第28話
(覚悟なんて、そんなの……)
転生というものは魂の洗濯だと聞いたことがある。人に転生すれば、これまでの弥生は一掃されて、弥生としての記憶や人格は無くなってしまうが、これまであやかしに狙われた恐怖や誰にも理解されなかった悲しみも消える。新たな肉体と人格を伴った、無垢な命として転生できる。
転生をしたら今度こそ人間として幸せな人生を全う出来るだろう。今度こそ友達や彼氏を作れるかもしれない。
そう分かっていても、ずっと脳裏に浮かんでいるのは、来世への期待ではなく、初めて出会った時から弥生を守ろうとしてくれる優しいあの人の――朧の姿であった。
暴風雨で吹き飛ばされた瓦から庇い、警察から守るように即興で夫婦を演じてくれた。家に連れ帰ってくれて、着物も見繕ってくれた。不可抗力とはいえ、鬼の力を奪った弥生に対して、乱暴や罵倒をしなかった。どこまでも弥生の心を尊重して、傷つかないように守ってくれた。
それだけではなく、弥生を街にも連れ出してくれた。あやかしに命を脅かされる危険を気にすることなく誰かと買い物に行ったのも、誰かと口付けを交わしたのも、食事を共にしたのも、何もかもが初めてで。どこかむず痒くて、心地良かった。そんな時間がいつまでも続けば良いとさえ思った。
これは一時の幸福だと――弥生が鬼でいられる刹那の間だけだと、分かっていたのに。
これまであやかしが原因で得られなかった幸せを最期に享受して満足した。今なら弥生が持っている鬼の力を取り出せるかもしれない。
あの人に――朧に鬼の力を全て返して人に戻ろう。大好きな祖母が待っているかもしれない、新しい世界に旅立つ時が来たのだと思えば、何も怖くない。
(でも……)
心残りがないと言えば嘘になる。今も弥生を助けるため、自ら犠牲になろうとしている朧であった。
弥生が鬼の力を朧に返せば、鬼だと認められて獄卒たちから解放される。ただ、その後は?
弥生がいなくなった後、朧はどうなるのだろう。
誰もいない席に、誰も飲む者がいない猪口を置いて献杯し、傍らで助言をしてくれる者がいない寂しさから目を逸らすために絵筆を折り、全ての感情や表情が抜け落ちた機械のような存在となるつもりだろうか。誰にも話せない孤独と哀傷を抱えたまま、永遠に近いあやかしの時間を、命尽きる、その時まで。
過去に囚われた者はいつか過去と現実の区別がつかなくなり、やがて過去から抜け出せなくなる。現実よりも過去の方が居心地良く、自分にとって優しい世界だから。これまで弥生が祖母との思い出を糧として、その中で生きてきたように、朧も弥彦を過ごした日々を拠り所として埋もれるつもりなのかもしれない。うら寂しそうな背中と悄然とした横顔を抱えて……。
けれども、止まっていた弥生の時間は朧との出会いで動き出した。朧と過ごした日々が、あやかしによって凍り付いた弥生の心を溶かしてくれた。
誰かと同じ日々を共有し、笑い合い、喧嘩をして、そして睦み会う。温かい食事と安心できる居場所を用意する。自分は一人じゃない、大切に想ってくれる人が傍にいると、弥生が思えたように。
自分がいることで、朧もそう思ってくれるのなら。弥生にも朧の時間を動かして、心に開いた穴を埋めてあげられるかもしれない。
朧と長い時間を過ごした弥彦には敵わないだろうが、これからも同じ時間を重ねれば、朧の二番目の理解者になれるだろう。これまであやかしが原因で一人にならざるを得なかった弥生なら、朧の気持ちを理解できる。その孤独や悲しみ、心に負った傷さえも。
家政婦でも助手でも、はたまた居候でもいい。どんな形であったとしても、朧が一人にならないように傍に居られるのなら。
たとえ、今まで苦労したあやかしから狙われる生活が、これから永続的に続くことになったとしても。
心を寄せる朧のためなら、
弥生は大きく息を吸って、目を開ける。もう心は決まっていた。
(私は鬼になります。心優しく、寂し気なあの人の――朧さんの傍にいるために!)
声の主は小さく笑ったようだった。どこか朧に似た笑い方に弥生の胸が熱くなる。
――ありがとう。そして、おめでとう。今日がやよちゃんの鬼としての誕生日だ。おれの力を存分に使ってくれよな……。
その言葉を最後に声が途絶えると、今まで身体の中で、しこりのように滞っていた大きなうねりが嘘のように消える。未だ渦巻いているものがあるが、それは朧から吸収してしまった水と火の鬼の力だろう。
これまでと違って、五感が鋭敏に研ぎ澄まされている。今まで感じられなかった弥生たちを取り巻く獄卒たちの妖力さえ肌で感じられる。
これが鬼になるということなのだろう。人智を遥かに凌駕するような力の本流を、弥生は自分の中に感じたのだった。
その時、獄卒たちの間からさざめきが起こる。顔を上げると、目前にはどこか圧倒されたような朧が佇んでいたのであった。
「……選んだのだな」
その言葉が示す意味に気付き、弥生は「はい」と静かに頷く。すると、朧が弥生の両頬に手を添えたのだった。
「大丈夫だ。俺がついている。肩の力を抜いて息を吸え」
次いで朧は弥生の両掌を包むように掴む。その瞬間、弥生の中で渦巻き滞っていたものが朧に吸い込まれていったのだった。
「朧さん、これ……」
「俺が持っていた鬼の力だ。弥生、手の向きが違う。掌は外側に向けろ。押し出すように」
朧は掴んだ弥生の両掌を外側に向けると、弥生の後ろに回る。身体をぴったりとくっつけると、耳元でそっと話し出す。
「俺が手を離したら、前に押し出すように力を放つんだ。相手は獄卒だ。多少旋風が当たっても死にはしない」
不安そうな弥生を安心させようとしたのだろうか、鼻で笑った朧に弥生の表情が緩む。
「上手くいきますか……?」
「弥彦の力はお前を悪いようにしない。それと失敗しても俺がついている。安心しろ」
自信に満ちた力強い言葉が胸を打つ。弥生は目尻に涙を溜めると深く頷いたのだった。
「三つ数えたら手を離すぞ……。一、二、三ッ!」
朧が手を離した瞬間、弥生は掌に溜まった力を前に放つ。力に引き摺られて前に飛んで行きそうになるも、朧が抱きしめて引き戻してくれる。
小動物サイズの小さな旋風は雲雀の真横を通り過ぎると、左右に避ける獄卒たちの間を通って隣家の生垣を穿ったのであった。
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