前途多難な夫婦生活のはじまり

第30話(第一部・終)

 女性が帰った後、弥生は後片付けを続けていたが、昼過ぎになってようやく疲労困憊の顔をした朧も帰ってきたのだった。


「朝から疲れたな」

「ずっと話していて疲れましたよね。いまお茶を淹れますね」

「ああ。助かる……」


 話しながら居間に入ってきた朧だったが入り口で固まってしまったので、弥生は立ち上がるとそっと振り向く。


「着替えてみました。どうですか?」


 昨晩用意してもらった小花柄の小紋に着替えた弥生は照れ笑いを浮かべる。

 朧を待つ間に隣家の住民という先程の女性から着物の着方を習いながら身に付けた後、練習も兼ねて再度自分で着付けたものだった。


「着物を着たことがあまりなくて、さっきお隣の奥さんに着方を聞いたんです。似合っていればいいんですが……」


 調子に乗ってその場でくるりと回ったからか、腰の薄茶の帯がわずかにずれ落ちたような気がして慌てて押さえる。帯と一緒に白の帯締めと白と茶の帯留めの位置も直すと、肩に掛かる長い髪も背中に払ってしまう。

 着物に似合うように黒髪も背中でハーフアップにまとめただけではなく、女性から借りた化粧品で薄っすらと化粧も施したからか、いつもの自分らしくなくて落ち着かない。それでもこれでようやく朧と釣り合えるような気がして、心はずっと弾んでいた。

 

「着方が分からなかったら無理に着なくても良かったんだ。ただあった方がいいと思って用意しただけで……」

「でも折角用意してくださったんです。着ないのも失礼ですし、何より今後ここで暮らしていくのなら知っていた方がいいかと思って。かくりよは和装が主流のようなので……」


 さっきの結婚の申し出に対する返事をしていなかったことを思い出してはにかみながら答えると、朧は目を開いた後に顔を赤く染める。

 

「そこまで大したものじゃない。母の着物だから多少古臭いかもしれないが……」

「朧さんのお母さんのものだったんですね! 大人っぽいアンティークなデザインがオシャレで、何よりもとても大切に手入れされていたので気に入りました!」


 弥生が褒めれば朧はますます顔に紅葉を散らしてしまう。女性に好かれそうな美麗な顔立ちをしているが、これまで女性と関係を持ってこなかったのかもしれない。

 そんな初心な反応を楽しんでいると、突然朧が弥生の衿に手を伸ばしてくる。心臓が高鳴り、期待する眼差しを向けてしまうが、朧が漏らした嘆息で一気に熱が引いてしまう。


「先に着付けをやり直した方がいいかもしれないな。前合わせが逆だ」

「えっ!? でも右前って言いますよね?」

「ここでいう『前』というのは『先』という意味だ。つまり『右が先』ということだ。右利きなら左が上の方が懐に手を入れやすいだろう」

「言われてみれば、そうですね。上手に着付けた自信があったのに……」

「慣れるまでは俺が着付ける。そのまま外に出られたらこっちが恥ずかしい……。あと、その着方だとすぐに着崩れするから腰紐もしっかり結んだ方がいい。歩き方にも気を付けるんだ。さっきまでのように大股で歩くな」

「は~い……」


 意趣返しなのか肩を落とす弥生を見て笑っていた朧だったが、不意に思い出したのか話し出す。

 

「でも着物姿もよく似合っている。一息ついたら買い物に行こう。最近は現世の影響を受けて西洋の絵柄を取り入れた反物も増えている。いくつか見繕ってもらおう」

「いいんですか?」

「お前の生活用品や食料も買いに行って、役場にも寄って肝心の婚姻届を出しに行かないといけないしな。大変かもしれないが、付き合ってくれるか?」

「勿論です。荷物持ち、任せて下さい!」


 弥生の返事に満足したのか朧は頷くと、目を逸らしながら話し出す。

 

「それから一つ頼みがあるんだ。聞いてくれるか?」

「私に出来ることでしたら」

「背中に怪我を……さっき乱暴に扱われたからか古傷が開いてな。手が届かないから薬を塗ってくれないか? そもそも傷なんて触りたくないし、見たくもないかもしれないが……」

「それくらい大丈夫です! 怪我の具合は大丈夫ですか? すぐに薬をお持ちします!」


 薬棚に向かおうと小走りになると、朧が後を追いかけてくる。

 

「待て! すぐじゃなくていい! 先にお前の着付けを直す!」

「着付けなんて後でも問題ありません。今は朧さんの怪我が大切です!」

「すでに着崩れしているのに何を言っている!」


 朧に言われて立ち止まれば、帯が緩んで肩から着物が下がっていた。慌てて衿を合わせれば、捕まえたというように後ろから朧に抱きしめられる。


「先に着付けを直す。ようやく鬼の力が戻ったんだ。放っておいてもじきに傷口は塞がるが、このままだと化膿するかもしれないからお前に治療を頼みたいだけなんだ」

「すみません。ご迷惑をおかけして……」

「迷惑だったら最初から言わない。着付けや怪我だけじゃなく、結婚もな」


 そうして外から見えない場所に移動すると、朧は弥生の帯に手を掛ける。


「これからよろしくな……弥生」

「よろしくお願いします。朧さん」


 朧は満足そうに笑うと、弥生の帯を解く。そうしてすぐに口を尖らせると烈火のごとく叫んだのだった。


「長襦袢ぐらい着てこい! 現世の下着の上から直接反物を着たら、型崩れするのも当たり前だっ!!」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かくりよに輝くは夢見の月かな~鬼になった人間と力を失った鬼が夫婦になるまで~ 夜霞 @yoruapple123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ