお身体を清めたのでしょう、私が使ったのと同じ石鹸や香油の香りがしますもの。それなら、私と同じでついさっき宮廷に到着した。つまり、あなたの母国も、我がマールサール王国と同じくらいに帝都から離れている。この時点で候補は2国に絞れます」


 ええ、と言ってアズミラは身を乗り出す。その気配を感じたのか、ネイラはくすりと笑う。

「そして先ほど湯殿に向かう途中の廊下でポーム卿という方に会いました。卿の衣類と、脱衣所で待機しておられた女官の方々の衣類から、僅かですが茶葉の香りがしました。茶葉で衣類に香り付けをするような豪勢が出来るのは、茶の一大生産地であるカテフ王国くらいのものでしょう。さらに、帝国に参ずる者の条件に合うカテフ王族の方は、二人の王女殿下のみのはずです。前回トサーク王家の姫が斬首されたことを考えても、次期女王を二度も五貴集人質として帝国に旅立たせることは避けるでしょう。そうすると残りはあなた、カテフの王太姫殿下の妹君、第二王女アズミラ殿下しかありません」


「お見事!」

 アズミラは声を弾ませた。

「その通り、改めましてわたくし、アズミラ・カテフと申します。父はカテフ国王、母はその王妃、王太姫アンフ殿下を姉とする身です。どうぞよろしくお願いいたします、ネイラ殿下」


「こちらこそ。それで、アズミラ殿下はどうして私がヌールスールのネイラとお分かりに?」

「その金の輪の耳飾りに下がっている宝石はラピスラズリのように思われます。ヌールスール特産の宝石で、ヌールスールの国章にも使われる翼をかたどった耳飾りを、この大陸盟主のジャムス宮廷で身に着ける意味を思えば、母国の特定は難しいことではないかと。また、ヌールスール王家の中に、五貴集の条件を満たした方というと、ネイラ殿下しかおられません。兄君と弟君がおいでとのことですが、兄上様は確か半年ほど前にご結婚なさったばかり。弟君もまだ幼い12歳。どちらも五貴集の条件に背きます」


 アズミラはそのように一通り説明してからコホンと咳払いして苦笑した。

「などともっともらしいことを申しましたが、その実、ポーム卿より今回私以外にどのような方が五貴集になったのか先に聞き及んでおりました。その、失礼ながら、殿下のお目のことも」


 ネイラ姫はまあ、と嬉しそうに笑って、アズミラの腕のあたりに触れるとそのまま指を滑らせて手を見つけ出すとぎゅっと握った。彼女の視界には、うすぼんやりとではあるが、影と光が靄のように見えている。


「お気になさらないで。この目のことで不快にさせたらごめんなさいね、どうも視線がいつもおかしなところを向いているみたい。私のことはどうぞネイラと呼んでくださいな、アズミラ殿下」

「では、私のこともアズミラ、と。もっと気楽に喋っていただいて構いませんよ」


 二国の姫君は互いの両手を握り合い、挨拶もそこそこにネイラ姫が言った。

「それはそうと、聞き及んでいて? 皇帝陛下は、魔獣を沈める儀式のために我々五貴集を女神の御座に礼拝に向かわせるおつもりとか」

 はい、とアズミラが返事したところで、傍にいた女官がそろそろ、と彼女に耳打ちした。


「失礼、また後ほどお話ししましょう! ではお先に」

 いつものクセで手を振ってから、思い直してネイラ姫の手をもう一度軽く握ってアズミラは浴室を出た。


 風呂から上がると、付き添いの女官たちは王女に友人が出来たらしいことに喜びながら、彼女に化粧を施し、そのまま服を着せていく。


 上半身には螺鈿細工のボタンを取り付けた白い絹の薄手の開襟かいきんシャツ。下半身には白い薄手の絹地を3重にしたスカート。その上に薄紅色の絹地でできた長いガウンを羽織る。ガウンの上から大きなエメラルドを飾った暗色の革ベルトを巻く。髪をまとめ、エメラルドの髪飾りをつけ、揃いの耳飾りと首飾りを身に着け、ガウンと同色の繻子の靴を履いた。


 最後にアズミラは自らの指先に紅を取ってくちびるにぬりつける。

 くちびるは創世神話において、女神が祝福と言葉を授けるのに使った器官であり、同時にそれを受け取る器官でもあった。そのためこの大陸において、くちびるは人体の中でも極めて強く神秘を秘する部位とされる。そこから発せられるもの、つまり声と発声された言葉は当然重要視されるし、音楽の中では歌が最も尊ばれ愛されるし、儀礼的な意味合いから魔法の使用において詠唱は必須とされる。


 くちびるに色や薬油を塗ることもまた、女神の加護を賜るためのささやかなまじないとして、化粧の中では特別意味深い行為であった。

 紅を引いた顔で、鏡に向かってアズミラは笑みを浮かべて見せる。いかにもはつらつとした生来の彼女の顔貌は、化粧を施すと、勇壮で勝気な笑みがより似合った。


 ポーム卿に導かれて王女アズミラは回廊を練り歩き、棟を移動し、女官たちを従えて玉座の間へと向かう。赤いカーペットの敷かれた廊下や、優雅なアーチを描いて天井を支える象牙色の柱を、唐草模様や星模様の飾り窓から降り注ぐ夕日が染め上げている。窓からは帝都ジェムスィーナの街が一望できる。その景色を眺めながら、さすがのアズミラも心臓を高鳴らせていた。


 実質的にこの大陸を統べるジェムス帝国、その頂点に君臨する男、生きた大陸の中心とも言うべきジェムス帝国皇帝に謁見するのだ。腹のあたりで組んだ両手に力がこもる。


「大丈夫です」

 ポーム卿はポンと姫君の背を叩いた。本来なら不敬な行為だったが、姫君本人も、女官たちも、決してそれを咎めない。


「殿下、あなたはあなたらしく、いつものようになさればよいのです。背筋を伸ばして、前を向いて。陛下が思いもよらないことを仰せになると思いますが、大丈夫です」

 普段ならポームの言葉を追究していたはずだが、今ばかりは王女アズミラも緊張が勝っているようで、深呼吸をして己を落ち着かせることを優先した。再び無言で勝気な笑みを浮かべると首を縦に振り、組んでいた手をほどいて身体の横に落とす。胸を張って前を向くと、玉座の間の扉が開いた。


 何もかもが広大な宮廷では、玉座の間も巨大であった。その巨大な空間いっぱいに、毛足の長い赤いカーペットが敷かれている。壁一面に窓がしつらえられており、今はそこに薄い布を下ろして日よけとしている。整然と並んだ象牙色の大理石の柱からは、色ガラスのランプが吊り下がっている。そして部屋の一番奥まったところは二段ほど高くなっており、そこに無人の黄金の椅子が二つ置かれている。王冠の意匠で飾られたそこがまさに大陸盟主ジェムス皇帝の玉座である。


 扉の傍に立っていた役人が、貴人の到来を告げた。

「カテフ・ジェムス王国第二王女、アズミラ・カテフ王女殿下!」


 再びポーム卿に背を押され、アズミラは玉座の間に足を踏み入れる。赤いカーペットの上を肩で風を切るように王女が歩くと、薄紅色のガウンの袷から白い絹地がたなびいた。玉座の間に集っていた宮廷人たちがほう、と声を上げたが、その響きには様々な意味が含まれている。


「あれが捨て子姫、嘆かわしいことだ、王家の血を継がぬ者が王家を名乗るなど」

「滅多なことをいうもんじゃない、皇帝陛下もお認めになっているんだぞ」

「あれがあのアンフ王太姫殿下の妹君か。顔立ちは似ておらんが、堂々とした姿が姉君に似ておいでだ」

「聞いた? さっき、アズミラ王女殿下はご自身の列を遮った騎士をお許しになるどころか立ち上がるのにお手をおかしになったとか」

「英雄列伝にも明るくておいでだそうだ」

「見て、あの薄紅色のガウン。白い糸で刺繍がされているのね、綺麗だわ。フチの金糸の刺繍も見事だわ」

「白い絹地も、緑の宝石飾りも見事だな」


 アズミラ王女の後ろに宮廷人ポーム卿が続き、さらにその後ろに女官たちが並び、最後に皇帝への贈り物の箱が続く。カテフ産の茶葉がみっしり詰まった箱がその目玉だ。


 小間使いに誘導され、アズミラはカーペットの海に浮かぶクッションの小島に腰を下ろした。


 再び来客を告げる声がした。

「ヌールスール・ジェムス王国第一王女、ネイラ・ヌールスール殿下!」

 ほう、と今度は純粋に感心したような声があたりに満ちた。


 ネイラ王女は月光色の髪に黄金とラピスラズリを飾り、ラピスラズリで染め上げたような鮮やかな濃紺のドレスを身にまとっている。女官に手を引かれて裾を踏まないようにゆっくりと足を動かせば、夜空を流れる雲のようにその下の薄紫の絹地がそよいだ。


「ネイラ殿下は月に愛された御身でおいでだったな。だが、賢明でおいでと聞く」

「5代前の女賢帝は沈黙の価値を知る方だった。そういった身体の要素は、決してその方の本質にある良さを損なうものでないこと、我々帝国人が良く知るところだ」


 ジェムス宮廷人たちは囁き合いながら、盲目の王女をしみじみと眺めた。彼女の目元には、群青色の薄いヴェールが垂れ下がって彼女の視線を隠している。耳の上のあたりで髪飾りと一体になったその薄い布地は、鼻頭を覆うか否かという長さで、静かな月夜のような姫君の佇まいに、深い神秘を添えている。


 ネイラ王女がクッションの小山に腰を下ろすと、それで五貴集ごきしゅうである、5王国の姫君と帝国の皇女、全員が揃った。姫君たちは視線だけでチラリと互いの左右を見やる。アズミラもまたそれとなく視線を動かして初邂逅を終わらせようかと思ったが、そうはいかなかった。


 優美な少女の声が、意地悪く響いた。

「陛下にお招きにあずかった身でありながら到着が遅れるだなんて、やはり田舎者は礼儀がなっていないわね。……ええと、どちらがヌールスールでカテフか忘れたけれど、遅れたうえに大陸盟主たるジェムス帝国皇女であるわたくしに挨拶もなし? 自分の立場が分かっているのかしら?」


 アズミラが何か反応するよりも前に、その場にいた宮廷人たちが息をのんだ。一列に並んだ他の王女たちも動揺を表している。


「挨拶なさい、あなた。それとも田舎者は挨拶の仕方も知らないのかしら?」

 淡い茶色の髪を揺らしながら、ジェムス帝国皇女が立ち上がった。第三皇女内親王ティチェである。長く伸ばした癖のある髪に花を模した真珠の髪飾りを挿し、真珠の縫い付けられた緋色のドレスを纏っている。年齢よりも大人びた顔立ちは、ハッとする美しさがある。


 皇女は遅れて参上した二国の姫を見比べて、ネイラ姫の方に目を向けた。

「あなた、聞いてるの? そう、そこの青いドレスのあなたよ。表情が分かりづらいったらありゃしないわ」

 言われて、盲目の王女が首をかしげて見せた。


「はて、私は月に愛された身ですゆえ、昼の明るさを知りませぬ。昼の世界において青と呼ばれる色が一体どのようなものであるのか私には分かりませぬので、なんとお答えしたものか」


 意地の悪い返答に、こらえきれずアズミラが笑った。これはおそらく、それなりに不敬な反応だった。実際、ティチェ内親王はこのまま盲目の姫君の相手をしていては分が悪いと察したらしく、すぐにこの赤茶の髪をした王女の方に矛先を向けた。


「なるほど、太陽の光を知らぬ者にその明るさを解いても無駄というもの。ではあなた、そう、そこの薄紅のガウンのあなた。こちらの王女の分も含めて挨拶なさい、私に」


 抑えきれなかった苛立ちと恥辱を僅かに滲ませた内親王に言われ、衣擦れの音だけを伴って、カテフ・ジェムス王国第二王女アズミラ姫もまた立ち上がった。周囲は再び息をのんだが、彼女は背後の者たちはホッと息を吐いた。自分が仕える者が軽んじられるのは耐えがたいことであった。


「お言葉ですがティチェ内親王殿下。五行帰貴ごこうききで集う五貴集ごきしゅうはジェムス皇帝陛下と皇妃殿下の客であって、内親王殿下の客ではありません。失礼ながら、殿下こそご自分のお立場をお間違いになっているのでは? 皇帝陛下のご下命によって我々五貴集と同列に遇されている殿下が、その五貴集に命令を下す権利がおありとお思いで?」


 カテフ王国の王女の堂々とした声が落ち着いた口調で言い返すと、帝国皇女が目を見開いた。宮廷人たちは、物おじしないアズミラの言葉にいっそ顔を青くした。ティチェ姫の気性とアズミラ姫の傲慢にも聞こえる物言いを考えればその反応も当然であった。


 顔を赤くした第三皇女が鋭い声でアズミラを非難した。

「ここはわたくしの宮廷よ? これからこの宮廷に住むのならわたくしに挨拶をするのが人として当然のことではないかしら?」


「なるほど、たしかに一理あります。ですが、ここ宮廷はあなたの宮廷ではなく、皇帝陛下と皇妃殿下の宮廷でしょう。ましてや、宮廷とは政治の場。官職を持つ身なら“己が宮廷”かもしれませんが、そうでない殿下が己の宮廷だと主張するのはいささか不敬と存じますが」


 アズミラ王女の舌鋒の鋭さに、宮廷人たちは呆れ焦りながらも、胸をなでおろした。実際皇帝及び皇妃のものとなっている宮廷に対して「私の宮廷」という言い方は、いかに皇女と言えど発言であった。どこかで誰かが咎めなくてはいけないのだが、帝室と王室の者同士の会話に口をはさむのはこの場にいる宮廷人たちには難しかった。


 ティチェ皇女は立ち尽くしてぐっと黙り込んだ。僅かな沈黙の後に、アズミラはにこりと笑う。

「とはいえ、私も内親王殿下と同じく、王女である以外は無官の身。これからの5年間、殿下と無官の身同士、五貴集のよしみで親しくしていければ大変光栄に存じます」


 アズミラ王女はこれ以上喋ることは無いとばかりにクッションの小山に腰を下ろした。背後で緊張が解けたような気配がして、彼女は少し笑う。宮廷人たちは軽く目を見はって、カテフ・ジェムス王国の姫君を見つめた。それらの気配全てを鋭敏に感じ取って、盲目のネイラ姫はわずかにうつむいてヴェールの下でくちびるに弧を描いた。


 タイミングを見計らったように声が響いた。

「宰相及び大臣がた、将軍がた、ご到着!」


 扉が開き、立派な礼服をまとった者が列をなして現れた。このジェムス帝国宮廷にあって皇帝の職務を支える有能な官吏たちで、俗に上級官僚と呼ばれる者たちである。国王の右腕となる宰相を筆頭に、各部局の大臣たち、宮廷侍従長、女官長、文書館長、巡視局長、国軍総大将などがずらりと並んで五貴集の姫君たちの後ろに座した。


 最後に、ひときわ声を高くして、その名が呼ばれた。

「ジェムス帝国皇帝ハサバ陛下、及びシェナ皇妃殿下、ご到着!」

 その場の全員が立ち上がった。沈黙の中、玉座のそばの扉が開いて、侍従に導かれるようにして巨漢と小柄な女性が現れた。その瞬間、玉座の間には異様な緊張がみなぎった。


 頭に冠を頂いて現れた巨漢こそ、現ジェムス帝国皇帝、ハサバ・ジェムスである。質実剛健を旨とする巨躯の皇帝は、その見た目の通りの膂力を誇る武人であり、それと同時に、ジェムス連邦の中央集権体制を巧みに維持する優秀な政治家でもある。四角い顔には黒く短いひげが生えており、黒髪を長く伸ばして後ろで一つにくくっている。活力をみなぎらせた瞳は鋭く、三白眼気味であることや体格も相まって、気の弱いものは視線を向けられただけで気絶したという逸話があるほどの迫力がある。来年には60歳を迎えるが、王太子時代からその活動は衰えることを知らない。


 皇帝が玉座につくと、その隣に小柄な貴婦人が腰かけた。皇帝と揃いの服を着た皇妃シェナである。凄まじい美人ではないが、上品な落ち着いた雰囲気で、眼差しからは知性や冷静さが伺える。帝国貴族の末席も末席の出身であるが、価値観や帝国政治の指針が合ったことをきっかけに、当時皇太子であったハサバ王子との大恋愛が始まり、幾多の苦難を超えて皇妃の座を射止めた。私生活では大変な愛妻家と噂されるハサバ皇帝にとって公私共に欠かせぬ存在である。


 玉座の間は緊張した空気のまま、収集された姫君たちの名乗りから今回の謁見が始まった。通常は身分の低いものが先に名乗り、挨拶するのが習わしであった。型通りの挨拶を受けた皇帝は、

がジェムス皇帝ハサバである」

 と名乗っただけで、勿体もつけずに本題に入った。


「普段であれば五貴集ら一人一人に声をかけるところであるが、事態は急速に変化している。先ほど、我が皇妃と大臣らとの緊急会議にかけ、余はひとつの決定を下した」


 重々しい声はズンと人々の腹に響いた。

「余は、余が先だって出した、五貴集の姫たちを巫女として、女神の御座に向かわせる命令を撤回する。さらに、余はここに新たな命令を布告する」

 女神の御座への命懸けの礼拝の旅をしなくて良い、という事実に王女たちは僅かに緊張をほどいたが、それはぬか喜びに終わった。


「余は、余の帝国が管理する神剣『女神の骨』の操者そうしゃを、この場に集った五貴集の姫たちのうちの一人に見出し、神盾しんじゅん『女神の皮膚』の操者そうしゃと共に女神の御座へと旅立ち、そこに集う魔獣の撃滅と、当該の遺跡で女神の加護を賜るための礼拝を執り行うことを命ずる」


 王女たちはそれぞれ無言のうちに戸惑いを示した。女神の御座での儀式、そこに魔獣の撃滅が付け加えられたのだ。


 しかし何よりも彼女たちを困惑させたのは、創世神話に語られ今なお現存する神話の遺物、『女神の骨』と『女神の皮膚』の使用者、すなわち「操者そうしゃ」を選ぶという点だ。いったい何百年ぶりのことであるか。


 さしものアズミラも動揺せずにはいられなかったが、ポーム卿に「大丈夫」と言われたことを思い出し、深呼吸をして玉座を見つめて皇帝の言葉を待った。


「この春より大陸各地で魔獣たちが群れをなし、今まで見られなかった統率の取れた動きを取り、村や田畑、街を襲っているのは誰もが知るところであろう。特に今月に入ってから、各地の巡視官より、レビト大渓谷の大橋、カロン大灯台、バッソ長壁、ポン河水門といった国家のインフラに関わる施設が魔獣の大群によって破壊されたという報告が舞い込んでいる」

 官吏たちは重々しい顔で頷いている。どうやら宮廷内が忙しないのはこういう事情からだったらしい。


 話し手は、ジェムス帝国宰相に切り替わった。皇帝の強面とは打って変わって、宰相は虫も殺さぬような顔の、皇帝より10ほど年上の男であるが、その皇帝をして「あれの隣にいると己の甘さをかみしめる」と言わしめた智者である。


「破壊されたこれらの各施設は、人命を守るだけでなく、通商・軍事を支えるためにジェムス大陸に張り巡らされた駅伝性を支えるための施設でもあります。つまり、これらの破壊は、ジェムス帝国のみならず、大陸全体に物理的・経済的損害を与える。その被害をここで抑えるため、神剣の操者を選び、神盾と共に女神の御座へ向かい、魔獣の撃滅し、魔獣を封じ込め人間に加護を下さるよう女神に願い奉ることを目的とします」


 宰相に代わって、巡視局長を名乗る20代後半の女性が立ち上がった。巡視官とは、帝国各地、場合によっては大陸の各地に赴き、その土地土地の様子を見て回り、国王に報告する任を負った者たちである。その長、巡視局長はジェムス皇帝の第一皇女で、つまり、ティチェ内親王の姉である。


「先日届いた巡視官たちの報告により、水門や灯台といった各地の施設を破壊した魔獣の大群がその後、女神の御座へと向かい、そこで休息を取っていることが発覚した。奴らは群れを作り、ボスに率いられているが、裏を返せば、ボスを叩けば魔獣たちの動きはおとなしくなるということだ。そのために、奴らを休息地である女神の御座で待ち伏せし、神剣と神盾でもって、これを撃滅する。以上が陛下に新たに出されたご命令の意図となります」


 続いて、大神官を名乗る初老の男性が説明を付け加えた。神官とは、創世の女神とその騎士を祀る職務である。各地にいくつかある神殿の中でも、この帝都ジェムシーナにある大神殿は、創世の女神と騎士から託された神剣『女神の盾』と神盾『女神の皮膚』を管理する場所であり、この神殿の長にして全ての神官たちの長が大神官である。


 大神官は白く長いあごひげを動かして厳かに言った。

「『女神の骨』と『女神の皮膚』はそれぞれ、魔法剣・魔法盾の一種であるが、通常のそれと違って、誰にでも扱えるものではない。ある程度の魔法の技量と、操者そうしゃ同士の相性の良さを求められ、その上で王族であることがと言われておる。充分に魔法の扱いを学んでおられる王族ならば、神剣の操者としての適性も高くておいでのはずだ。それ故、ここにおられる五貴集の王女殿下の中から、神剣『女神の骨』の操者を選ぶのです」


 突如として、大陸盟主の権威を支える神剣の操者候補となったことに、王女たちは何を言えば良いのか分からずあぜんとしている。

「お、お父様!」

 耐え切れないといった様子で、ジェムス帝国第三皇女ティチェが立ち上がった。巡視局長が「陛下とお呼びしなさい」と咎める声を無視して、緋色のスカートのすそに縫い付けられた真珠をきらめかせながら父王に訴える。 


「お父様、お父様はこのティチェにも女神の御座への旅をせよと仰るのですか? 元より人の身の丈の十倍もあるような魔獣が居座る女神の御座に、ほうぼうから集まる魔獣を倒しに?」


「お前が『女神の骨』の操者になれば、の話だ」

 皇帝は淡々と答えた。


「失礼ながら、陛下。ひとつお聞きしたいことが」

 涼やかな声が響いて、誰もがそちらに注目した。発言者は群青色のヴェール越しに皇帝を見つめて、手を挙げている。

「ヌールスールのネイラ姫か。良い、発言を許可する」


「では許可を得て発言いたします。我々五貴集から神剣『女神の骨』の操者を一人選び、神盾『女神の皮膚』の操者と共に女神の御座へ旅立つ。これは理解いたしました。では、神剣の片割れとも言うべき神盾『女神の皮膚』の操者は、どちらに?」


 皇帝は僅かに笑ったようだった。

「では紹介しようか。神盾『女神の皮膚』の操者を」


 玉座の間の扉が開く音がして、官吏が来訪者の名を告げた。

「ジェムス帝国騎士、ハルシャーフ卿!」

 人々からどよめきの波が起こった。


 そこに立っている若い騎士が、白銀の甲冑を身に着け、同じく白銀の巨大な盾を左手に持って立っていたからだ。


 しかし、若い騎士が癖のある金髪を揺らし、甲冑を慣らしながらすみれ色の瞳で玉座を見据えて歩き出すと、ざわめきは凪いだ。その代わり、人々の口からはほぅ、とため息がこぼれた。


 甲冑姿の騎士があまりに凛々しく、麗しかったからだ。五貴集として皇帝の御前に集まった姫君たちも例外ではない。


 ただ二人、盲目のネイラ姫と、カテフ王女アズミラ姫を除いては。


 アズミラはあぜんと神盾の操者を見つめている。まさか、10年前に声を上げて泣いていた少年が、中庭で猫にじゃれつかれて派手にこけた青年が、そんな大層な立場だとは思わなかったのだ。


 甲冑を着こんだ青年騎士ハルシャーフ卿は、宰相ら大臣たちのそばで一度立ち止まり、皇帝と皇妃に請われて玉座のそばにクッションを置いてそこに座した。ピカピカと光放つような巨大な白銀の盾を自身のそばに寝そべらせる。その仕草すら、人々の目を奪った。


 若い騎士は6国の姫君を前にして、頭を下げて名乗りを上げた。

「騎士、ハルシャーフと申します。非才浅学、若輩の身ではありますが、恐れ多くも神盾『女神の皮膚』を預かっております。神盾の誓いに基づき、対となる神剣『女神の骨』の操者のそばにはべり、守ることが我が役目。なにとぞよろしくお願い申し上げます」


 大神官が改めてハルシャーフの盾を示した。

「この大盾こそ、伝説に曰く女神の皮膚を鍛えて出来上がった神盾『女神の皮膚』。ここにお集まりの五貴集の王女殿下の中から、この盾と対を成す『女神の骨』の操者を一人選び、女神の御座へ共に旅立っていただきます」


 そこで、それまでずっと黙っていた皇妃がようやく口を開いた。

「もちろん我々とて、無理強いはしたくありません。まず、我こそはと思うものに名乗りを上げていただきます。そして、この魔獣討伐が成功した暁には陛下から褒章を賜ることができます」


 皇妃は穏やかな声で言ったが、あいにくこの場において操者候補の王女たちは褒章と聞いて喜ぶようなことはしなかった。アズミラ姫とネイラ姫はそれぞれが脳内で思索の網目を広げ、他の3人の姫君はハルシャーフ卿の美貌に魅入っていたからだ。


(なるほど、帝国の大陸盟主としての正統性を担保しているのは、経済力や軍事力の前に、まず何よりも神剣と神盾を管理しているという事実。だけど、神剣と神盾の操者が他国にいるのでは、これらの管理者であるという優位性は半減する。操者が母国にそれらを持ち逃げして、大陸盟主を名乗りはじめる可能性があるからだ)


 アズミラは『女神の皮膚』をそばに置いた帝国騎士をじっと見つめる。ふと目が合うと、騎士の方は己に許しを与えた王女にかすかに笑いかけ、ほんのわずかに頭を下げた。王女はそれに微笑み返しながら、なるほど、と納得する。


(持ち逃げを避けるためにも、帝国としては、操者がいつでも自国にいる方が良い。多分、帝国はずっと操者になる者を探していたはずだ。そして見つかったのが彼、ハルシャーフ卿……。神盾の操者ゆえに皇帝の賓客という扱いで、10年前に宮廷に向かう道すがら、カテフ城を旅の宿と定めた)


 つじつまが合う、とアズミラが据わった目で皇帝と大神官を見た時、くい、とネイラ姫が彼女の腕を引き、その耳を夜風のようにくすぐった。

「アズミラ、何を考えているの?」


 玉座の方では国王が、神剣の操者を決めるのは明日にすると言っている。


「この五行帰貴ごこうききも、神剣と神盾の操者になる可能性がある者たちをなるべく帝国の手元に置いておく、という意図があったのだな、というところまで考えました」


 アズミラの答えに、聡明なネイラ姫は微笑をひらめかせた。そこに内親王ティチェの声がして、2人はそろってそちらに顔を向けた。


「大神官、質問よ。さっき、操者同士には相性の良さを求められると言っていたけれど、相性の良さとは具体的に何なの? 親しくなれば良いということ?」

 内親王殿下ティチェの声は、アズミラと舌戦を交わした時に比べるとやや上擦っている。熱心に神官に答えをせがむ様子をアズミラは面白そうに見守っている。


「内親王殿下、ことはそう単純ではありません。過去には、お互いを嫌い合い、時に殺し合いさえしていた二人が最高の神剣と神盾の操者として記録されています。もちろん、これらの武器は元が女神の身体、つまり同じ一つのものとして引かれあう性質を持っているため、操者そうしゃ同士の仲が良いに越したことは無いようですが……」


 大神官の答えをどれほど熱心に聞いているのか、ティチェ内親王は化粧でも夕日でもないものに頬をほんのりと染めて金髪の青年騎士を見つめている。だが神盾『女神の皮膚』の操者たる騎士ハルシャーフ卿は涼しい顔をして沈黙を貫いていた。


***


 何はともあれ神剣の操者を決めるのは明日以降、と改めて明言されたところで、その場は一時解散となった。


 5人の姫君たちは宮廷の女官に一斉に案内されて長い廊下を歩いた。その後ろには、それぞれの王女の世話係も一段となって続いている。

 五貴集の間にはぎこちなさが漂っていた。ハサバ皇帝から話を聞く前のティチェ内親王とアズミラ王女の舌戦を見ていれば他国の王女たちが戸惑うのも当然であった。


 しかし、ネイラ姫は別で、アズミラのそばに来ると神盾『女神の皮膚』の操者について、彼女の耳元で尋ねた。

「ハルシャーフ卿はどんな方なのかしら?」

「どう、とは?」

「あの方が玉座の間に入ってきた時、皆とても感心していたようだから気になって」


 それでネイラの意図を理解して、アズミラは少しの間考えた。金髪紫目の青年騎士の美貌を盲目の姫君にどう表現するべきか少し迷ってから、アズミラは囁くように問いかけた。

「……ネイラは彼の声を覚えている?」

「私、見えない代わりに耳や鼻は良いの。涼やかで、堂々として、でも優しい声だったわ」

「その、お聞きになった彼の声そのもの」


 ネイラは「まあ!」とはしゃいだような声を上げてから、またもやアズミラの耳元でくすくすと笑った。

「内親王殿下が一目ぼれしたのもそういうことね」

「……あなたは本当によく見えておいでだ」


 アズミラが呆れたように笑う様を見て、宮廷人たちは、とりあえず内親王含めて6人いる姫君のうち2人が友好関係を結びつつあることに安心したようだった。かつて五貴集同士の仲が悪くそれはもう大変だったことがある、とは五行帰貴のシーズンに必ず一度は宮廷人たちの口に上る話である。


 そうこうするうちに、彼女たちは宴の場となる広間に通された。

 広間には明るい色の花柄のカーペットが敷かれており、低いテーブルが整然と並んでいる。一番のひときわ豪華なクッションは皇帝と皇妃のものだろう。その近くに置かれたクッションの山に姫君たちが案内されると、それに続いてポーム卿ら世話係と上級官僚たちもそれぞれ用意されたクッションに腰を下ろし、最後に皇帝と皇妃が現れた。


 宴の参加者たちが席に着くと、すかさず料理が運ばれた。美しい絵付けのされた大皿や銀の盆、木目の美しい深皿に、色とりどりの料理が盛り付けられている。鳥や豚、魚を丸々使った焼き物。温かい野菜の料理。肉や、魚のすり身団子の串焼き。魚介を煮詰めたスープ。米と肉と野菜の炒め物。香ばしくふんわりとしたパン。肉の詰め物をしたパイ。野菜のスープに浸かった麺。そして多種多様な酒とジュースと、瑞々しい旬の果物。山のもの、海のもの、河のもの、地のもの、空のもの。大陸全ての豊穣が料理となってこの場に集ったかのようである。


 グラスが配られ、そこに各々飲み物がそそがれると、乾杯の音頭を皇帝が取った。

「五貴集の姫君らと、五王国、ジェムス連邦に栄えあれ!」

 わぁっと歓声が起こり、宴が始まった。


 あたりは既に日が暮れているが、広間の天井から釣り下がる沢山の色ガラスのランプが宴を暖かく照らしている。夏の終わりとはいえ、まだ暑さが尾を引く時節である。外から吹き込む夜風の心地よさを堪能しながら人々は冷えた酒やジュースでのどを潤し、宮廷の威信をかけた美食に舌鼓を打つ。


 もっとも盛り上がりを見せたのは、五貴集たちの世話役を申し付けられた者たちを中心にした卓だった。ポーム卿らは部下たちや、上級官僚らも交え、それぞれ互いに、帝国を出て各国に到着するまでの往路とそこから帝国に戻る復路がどのようであったかを話して聞かせている。ひとまず姫君らのお守りの最初の難関を終えた解放感を満喫しているのだ。


 一方で、その姫君たちはといえば、この宴の主役であるにもかかわらず「和気あいあい」だとか「活況」だとかいう言葉からは程遠いところにあった。この卓には6人の姫君、皇帝ハサバ、そして神盾『女神の皮膚』の操者ハルシャーフ卿の8人が集っていた。盛り上がりも散発的なもので、ティチェ内親王が隣に座った青年騎士に自分の好物を食べさせようとしたり、アズミラがネイラに何かしゃべりかけたりと、その程度である。


 ただ、この場において最年長であり、彼女らを招いた者として、生真面目な皇帝は己の職務を果たそうとして、自然な流れを装ってアズミラに声をかけた。実際には、とってつけたような感がぬぐえないのだが。

「アズミラ王女よ、そなたの姉姫には悪いことをしたな」


 言われて、さっきからずっと魚介料理ばかり食べているアズミラは口をもごもごさせながら顔を上げた。統治者としておそらく後世においても長く称えられるであろうハサバ帝は、私生活においては奇妙に不器用なところがあった。


 姫君は大陸盟主に対して礼を欠くことが無いように、まずは貝の酒蒸しを飲み下すことに専念した。そして白ワインを一口飲んでから、気まずい沈黙を破るようにして冴えない返事をした。

「我が姉アンフが、なにか?」

「そなたの姉の婚約者を、何も考えず、適任だからと言って地方勤めに出してしまった。本来ならばもうとっくに結婚していただろうに」

 この時、ハサバ帝の巨体が僅かに縮んだように見えた。アズミラは女王の風格を備えた自国の王太姫のことを思い出しながら明るい声で大陸盟主を励ました。


「ハサバ陛下がお心を煩わせるようなことはございません。我が姉であれば、将来の王配がその能力を認められて仕事を任されたこと、そしてそれをきちんとやり遂げたことを誇りにするはずです。妹の私が言うのもおこがましいですが、我が国の王太姫はそう考えるはずです」


「そうか。……アズミラ姫よ、美味いか、その貝の酒蒸しは」

 やや戸惑ったように皇帝は貝の種類を教えてやりながら、山岳国出身者に問うた。

「とても! 我が国は海に縁がありませんから、貝と言えば、私は以前姉から貰った貝殻や絵図面で知るばかりで」


 その言葉に、ティチェ内親王以外の同卓者たちが微笑んだ。これをきっかけに、卓の緊張は一気にほどけた。盛り上がる、とまではいわないが、和やかな雰囲気でそれぞれお国自慢や故郷の古い伝承について話した。どの話も興味がなさそうにしていたジェムス帝国の第三皇女は、創世神話の騎士の話のときだけ熱心に耳を傾けていた。


 そうこうするうちに、別卓の上司や友人、恩人や同僚に挨拶をして周り、次第に酔いを醒ましに中庭に出る者が現れる。アズミラもグラス片手にポーム卿とその同僚らに礼と挨拶をし、巡視局長に駅伝制の話と道すがらで見た壊れた橋と砦について話したあと、大神官とその弟子たちの卓に顔を出す。創世の女神の肉や臓器はどこにあるのか、とひとしきり議論してから、ワイン壺を携えた彼女は中庭に出た。中央に噴水を置き、背の高い緑が生い茂り、色とりどりの花が咲く様は、ジェムス帝国の造園技術の高さを表している。


 ふと、緑の向こう側からあたりをはばるような声が聞こえた。

「見たか? カテフの捨て子のお姫様が巡視局長に挨拶していたのを」

「巡視局はスパイのようなものでもある。それに挨拶など媚びを売るつもりか?」

「あの捨て子姫、ハサバ陛下とも随分打ち解けておったしな」

「陛下も大神官殿も、あのハルシャーフとかいう身元の分からんガキを連れてきて神盾の操者にするなど何を考えておられるのやら」


 おやおや、と当人は肩をすくめた。まさか背の高い生け垣を隔ててすぐそばにその捨て子姫がいるなどと彼らも思っていないだろう。ただ、ハルシャーフが悪く言われているのはなんとなく面白くない。さてどうしようか、と思案していると、凛々しく落ち着いた声が飛び込んできた。


「これはアズミラ王女殿下。日が暮れても暑気しょきが引かぬ時分じぶんとはいえ、そろそろ虫の声を楽しめる頃でしたかな?」

 声の主はそのハルシャーフであった。月光に金髪をきらめかせ、すみれ色の目で少年のようにいたずらっぽく笑っている。彼の意図を察し、アズミラも少し声を高めて返事し、自分の座るベンチの横を叩いた。

「何やらこの宮廷にしかおらぬ珍しい虫がいるようだ。その音を楽しむのも貴人のたしなみ、ハルシャーフ卿もこちらにおいでになって聞くとよろしい」

 そこが限界だったらしい。生垣向こうの官吏たちは上司に呼ばれたとか同僚に呼ばれたと言ってその場を足早に立ち去って行った。


 僅かな沈黙の後に、その場に残った二人はその場に座り込んだまま黙って互いの顔を見合わせ、声を上げて笑った。ひとしきり笑った後に、互いの顔をしみじみと見つめた。

「……あなたハルシャーフというのね。約束通り会いに来たわ、立派な大人になれたかはわからないけど」

「ずっとお待ちしておりました、アズミラ様」


 互いに何とかかすれた声で挨拶して、そこでどちらも黙ってしまった。雄弁なはずのアズミラのくちびるも今はうまく言葉を繰り出すことが出来ず、まごついてしまう。それはハルシャーフも同じで、くちびるを閉じたり開いたりを何度も繰り返す。


 結局、再会の挨拶は抱擁に取ってかわられた。あるいは、そうして抱きしめ合う腕の強さと熱は、今彼らが一番伝えたい言葉の輪郭をしていた。


 アズミラの目が涙に滲んだ。

「……待っててくれてありがとう」

「来てくださってありがとうございます。……俺のことなど忘れていると思ったのに」

「忘れるわけない、あなたとの約束があったから私、何を言われてもここまでやってこれたのよ」


 そう言って、潤んだ若葉色の瞳であの日の少年を見つめて微笑み、彼の手を握った。ハルシャーフもまたすみれ色の瞳をとろけさせて彼女の手を握り返した。

「……俺も同じです」


 騎士はささやかな声を震わせてアズミラの手の甲に口付けを贈ると、金髪を夜風に揺らしながらはにかんだ。そして、気恥ずかしさをごまかすように少しだけおどけて見せた。

「官吏たちから聞きました、ティチェ内親王殿下との舌戦で実質完封勝ちだったとか。ポーム卿や彼の同僚も殿下を絶賛しておりました」


「頭ごなしに命令されるのが気に食わなくてついムキに。私の悪癖よ。……それにしても神盾の操者だなんて。血のにじむ努力をしたのでしょう、敬服するわ」

 10年前の少女が微笑むと、あの日の少年のすみれ色の瞳が潤んだ。アズミラの手を丁寧に捧げ持って自身の額に押し抱くと、絞り出すような声で言った。

「今日という日が来ることを支えとし、希望とし、何とかやってまいりました。死にそうな目に合っても、どれだけ辛くても、あなたとの約束がいつも星みたいに光っていた」


「私もよ。あなたに合うのに、恥ずかしくない自分であろうとしてここまで来たわ」

 アズミラの手が、確かめ合うように互いの指を絡め合う。

 10年前のあの日、約束を交わした時と同じように。 


 いつまでそうしていたか、アズミラは潤む瞳でほほ笑みながら、ワインの入った壺を掲げた。騎士は恐縮してグラスを差し出し、今度は騎士が王女のグラスを酒で満たした。

「騎士ハルシャーフ卿の研鑽に」

「王女アズミラ殿下のご決意に」

 乾杯、と2人が杯を打ち合わせた。無作法だが、再会の喜びはそれくらいがちょうどよかった。杯を傾けながらアズミラが言う。


「私、神剣が許すのならあなたと一緒に女神の御座に行くつもりよ」

「本当ですか!」

 玉座の間では涼しい顔をしていた騎士が頬を薔薇色に輝かせて僅かに身を乗り出した。凄まじい美男の顔が間近に迫り、そこでようやくアズミラは僅かに羞恥を取り戻した。それでも彼女はしっかりした声で言った。


「だって約束でしょう。再会したら一緒に遊んで……冒険をしようって」

「はい、はい、確かにお約束しました。まあ、とはいえ全ては神剣と神盾が決めることなので幸運を祈る以外ないのですが」


 神盾『女神の皮膚』の操者が苦笑すると、アズミラはもう一度彼と杯を合わせた。

「良い結果になるように信じましょう」

 そうして宴の夜は更けていった。

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