第28話

「おにーちゃん」

 そんな安らぎを掻い潜って、一つの振動が俺の意識を揺らす。ずっと聞いていたいような、落ち着きのある声。落ち着く声が、今にも定着しそうな空間を壊そうというのだから、怪訝な気持ちが頭に募っていく。

徐々に大きくなってくる。その声に引かれるように、意識がはっきりとしてくる。つまり、ボヤッとしていたということになる。

 肌を滑る冷気に震え、騒音がいくつもの言葉となって耳に届く。煩わしい。先程まで薄まっていた五感が、本来の機能を取り戻していく。そうか、気がつかないうちに寝てしまっていたのか。

 数度の瞬きで視界のくすみが除かれ、程度な光が目の中に飛び込んでくる。そう長くは意識を飛ばしていたわけではないようだ。その証拠に、照明の明かりに慣れるまで時間を要さなかった。

激しい光の光子の代わりに、正面には女の子が腰かけていた。

 ふわっとした肩までの黒髪ショート。吊り上がった目元を和らげるような丸顔の童顔。その顔に合わせたかのように、全体的に小ぶりの印象を受けた。当然、胸も例外ではない。

「瑞希、か」

 俺の目の前には、俺の妹の柊瑞希(ひいらぎ みずき)が座っていた。

「寝てた?」

「なんか長い夢を見ていたみたいだ」

 強い光を浴びた後のように、瞼の裏に何かしらの刺激を受けたような感覚が残っている。見上げて、蛍光灯の光を自ら浴びてみるが、顔をしかめるほどの光ではない。

 となると、この刺激はどこで受けたものなのだろうか。

「良い夢?」

「分からん。ただーー」

夢の中に瑞希が出てきたような気がした。

目の前の瑞希を見つめる。すると、可愛らしく首をこてんと傾けた。その姿に、俺の胸の奥の方が少しのざわめきを覚える。

 ちょいちょい、と引かれるように、俺の心の内側が主張している。

振り向くまでもない。何度も見てきたし、こういう時に限って顔を見せるのだ。一瞬忘れそうになると、ここにいるよと主張してくる。

 俺の手を握って、強い自己主張をしてくる。振り返らないと俺の手を放してくれなそうなので、仕方なしに振り返る。

 すると、罪悪感が隣で俺の手を握ってこちらを見ていた。親子のように固く握られた手。横縞のボーダーを着て、背中には背徳感を背負っている。

 消える様子を見せず、ただそこにいる。そんな気がした。

 分かってるよ。

「ただ?」

「え? あ、いや、何でもない」

 俺が急に黙ったのを不思議がったのだろう。催促するような声に、ただ誤魔化すことしかできないでいた。

 さすがに、高校生の兄の夢の中に、実の妹が出てきたなんてことは言えない。思春期を迎えている妹からしたら、あまり良い気がしないだろう。

 古人は、夢に出てくる人は、自分のことを想ってくれていると言ったらしい。ご都合主義ここに極まれりではあるが、その前向きな姿勢は真似したいものである。

さすがに自意識過剰過ぎる考えだという自覚はある。

 そうやって、他のことに思いを巡らせる。すると、先程感じた気持ちが収まっていき、俺の手を握っていた二人組は消えた。

いつも俺について回る背後霊のようなモノ。そうだとしたら、本当に守ってくれているのだろう。

俺が踏み外さないように。

「それで、しっかり私の聞いてた?」

「ん、ああ。聞いてた、聞いてた」

「子供に対するお母さんみたいな返事するのやめてよ」

「性別の壁を越えた返事が、俺にできるわけがないじゃないか……あれ、どこかでこんな会話をしなかったか?」

「んー、どうだっけ?」

 彼女はわざと悩むような仕草で、こちらをちらりと見てくる。からかうような笑みを浮かべている彼女は、別のことを考えるように頭を悩ませていた。

「じゃあ、私がなんて言おうとしたか、当ててみてよ」

 どうやら記憶を遡っていたわけではなく、俺で遊ぶために頭を使ったらしい。その言動を見せられ、抱いたはずの既視感が遠のいていく。

 やっぱり、ただの気のせいだったか。

「それで、結局なんの話だっけ?」

 分かりやすいギブアップ。降参の意を唱える俺に対し、彼女は勝ち誇ったような表情で言葉を紡いだ。

「もしも一つだけ願いが叶うとしたら、何を願うかって話」

 胸を高鳴らせるように、そんな子供の時にしたような会話を持ちかけてくる彼女。

願いを一つだけ叶えることができるのなら、何を願うか。

もっと幼かったころに、この手の話題で盛り上がった人達は星の数ほどいることだろう。かくいう俺も、その一人だったりする。

 昔はどのように答えただろうか?

 好きなものをいっぱい食べたい? お金持ちになりたい? ギャルのパンティーをくれ? きっと、その質問をされる度に答えは違っていただろう。

 それでも、回答はすぐに出てきた。

「今みたいな時間がずっと続くこと」

 結局、俺は非日常を望んでいるくせに、今が一番好きみたいだ。

 他愛もない会話をして、くだらないことで笑う。きっと、ずっとこんな関係が続くことはないから、無理だと分かっているからこその願いなのだろう。

 無理だと分かっていても願ってしまう。どうやら、俺は欲深い人間だったようだ。

 この感情は、早くどこかに捨て去ってしまわないとな。

 その答えを聞くと、目の前に座る彼女は言葉を失ったように、驚いていた。そんなに意外な回答だっただろうか。俺の解答の真意を知らない限り、結構ありふれた答えだと思ったのだが。

きっと、望んだ答えとは違っていたのだろう。

 彼女が俺に求めた答えは何だったのか、その答えを俺は知りえない。それでも、そんな反応をされるのは心外だ。

「なんだよ?」

「別に……何でもない」

 言葉を濁すように、少し吃る。それから、何かを隠すように笑みを浮かべた。

その笑みの下の感情が気になり、思わず凝視してしまう。こんなに些細な感情を笑みで表現する奴だったか?

まるで俺の知らないところで何かを経験したかのような、そんな成長した姿が垣間見えたような気がする。

「……」

「な、なに?」

「いや、別に」

 一瞬、目の前にいるはずの瑞希が、遠い別の存在のように見えた。なぜだろうか。今も昔もこれからも、瑞希は俺の妹であり、変わることはないのに。

彼女の笑顔から思い出すこと?

何か大事なこと忘れているような……。

「あっ!」

「今度は何⁉」

「レポート、やってないわ」

 忘れていることで思い出した。脈絡のない発言に、瑞希は戸惑ったかもしれない。そう思って、視線だけで様子を窺ってみると、彼女は何でもない微笑を浮かべていた。

 その表情に少しの疑問を抱いたが、俺の思考はすでに別の考え事に使われていた。俺は同時に二つ以上のことを考えることはできないのだ。不器用ですから。

 すっかり忘れそうになっていたが、レポートの課題を出されたのだった。

 顧問にオカルトについてのレポート提出を指示されたのだ。理科教師のくせに、オカルトのレポートを書いてこいとは笑わせる。片腹痛いわ。

 明確に示せないからオカルトなのだ。理系の大学で一体、何を学んできたのか問いただしたくなる。今度会ったら問いただしてやる、その勢いだけは心に渦巻いていた。

「何を書くか決まってるの?」

「決まるも何も、まずオカルト興味ないしな」

「ふふっ、知ってる」

 微笑を持続させながら、彼女はこちらに視線を向けていた。先程の態度と、今の態度。その両方が俺の予想外の反応で、彼女にとっては予想内の反応のように見えた。

「知ってるって、なんだよ」

 その疑問の正体が分からず、湧き出た疑問符を彼女にぶつけるように口を開いた。彼女の手のひらで踊らされているような感覚に陥る。これは兄としての沽券に関わる事態である。

 まともな活動をしていないとはいえ、仮にもオカルト部副部長だぞ。そんな少しの反論を交えた視線を、彼女はしっかりと受け止めた。

「良いオカルト話、知ってるよ」

「え、まじで?」

 思わず食い入るように反応してしまった。まさか、瑞希がオカルトに興味を持っていたとは。

いよいよ、副部長の座を譲る時が来たかとさえ思ってしまう。

 そんな俺の態度を見て、彼女の瞳が揺れたように感じた。しかし、それも一瞬のことで、すぐに瞳を好奇の色に変えた。

 もったいぶるように、自分の知識をひけらかすようにしながら、彼女は言葉を続けた。

「『失恋の神様』って、知ってる?」




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『失恋の神様』。この世には小説のような失恋をさせてくれる神様がいるらしい。 荒井竜馬 @saamon_

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