第27話

「はぁ、はぁ、はぁ」

 バタつくように時間も忘れて走り続ける。元々運動神経が良いわけではなく、ペース配分も考えられない。終わりさえも分からない、ゴールが見えないマラソン。そんな競技を長く続けられるはずもない。

それでも、気持ちだけで足を運んでいく。

 気を抜けば足から崩れていきそうな体。いくら拭っても止まることのない汗。いくら日が落ちても、夏の夜に走り続ければ自然と汗は噴き出てくる。

 本当なら、瑞希がいきそうな所に一発で向かえるものなのだ。俺とあいつの関係性なら、そんなこと造作もないはずだった。小説的な物語を演出してくれるのなら、すぐにあいつの所に駆け付けられるはずなのだ。

 それがどうして、三連続で外してるんだ!

 こういうときは、思い出の場所とかでベンチに座っているもんじゃないのか?

 よく遊んだ公園。何度も通った通学路。桜が有名な土手。あいつがいきそうな所は、全てに行ってきた。それも自転車ではなく走りで。

 急に飛び出てきたから、自転車という選択肢を忘れていた。気づいた時にはすでに遅し。途中まで走っておいて、今さら自転車を取りに帰るわけにもいかない。

本当はもうとっくに限界は来ていた。今にも手足がぼとっと落ちてしまいそうだ。

それでも、足を止めてしまったら本当にこれ以上走れなくなる。手足に溜まった乳酸が主張を激しく、声をからしながら、そんなことを口にしていた。応援する気があるのなら、少しは乳酸を軽減してくれないだろうか。

そんなことをいくら考えたところで、手足は重くなるばかりだった。 

 結構な距離を走ってきた。今から家に帰る道のりを思い出すだけでも、気が遠くなりそうだ。

 一体どこにいるんだ。

 一分一秒も無駄にはできない。

桜が散り、新緑が深まってきた桜の木。桜の時期が去っていても、土手の両端には提灯が吊らされていた。社名や個人名の入った提灯。こうやって、春から夏にかけては売名行為の提灯が吊らされるのだ。

 汗は雫になり、アスファルトに水溜まりを作る。その水溜まりが大きくなる前に、次の一歩を出す。止まらないように、少しでも早くあいつに会うために、足を進める。

「ん?」

 土手の上、黒い影が動いたのを感じた。提灯の灯が届かない位置、離れているし、遠いし、こんな距離から見分けられるわけがない。

 それだというのに、その影を見つけた瞬間に、その正体が分かった。数日ぶりに見た、想い人。分からないわけがなかった。

 残された筋肉を酷使して、彼女の元に近づいていく。走っている俺と歩いている彼女。

それだというのに、距離が中々縮まらない。その理不尽さに負けじと、根性を酷使して速度を上げる。そうすることで、ようやく彼女の後姿を捉えた。

 大きく吸った息を肺に留める。乱れた呼吸しかできない肺に対して、この仕打ちは鬼畜の所業過ぎるだろう。恨むなら、後で恨んでくれ。今は相手にしている時間がないのだから。

その溜め込んだ空気を言葉にして、前を歩く影にぶつける。大きく振りかぶって、ぶつかった拍子に星でも出しそうなくらいに思いっきり。

「瑞希!!!」

 その影が振り返った。俺の言葉を投げつけられ、彼女の背景には小さく淡い色の星々が見えた。夜が深まっていないせいか、煌めく星空とはいかない。

暗くて表情が上手く窺えないが、彼女の動きだけは捉えることができる。

「どうしたんですか? せんぱい!」

 惚けるような声で、俺のことを『先輩』なんてふざけた呼び方で呼ぶ。何が先輩だと、反論したい声は内心だけに留め、代わりに深く息を吐いた。

それでも無反応という訳にもいかない。だから、その呼び方に対しては、皮肉めいた笑みで答えてみせた。

最後のひと踏ん張りと、足に鞭を打って動かす。

「ほんとうに、どうしたんですか? 汗まみれで、フラフラで」

 まるで、本当に何も知らないように、こちらが何も思い出していないような態度。近くまで寄ってみると、呆れ交じりの微笑を浮かべてきた。

 ようやく見つけることができた。

安堵のため息と息切れを混ぜながら、呼吸を整える。肩を上下させると、内臓も一緒に動いているような感覚があった。両手を膝についたまま、顔を上げることができない。走りすぎて腹筋が筋肉痛になりそうだった。

「ほんとうに、かっこうわるい」

「やかましいわ」

 彼女よりも下になった俺の頭めがけて、彼女は上から言葉浴びせてきた。

汗で張り付いた服が鬱陶しい。汗まみれで、足はフラフラで。こんな姿がかっこいい訳がない。そんなことは承知の上でも、何かしらの反論をしたくなって体に力を入れて、顔を上げてみる。

ようやく頭を上げて、提灯の灯に照らされた彼女の顔を確認する。

改めて確認すると、彼女は浮かべていたのはただの微笑ではなかった。

 呆れた微笑を維持させたまま、目には涙を溜め込み、口元をキュッと結んでいる。多くの感情が彼女の表情に散りばめられており、統一性がまるでない。

 里奈の頃だったら、気遣ったかもしれない。でも、それは俺の知っている彼女に対する態度ではない。

 だから、今は瑞希として接することにしよう。

 俺は嘆息交じりに笑みを浮かべてやった。

「いや、どんな表情してんだよ」

「うるさいなぁ」

 彼女は涙を強く拭った。敬語と共に今までの距離感を捨て去り、いつも通りに距離を詰めてくる。

 いつもの態度を見せられ、確信を抱いた。なんで気づかなかったかな。どこからどう見ても、瑞希そのものではないか。

「気づかなかったな。まさかお前が俺のこと好きだったなんて」

「私も。気持ち悪いね、お互いに」

「全くだ」

 自嘲気味の笑みを互いに漏らした。

『失恋の神様』に願いを叶えてもらっている現状。それは、互いに好意を抱いていることと同じだった。恋をしても、失恋をしたいと思うほど、俺達の気持ちは通じていたらしい。

 どこから間違えたのか、何を間違えたのか。それさえ見つけられないのならば、この気持ちは正しいということにしてくれないだろうか。

無理だろうな。だからこそ、俺達は神様に願った。

 そのせいで、そのおかげで互いの気持ちを知ることができた。

本来、想いを告げてはならない人。

「これは失恋ってことでいいのか?」

「いいんじゃない? 実際に、私は振られたわけだし」

 彼女の表情から、どこか清々しさを感じた。きっと、俺の部屋で彼女を振った時とは、また違った笑顔。

 不思議と表情筋が緩んでいるのを感じる。

「願いを叶えて貰えるってことは、そういうことなんでしょ」

 彼女は呆れるように、諦めるように息を漏らす。

 失恋の神様に願いを叶えて貰える条件。

互いに絶対に結ばれない未来が確定していること。

つまり、俺と彼女が今後結ばれることはないのだ。例え、互いの気持ちを知った今でも、その事実は変わらないということだろう。

「未来は変わらないものなのかね」

「変わらないでしょ。ていうか、変わったらダメでしょ」

「そうだよなぁ」

「それともなに? 私と結婚でもしてくれるの?」

「それができるなら苦労してないだろ」

「本当にね」

 懐かしくも感じる会話のリズム。近すぎると、他人に言われたこともある。それでも、変わることのなかった距離。

 お互いに、これ以上距離を取ることが嫌だったのだろう。

俺達は確認にもなっていない、事実確認をした。いくら確かめたところで、俺達の関係を変える術もなく、深める度胸もなく。

分かっている。これ以上の幸せを望んではいけない。互いの気持ちを知れただけでも、十分幸せなのだ。

 それ以上のことを一瞬でも望んでしまった俺は、欲深い人間なのだろう。

「でも、言質は取ったからね」

 秘密を握ったように、彼女はいたずらな笑みを浮かべた。俺をからかうときに見せていた表情。この数日間で見た彼女表情の中で、一番嬉しそうな笑み。

 言質を取る、その言葉の意味を理解できないほど間抜けではない。

 俺は無自覚のまま、彼女に気持ちを伝えてしまったのだ。

「どうするんだよ、そんなの取っておいて」

「宝物にする。絶対に忘れない」

 提灯の灯が揺れ、彼女の顔を照らす。今まで俺には見せたことのない顔をしていた。

きっと、その表情は生涯向けられることはなかったはずの表情。見せたらいけないものなのかもしれない。少なくとも、俺に対しては。

もしかしたら、ずっとその顔の下に隠していたのかもしれない。

 悲しみとは別の理由で、彼女の瞳は揺れている。熱を帯びた瞳は、その熱を耳の先まで伝えていく。その熱はこちらにまで伝わり、夏のマラソンを終えた俺の体さえも、火照らせてくる。

体の内側の奥の方が、ぐっと熱くなっていく。

「まっすぐ瞳を見つめて、あんな告白されたんだもん。忘れない」

 胸元を両手で抑え、大切な何かをしまうように胸に押し付けている。

「私は忘れないから」

 繰り返す言葉に、少しの疑問が残った。『私は忘れない』。

 その疑問を確かめようと、言葉を返そうとした。

「ねぇ」

 しかし、何かを察したような彼女が、俺よりも早く言葉を発した。俺の言葉を制すような彼女の呼びかけ。

 その声に、俺は無言で返答をする。

 すると、彼女は目を細めて笑みを浮かべた。その目の端から一筋の涙が伝って、頬を濡らした。

「ずっと、ずーと、好きだったよ」 

 その言葉を最後に、彼女の背景の星々が光を強めていった。眩しい光の中に、彼女の笑顔だけが残る。

そして、最後にいつも通りの呼び方で、俺のことを呼んだ。俺の元に彼女の言葉は届かず、ただ口の動きだけが最後まで残っていた。

口の動きは確かに、こう動いていたのだーー




「――お兄ちゃん、お兄ちゃん」

部屋に響く一定の機械音。真夏の外気温と対極的な、人工的な冷気が部屋を漂っている。微かに感じるカビのような臭い。遠き聞こえる運動部の声。その騒音までもが心地よく感じる。視界に何も映らないことを不思議に思ったが、この景色が瞼の裏側なのだとすぐに気がついた。

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