Ⅵ
扉があった。
あたりは真っ白だった。真っ白な中に、真っ白な扉があるだけの空間。
ぼくは、恐る恐る、その扉を開けた。
途端に目の前に現れたのは、巨大な銀河の群れ、赤や青や黄色、紫、色とりどりの強烈な光、虹色に輝く雲、雨粒は光を反射してまるで宝石のように煌めき、花々の咲き誇る絨毯は柔らかく足元を包んでくれる。
向こう側にとてつもなく巨大な渦巻が見える。ぼくはその端っこに触れる。脈打っていた。
渦巻が語りかけてくる。
「汝は、絶望して生きてきたか」
そう聞かれて、ぼくはその渦巻が永遠であり、永遠に続く門であり、永遠からの導きだということを感じ取った。
「ぼくは充分絶望しました」
ふと、ぼくの口から言葉が漏れた。
「ならば、来い。私が休ませてあげよう」
ぼくは渦巻の中に飛び込んだ。煌めき輝く渦巻の中に深く飲み込まれながらも、ぼくはユキちゃんの姿が見当たらないのを少し不安に思っていた。
「待って!」
ユキちゃん?
「ダメ! こっちへ来て!」
「どこにいるんだ、ユキちゃん! おーい、ユキちゃん! こっちへおいでよ」
「そんなとこへはいかせない! こっちへ来て!」
「ユキちゃん! 会いたいよユキちゃん! どこなの? どこにいるの?」
いつの間にか、ぼくは下りエレベーターの階段を逆に登るようにして、渦巻の流れに逆らっていた。
「こっち、来い!」
突然、大きな腕がぼくを掴んで、渦巻から引きずり出した。間違いなく、ユキちゃんの腕だった。
ぼくはユキちゃんの手のひらに乗っていた。一糸
「私と一緒に生きよう、裕一くん」
そしてぼくはまた、有限な存在へと還っていった。
意識が戻る。ユキちゃんの身体の温もり、柔らかい肌触り、肉体の重みを真っ先に感じた。真っ白だった視界が段々開けてくる。
泣いているユキちゃんがそこにいた。涙を流しながら、ぼくのことを途轍も無く愛おしそうに眺めている。
「しんじゃうかと思った」
そう言われてはじめて、ぼくはユキちゃんとセックスしている最中だったことに気づいた。少しずつ息を整えて、何が起こったのかを理解しようとするけど、全く脳が追いつかない。
「不思議な夢を見たよ」
やっと、それだけ言葉に出せた。
けど、ユキちゃんにとっては、そうじゃなかったらしい。
「裕一くん、夢なんかじゃないよ。私がこっちへ来て、って言ったんだよ。だから、ここにいるんだよ」
「じゃあ、ぼく達、同じ世界を見ていたのか」
「つながってたんだよ、私たち。とっても、深ーく。
裕一くんのつらいのとか、悲しいのとか、苦しいのとか、全部見えたもん」
全部といったら全部なんだろう。なんか、お尻の穴の皺まで全部覗かれてしまったような感じがして、すごく恥ずかしい。
肝心のことを、聞きたくなった。
「なんで、こっちへ来て、って言ったの?」
ユキちゃんは泣きながらにっこり微笑んで見せて、言葉で答える代わりにキスをした。唇と唇が痛いほど重ね合わさり、舌と舌が絡みつき交わり合う。ユキちゃんを抱き締めるぼくの腕と、ぼくを抱きしめるユキちゃんの腕に力がこもる。それに従って、ぼくのペニスがユキちゃんのヴァギナに深く沈んでいく。重なり合いながら動き、動きながらまた重なり合うことをやめない。痺れるような快楽と際限なく湧き出てくる愛おしさに突き動かされるようにして、ぼくはユキちゃんの肌を愛撫し、何度も射精した。
なんで、私はこんなにも裕一くんとつながりたくなるのかの訳が、ようやく分かった気がした。
中学三年生の時、はじめて会った時の裕一くんのことを思い出す。
裕一くんとは街の古本屋ではじめて出会った。その時の裕一くんの印象は、猫背で小さい人だった。何かに耐えるようにして、必死になって活字にしがみついている姿。何かに怯えて、何かに縋り付くようにしてブツブツ独り言を言う姿。
私はその時、どうして古本屋に行ったんだっけ。そうだ。好きな漫画がボードレールの『悪の華』を題材にしているのを知って、一度手に取りたいと思って古本屋に探しに行ったんだったと思う。
街の古本屋で、歴史のある古い店だったと思う。大きな本棚が壁一面にあって、古い郷土史料の本だとか、箱に入った古い翻訳の古典文学とか、難しい本が所狭しと並んでいるような店。カウンターには普通店主さんがいるはずなのに、奥に引っ込んでいて呼び鈴を鳴らさないと出ない店だった。
お客さんは、私と裕一くんの二人だけ。私はというと、来てみたはいいものの本の量に圧倒されてしまっていて、『悪の華』探しを早くも挫折しそうになっていた。
だから、店員さんじゃないけど常連っぽいそこの彼(裕一くん)に探してもらおうと声をかけた。それが、ファーストコンタクトだった。
「すみません。一緒に探して欲しい本があるんですけど」
彼はおもむろにこっちを見て、「ぼく、店員じゃないですよ」と言うとまた活字に目を戻してブツブツ独り言を言い始めた。
「店員さんじゃなくて、あなたにお願いしたいの。あたし初めてこのお店に来たし、店員さんもいないからあなたにお願いしているの」
彼はドキッとしたような目でまたこちらを見た。
「このお店、よく来る人?」
「まぁ、一応」と言ってしばらく黙った後、ちょっと付け足すように「本の題名言ってくれれば、大体この辺にあるとか分かる」とも言ってくれた。
「探してくれるんだ! じゃあ、ボードレールの『悪の華』、一緒に探してくれる?」
「それならここ」
私が本の題名を告げるや、彼は瞬時に本棚からボードレールの『悪の華』を取り出して見せてくれた。しかも、探していた堀口大學訳。
「すごい! 本当にありがとう!」
私は手を握って感謝を伝えた。後から聞いた話、この時この瞬間から、裕一くんは私のことを意識し出したそうな。
「お礼に、欲しい本あったら一緒に買ってあげる。何がいい?」
彼は申し訳なさそうに、いいよ、お礼なんて、と言った。
「じゃあ、手に持ってるそれでいい?」
私はその本を彼から奪い取って手に取った。『死に至る病』。題名がいかにも暗そうなその本を、彼は熱心に読んでいたようだった。
「まだ買ってないのよね。じゃあ、レジに持って行くね」
思えば私にとって、それが一番最初に『死に至る病』と出会ったきっかけだった。そのことを裕一くんに打ち明けられるまで、随分長い間忘れていた。
買ってあげた『死に至る病』をプレゼントしてから、彼に聞いた。
「あなた、どこ中?」
「XX中」
「そうなんだ、頭いいね。私東中なの。
あたしもうすぐ受験なんだけど、そっちは」
「うん、同じ」
「高校どこ行くの?」
「NN高」
「あたしと一緒! 頑張ろうね!」
「うん」
そう言って、別れた。
別れる間際まで、ちゃんと目を見て話をしてくれなかった。
それが、屈辱というか、そこまで行かないけれど、何だか寂しかった。彼の背中を見送りながら、彼にちゃんと私の方を振り向かせたい、私に寂しい思いをさせた責任をちゃんと取って欲しいと、密かに思っていた。
それから随分、長かった。裕一くんが私に振り向いてくれて、目を見つめて心の底から愛してると伝え合えるようになるまでに、私たちはどうやら大人の階段を一つずつ丁寧に登らないといけなかったみたい。
高校生だった頃の私たちは若くて、何も知らなくて、どうしていいか分からないことだらけで、ちゃんと目を見て話すことだって、出来なかった。向き合えなかった沢山のことがあって、いつもつまづいてばかりいた。意地を張って、孤独になって、絶望して……
でも、そんな時間があったから、今こうして、深くつながり合うことだって、できた。
裕一くん、もうしばらくだけ、私の側にいてよ。
人間は有限と無限、可能と現実、獣と神の
だから、私ともっと揺らいでいよう。
全てに絶望するには、まだ早過ぎるから。
〈終〉
死に至る病 唯野水菜 @non_shikane
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