カントリーロード

平木明日香

なんの変哲もない日常で

第1話


 娘を亡くした命日の夜のことだった。泣き叫ぶ娘の声を聞き、その音のする方向へ手を伸ばしても、届かない。何度となく見るこの夢に魘されながら、ベットのシーツをはぐり部屋を出る。外の空気を吸おうと行く宛もなく街に出て、曲がりくねった路地の向こうにある公園のベンチに座る。街のどこかで救急車のサイレンが聞こえた。まばらな自動車の排気音。交差点の信号機は無機質に点滅していて、人気はまるで無い物静かな時間。


 娘が交通事故に遭ったのは、私が原因だ。朝の8時、娘が部屋から慌てて降りてきて、ボサボサの髪を洗い、食卓の棚から食パンを1枚手に取って、パジャマを脱いでいる。「お母さん起こしてよ」って怒鳴られながら、私は私でのんびり過ごしていたから、その言葉に簡潔に謝って「急いでいってらっしゃい」と言った。娘は、「今日仕事無いんだったら送ってよ」と言ってきた。確かに、と思いながら送ってあげようかと考えていたが、やめにした。1回くらい遅刻した方が、娘にとっては良い勉強になるだろうと感じたからだ。それが間違いだった。


 娘が「馬鹿!」と言って家を飛び出た後、知らない番号から電話がかかる。病院からだった。娘が、事故に遭ったと。その一報だった。


 娘の名前は、七海と言う。心の広い、優しい子に育ってほしいという思いを込めて、お父さんと一緒に決めた名前だった。七海は、その名前の通りに優しい子だった。誰に対しても明るくて、決して人の悪口を言わない。私の娘だなんて思えないくらいに、どんなことにも一生懸命に打ち込んでいた。これから、自分のやりたいことを見つけられるように、「頑張っていく」って、希望に満ち溢れていた頃だった。


 まだ、昼にも満たない明るい時間に、七海がベットの上で横になっている。「七海」って声をかけても、返事は無い。「学校に遅れるよ」って、部屋のドア越しに声をかけたら、いつも飛び起きて、女の子とは思えない形相で階段を駆け下りてくる。駆け下りては顔を洗って、制服に着替えたと思ったら、ものすごい勢いで玄関のドアを開ける。「行ってきます」って元気な声で。


 だから私は、「学校だよ、七海」って言った。七海は、白いシーツに包まれながら、顔色一つ変えない。


 ねえ、七海。今年の誕生日こそは、あんたが行きたがってたディズニーランドに一緒に行くよ。15歳の誕生日。入場券はもう購入してる。あんたが15歳になるまで、あと1ヶ月を切っている12月。お父さんは仕事だから内緒で買った、東京行きの片道切符2枚分。


 難しいことを言うつもりはなかった。ただ返事をしてほしい。傷だらけの体を抱き寄せながら、どこか痛い所が無いか聞いた。今日は学校に行かなくていいから、そのままゆっくりしててもいいんだよって、ベットのシーツを整えた。「一瞬の出来事でしたから、恐らく苦しまなかったとは思います」。隣で誰かがそう言っている。なにを言っているんだろう。だって、娘は今こうして眠っているだけだ。いつもと変わらずその表情は落ち着いていて、夢に魘されているわけでもない。明日の朝になったら、慌てて飛び起きてきて、「今何時!?」って聞いてくるはずだ。だから、娘よりも早く起きる準備をしなければと、アラームを7時にセットして、娘が好きだったハムエッグを買いに出掛ける。たとえ起きるのが遅くても、明日はちゃんと送ってあげるから、今日は安心して眠っていてほしいと伝えた。「お母さん送ってよ」って言ったあんたに、もう二度と「甘えないで」って言うつもりはないのだから。


 あの日から、眠れない夜が続いていた。あんたがくれたキーホルダー。普段使っていたものを無くしたって言ったら、学校の帰りに買ってきてくれたよね。私はそのキーホルダーを手に取り、バイクに乗って、仕事に行ったり、遠くまで一緒に出掛けたり。よくあんたを後ろに乗せて、この街の端にある海岸まで一緒に走ったね。この胸の内側には、あんたに伝えずじまいのたくさんの言葉がある。明日、一緒になにができるかを想像して、これから先2人でどこに行けるかを考えていた。


 自動販売機で買った缶コーヒーをベンチの上に置き、立ち上がる。どうすれば良いかもわからずさ迷い続けて、歩く気力は日に日に削ぎ落ちていく。なにに向かって頑張れば良いのか、なにを信じていけば良いのか。そのことを見つけられる術が、私の中に残っていないわけじゃない。だけど、七海。私は不器用だからさ、割り切って考えることはできないんだ。あんたが隣にいないことを想像するだけで、反吐が出そうなんだ。飲み干した缶コーヒーをゴミ箱に捨てて、ふと、空を見上げる。雲がかかって、星は見えない。明日は朝が早い。だから、時間を気にしながら家に帰ろうとした。

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