第29話
しばらく呆然としていた弥生だったが、やがて千鳥を始めとする獄卒の騒々しい声で我に返る。
「朧さん、旋風を起こせました! ウサギ穴を作る程度でしたが、力を使えたんです!」
一緒に喜んでくれるだろうと沸き立つ心のまま、弥生は後ろを振り返るが、何故か朧は弥生を見たまま固まっていた。試しに自分の頭を触ると角が出ていたので、それが原因だろうか。
「朧さん……?」
もう一度、名前を呼ぶと、朧はハッとしたように顔を上げるが、涙を堪えるように目を固く瞑る。そうして弥生を抱く手に力を込めて、身体を抱き寄せたかと思うと、肩に顔を埋めたのであった。
「わっ、わたし! 力の使い方を間違えてしまいましたか? それとも生垣に穴を開けたのがダメでしたか……?」
朧が何も言わないので戸惑っていると、弥生を賞賛するように後ろから両手を叩く音が近づいてくる。どこか貼り付けたような陰のある笑みを浮かべた雲雀であった。
「見事な旋風だったな。獄卒を代表して嘆賞を送ろう」
「いえ……」
「今回はこれで手を引くが、今後怪しい動きをしたら、即刻地獄に連行させてもらう」
それだけ言うと、雲雀は脇目も振り返らずに帰って行く。雲雀が統率する獄卒たちも無言で後に続いたが、千鳥だけは両手を振っていた。
「また会おうね〜。鬼のお嬢さん!」
足音も高く獄卒たちはいなくなるが、朧が離してくれる気配は無かった。もう一度振り返ると、弥生は恐る恐る声を掛ける。
「朧さん、まだ怒っていますか……? 私が力の使い方を間違えたから……。あの、すみません……。私……」
「弥生」
ようやく顔を上げた朧に真剣な声色で名前を呼ばれる。そうして気づいた時には、唇を塞がれていた。
長い口付けの後、ようやく朧は離してくれたが、熱を帯びた目と合った瞬間、弥生の胸が大きく高鳴りだす。
こんな朧を見たのは初めてだった。何を言われるのか気になって目を逸らせない。
固唾を呑んで見つめていると、朧はたった一言だけ発したのだった。
「結婚しよう」
理解が及ばなかった弥生は何度か瞬きを繰り返した後、恐々と尋ねる。
「どうしてですか? さっきの獄卒たちが怪しんでいるからですか?」
「それもあるが、お前を知りたくなった。どこか弥彦とそっくりで、でも弥彦とは違うお前が……」
朧が角に触ったのか、くすぐったくて弥生は声を上げてしまう。
「小さな旋風を放ったお前の姿を見ていたら、初めて鬼の力を使った弥彦を思い出した。そうしたら急にお前を帰して、一人になるのが怖くなった……」
「朧さん……」
「お前はもう鬼になったのだろう。それなら弥彦の力は返さなくていい。いや、返さないでくれっ! 風鬼として俺と共に生きて欲しい。これからはどんなあやかしが襲ってきてもお前を守ろう。ここをお前の安住の地として欲しい」
「そ、れは……」
「お前を愛していいだろうか。……弥生」
あやかしから逃げ回っていた弥生がずっと欲しかった言葉。それが朧の口から次々と出てくる。
誰かに受け入れられた喜びに胸が熱くなる。弥生を信じ、愛してくれる人にようやく出会えた歓喜が枯渇していた心を潤してくれる。
――ずっと焦がれていた、心から愛せる人を得られたのだと。
「私……も、朧さんのことが……」
朧は身体を離すと弥生の両肩を掴む。お互いに見つめ合い、朧が身をかがめて顔を近づけた時、弥生の後ろから声を掛けられたのであった。
「お取り込み中にごめんなさい。騒ぎ声と大きな物音が聞こえてきたと思ったら、うちの生垣に穴が開いているのだけど。何かご存知……?」
後ろを見ると白い割烹着姿の年配の女性が申し訳なさそうにしており、その後ろでは見るからに屈強そうな年配の男性が二人を睨み付けていたのであった。
「すみません! これは私が……」
「女房と夫婦喧嘩をしていたら穴を開けてしまった。すまない。修理費用はこちらで負担しよう」
朧がさも当然のように「女房」と言ったので弥生が目を見開いて固まっていると、年配の女性が「まあまあ……!」と顔を赤く染める。
「いつの間にご結婚されていたの? 昨日も騒ぎがあったと思ったら女性が出入りしていたと聞いて、もしかしてと思っていたのよ!」
「昨日は迷惑を掛けた。改めてお詫びを……」
「いいのよ。夫婦喧嘩なんてよくあることだもの! そちらの女性は見かけない顔だけど、ここには住み始めたばかり?」
「は、はい。そうなります……」
まるで近所の世話焼きおばさんのように押しが強い隣家の女性に朧と出会った経緯や喧嘩の原因を聞かれている間、朧は強面の男性と生垣の修理について話しているようだった。
朧の話が長引きそうな様子を見ると、女性は弥生を促して家の中に入る。
「あの人たちは話しが長くなるもの。その間に着替えましょう?」
「着替えですか?」
「お洋服の背中、破れているわよ。喧嘩した時に破れたのかしら?」
言われて後ろを見れば、背中が破れて中に着ている下着がわずかに見えていた。片付けの時に背中から布地が破れる音が聞こえてきたが、あれは洋服が引き裂かれた音だったのかもしれない。
他に着替えが無いので、新しい服を買うまでとりあえずタオルのようなものを身体に巻いておけばいいかと、朧に借りた客間に入ると、後ろから部屋を覗いた女性が「あらっ」と声を漏らす。
「素敵なお着物があるじゃない。これは着ないの?」
今朝方、布団を畳んだ際に朧が用意してくれた小花柄の小紋を上に置いていたが、それが目に入ったのだろう。着物を見つけて女性は訝しそうな顔をしているが、かくりよは着物文化が主流なので、着物があるのに身に付けない弥生を変に思ったのかもしれない。常識知らずのような気がしてきて、急に気恥ずかしさが込み上げてくる。
「それは……その……着方が分からなくて……。あっち……現世では着物なんて着たことがほどんど無かったので……」
「まあ! 現世から来たの!? ご家族は?」
「一人です。家族は現世にいて……」
「それはさぞ辛かったわね。ご家族と離れて、現世から一人で嫁入りされて……。今は現世から流れてくるあやかしが多くて、かくりよに居住を許されるまで時間が掛かったでしょう」
「そうなんですか?」
どうやらあやかしにとっての現世というのは、住みづらく、陰陽師たちによって迫害される場所として認識されているらしい。
女性に聞いたところ、かくりよに移住を希望して現世から渡って来るあやかしは多いものの、希望が多数いることから居住までの許可が出づらく、また身元が不確かな者は強制送還をされることから、人目を避けてようやくかくりよに来ても、現世に戻されるあやかしも多いという。
そんな現世出身のあやかしというのは、相当な苦労を経験して移住を許可された慈悲と憐憫の対象として、下町では庇護するのが暗黙の了解となっているとのことであった。
「すぐに移住が許可されたのなら、きっとご亭主が取り計らってくれたのね。うちの人も元は現世から来たあやかしだけど、ここに来てから結婚するまで苦労の連続だったらしいの。現世とは勝手が違って慣れるまで大変かもしれないけれども、困ったことがあったら力になるわ。なんでも言ってね」
「ありがとうございます。それならお言葉に甘えて、一つ教えていただきたいことがあるんですが――」
そう言って、弥生は小花柄の小紋を取り上げると目の前で広げたのだった。
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