可愛い妾


 「俺の妾は無事だったかな」


 いっぺんで正気に戻った。

「イサク! なぜここへ?」


 それは、あの、ムメール族のベル、ヘビのような三白眼を持つ、イサク・ベルだった。

 砂漠に逃げ込んだ彼は、ユートパクスのシャルワーヌ師団にさんざんに追いかけられた。ついにはもう逃げ場がないと悟り、降伏した。

 そんな彼にシャルワーヌは、自分の地位を譲った。上ザイード総督を。つまり彼は今、ユートパクス陣営にいるはずだ。


「こんなところで何してるんだ? ここは、タルキア軍の陣だ。君は、ユートパクス軍に寝返ったのではなかったか!?」


 まくしたてると、イサクは顔を顰めた。


「寝返ったとかいうな。そんなでかい声で」

「だって、ユートパクスとタルキアは、敵同士じゃないか!」


 責め立てても、イサクは恬然としている。


「こっちとあっち。こことあそこ。二つだけしかないと決めつけて、どちらかに押し込もうとするのは、お前らウアロジア大陸の人間の悪いクセだぞ」

「何言ってんだ。これは戦争だ。ユートパクスとタルキアは、敵と味方に別れて戦っている。そもそも君は、なぜここにいるんだ?」


 イサク・ベルは、ユートパクスの味方になった。それなのになぜ、タルキアの陣営にいるのだろう?


「俺か? 俺は、大宰相の軍に入って、ここまで来たのだ」

「……」


 ユートパクスの庇護の元に上ザイードを支配しながら、タルキアの大宰相軍に従軍しているというのか。

 呆れてものが言えない。


「確かにわがムメール族は、ユートパクスの碌を食んでいる。しかし、悠久のタルキア皇帝を裏切ったわけではない」

「わけがわからない」

「とにかくついて来い。アガが帰ってきたらまずい。俺は奴にも忠誠を誓っているのでな」


 ぐいぐい手を引き、テントから外へ出ようとする。


「外には銃を持った見張りがいるぞ」

 警告したが、イサクは気にした風もない。

「誰もいないさ。見張りは、陣営の端まで走っていった。逃げたニワトリを追って」

「ニワトリ?」


イサクはくすりと笑った。


「軍の糧食だ。小屋のカギを壊しておいた。外へ出られて、ニワトリどもは、大喜びさ。逃げられたら大変だから、今頃見張りのやつらは、必死で囲い込もうとしているはずだ」

「もしかして、さっきの……」

「美声だったろ? 俺が鳴き真似をしたのだ。あれは、スパイの合図でもある」

「スパイ……」


 だからアガは様子を見に、外へ出て行ったのだ。


「愚図愚図している暇はない。さ、いくぞ」

 歩きかけ、立ち止まった。

「その恰好は目立ちすぎる」


 首を傾げ、脱げかけていた俺のシャツを、一気に剥ぎ取った。


「な、何をする!」

「期待したか? だが今は時間がない。ほら、これを被れ」


 だぼっとした上衣のどこかから布を取り出して寄越した。


「なんだこれは」

「俺の妻のスカーフだ。戦場へ行くに際し、お守りにくれたのだ。どうだ。妬けるか?」

「むしろ安心した」

「無理をしなくていいぞ。素直に焼きもちを焼くがいい。だが、あとでな。今はちょっと急いでいる。いいか。スカーフで髪を覆うんだ。それから下着を、もっとこう、着崩して……」


 言いながら、生地の首のところを掴んで、ぎゅっと広げた。まだ気に入らないようで、裾も引っ張って膨らませている。


「おい、ズボンを脱げ」

「い、いやだ!」


 アガから、辛うじて俺を守ってくれた腰ひもは、今でもしっかりと結び目を保っている。


「お前にはこっちが似合う」


 言うなり、イサクは、テントの真ん中の衝立に、目隠し用に掛けてあった布を引き裂いた。

 華やかな色合いのそれで、俺の腰を巻こうとする。


「早くズボンを脱げ」

「脱ぐ必要はないだろう?」


 布の下になって見えないのだから。

 阿呆を見る目で俺を見つめ、イサクは首を横に振った。


「これは命がけの脱出だ。ズボンを穿いていて、うまくいくものか」

「そんなことはない」

「仕草が違うんだよ。いいから、とっとと脱げ!」


 強引にむしり取られそうだったから、観念した。

 一度は暗殺部隊に差し出そうとした身だ。今更何を惜しむことがあろう。

 勢いよくズボンを脱ぎ捨てた。


「潔くてよい」

イサクがにやりと笑った。

「時間がないのが残念だ。後から十分に可愛がってやろう」

「必要ない」

「遠慮するな」


 軽口を叩きながら、布を、俺の腰の周りにきっちりと巻きつけた。まるでスカートのように見える。


「ふむ。これなら女とそう変わるまい」

「俺を女にする気か!」

「女ではないぞ。お前は俺の妾だ」

愉快そうに、イサクは笑った。



 下着姿の俺を、イサクはラクダに乗せた。ズボンを穿いておらず、腰に布を巻いただけなので、横乗りだ。

 イサクの言ったように、テントの周りには人がいなかった。駐屯地の端で、逃げ出した糧食ニワトリを追い回しているのだろう。

 誰にも会うことはなく、出入り口まで来ることができた。


 鉄条網の内側には見張りがいた。

 彼の目は、イサクの後ろにいる俺に釘付けだ。ごくりと生唾を飲む音がした。

 俺は、イサクの意図を理解した。ズボンを穿いていたら、動作が乱暴になり、男だと見破られてしまっただろう。


 無遠慮に俺を眺めまわし、見張りが話しかけてきた。

「どうした、イサク、その女」

「妾だ。俺の」

言いながら、馬に跨る。

「上玉じゃないか。どこで拾ってきた?」

「町で。だが、期限付きなのだ」


 イサクが牽制する。案の定、見張りは顔を顰めた。


「なんだ、残念。俺にも回してもらおうと思ったのに」

「俺の妾だと言ったろ? 回すのはナシだ。ところで、キャプテン・アガはどうした?」

「大宰相に呼ばれてる」

「ふうん」


さして興味もなさそうにイサクは頷く。


「俺はこいつを返しに行かなくちゃならない。時間が過ぎると、一刻あたり超過料金が5割だからな」

「5割! 暴利じゃないか」

「そうだ。だがそれだけの価値はあったぜ」

にやりと笑った。

「おかげで懐は空っぽだ。早く返却せねば。おい、そこをどけ。通してくれ」


 イサクの馬が歩き出す。その後を、俺を乗せたラクダが、ゆっくりとついていく。

 棘のある柵を越え、俺達は砂漠の中へ出た。



 「おい。俺も馬に乗せろ!」


 先を行くイサクに向かって声を掛けた。

 俺の乗せられているのはラクダだ。しかも、履いているスカートもどきのせいで横座り。乗りにくいったら、ありゃしない。

 イサクが振り返った。


「なんだ? 俺と同じ馬に乗りたいのか? 俺の妾は、ちょっと見ないうちに可愛くなったな」

「そんなんじゃない。それから、妾と呼ぶのは止めろ。俺はお前の妾なんかじゃない」

「妾じゃないか。未来の」

「承諾してない!」

「おやおや、強気なことだ。よいよい、俺の馬に来るがいい」


 言いながらイサクは馬の背から滑り降りた。ラクダに近づき、俺を抱き上げたから驚いた。


「何をする! 下ろせ!」

「下ろしていいのか? 砂は熱いぞ。お前は裸足だからな」


 イサクの言う通り、日中の砂漠はまるで熱したフライパンのようになっている。裸足で下りたら火傷する。

 今年に入って随分と身長が伸びた。背丈はイサクと変わらない。そんな俺を、イサクは軽々と馬まで運び、鞍の上に乗せた。

 横座りで。

 そして俺の後ろに飛び乗った。


「相変わらずかぐわしい匂いだ。俺の妾は大人になったな」

 俺を抱き込むようにして手綱を握り、そんなことを言う。頭頂部に鼻を埋め、匂いを嗅いでいる。

「俺はお前を見直したぞ。お前は、シャルワーヌ・ユベールを捨てたそうじゃないか」

「……シャルワーヌがそう言ったのか?」


 掠れた声で問い返す。

 俺は、彼を置いて一人、イスケンデルへ出てきたわけだが。そして、ラルフと合流した。彼が、前世からの恋人だと信じていたから。

 イサクの笑いが息となって耳を掠めた。


「最初、俺の与えた短剣を使わなかったから、俺の妾は腰抜けだと思っていたのだ。だが、あの男を置き去りにするだけの気概があったわけだからな。俺はお前を誇らしく思ったぞ」

「それは……光栄だ」


 思えば、ジウの体は知っていたのだ。俺は……新しく体に入ってきた魂、エドガルド・フェリシンは、前世で、シャルワーヌを愛していたのだ、と。本来の体の所有者、ジウ王子と同じように。

 あるいはそれが、俺の魂が、彼の体に招じ入れられた理由だろうか……。


 だが、昏睡から目覚めた俺は、シャルワーヌを殺そうと決意した。彼が革命軍の将校で、王党派の敵だから。どう考えたってシャルワーヌは、エドガルドの敵だ。

 そこで体は魂を妨害し、俺は、イサクがくれた短剣を使うことができなかった。ほんのかすり傷をつけるだけで人を殺せるという猛毒が塗ってあったというのに。


 あの短剣は、最後までジウ王子に忠実だったアソムが、自らに使った……。

 体が震えた。


「どうした? まさか、寒いのか?」

「違う」


 慌てて首を横に振る。勘違いしたイサク・ベルが、一層強く抱きしめようとしたからだ。


「それよりイサク。君は上ザイードの総督になったそうじゃないか」


 軍に無断でオーディン・マークスが帰国した。新しく総司令官になったワイズ将軍の召喚で、シャルワーヌは首都マワジへ行くことになった。出立に当たり、彼は自分の地位を、ムメールのベル、イサクに譲った。

 つまり、イサク・ベルとその一族のムメール族は、現在、ユートパクス軍の下にある。


「それなのに、大宰相の軍で、君はいったい何をしていたのだ?」


 思わず咎めるような口調になってしまった。

 ユートパクス軍に所属しながら、タルキア軍の大宰相の軍に従軍する。いったんことが起きれば、タルキア兵としてユートパクス軍と戦う。

 まるでコウモリのようではないか。


「決まってるじゃないか。タルキア皇帝に忠誠を尽くしていたのだ」

 憎らしいほど平然とイサクが答える。

「だって君は今では、ユートパクス軍総司令官ワイズ将軍の下にいるのだろう?」

 オーディンの離脱後、ザイード駐留ユートパクス軍の総司令官は、ワイズ将軍だ。上ザイード総督に任命されたイサクは、当然、彼の下に組み込まれている。

「確かに、ユートパクスから上ザイードを貰ったがな。だがそのずっと以前から俺は、タルキア皇帝により、上ザイードからミリを徴収する権利を与えられていたのだ」


 タルキア帝国とムメール族。税を二重取りされて、上ザイードの民は苦しんでいた。

 シャルワーヌの統治に入り、住民たちの支払った税は、彼ら自身の為に使われるようになった。同時に、ユートパクス民間人指導者による農業や行政指導が行われ、上ザイードは豊かになった。

 税は住民の為に。イサク・ベルも、このやり方に賛成したはずだ。だからシャルワーヌから上ザイード総督の地位を譲られた。


 イサクの三白眼が、すうーっと細くなった。


「だが、ユートパクス軍は撤退するのだろう? 祖国へ引き上げるのだ。ザイードは再び、タルキア帝国のものになる。そうしたら、俺のムメール族はどうなる? タルキアに逆らったら、砂漠では生きてはいけないのだ」

「……」


 はっとした。そうだ。ワイズ総司令官は、軍の完全撤退を考えている。名誉ある撤退だけが条件だから、ザイードはじめ、海岸の要塞も全てがタルキア帝国に返還される。

 ……かつてムメール族は、タルキアの敵であるユートパクス軍に味方し、上ザイードの統治権を与えられていた。

 その事実を、執念深いタルキアが許すわけがない。


 後ろからイサクの声が、風に乗って流れてくる。

 「タルキアの掟は恐ろしい。一度裏切った者は、決して許さない。だから俺は、タルキア軍に入り、ユートパクスと戦う必要があったのだ」


 彼もまた、彼の一族ムメール族を守ろうとしている。

 イサク・ベルを責めることはできなかった。


「ところで、お前こそ、アガのテントで何をしていたのだ? まさか、やつの妾になったわけではあるまいな」

「そうじゃないってわかってるだろ?」


 無理やり連れ込まれたと知ったから、助けにきてくれたくせに。


「ふむ。あの男は見境がないからな。つまり、こういうことか? お前はシャルワーヌ・ユベールを見限った。だが、砂漠でお前を保護してくれる者が必要だ。それで、タルキア軍に身を寄せた」

「違う!」

「そうだな。その場合は、俺のテントに来ればよいのだからな」

「……」


 この男、自分には相思相愛の妻がいると言っていなかったか?


「お前がどこで何をしていようが、俺はお前を許すぞ。むしろ、清純そうに見えて淫乱なところが大変、好ましい」

「はあ」


 もう、ため息を吐くしかない。


「なあ、イサク。俺を港へ連れて行ってくれないか? そこに船があるんだ」

「船?」

「エイクレ要塞のシャルキュ太守の船だ」

「屠殺屋のか? 恐ろしい男を味方につけたものだな」

 驚いたような声が返ってくる。

「まあ、いろいろあってな」


 イサクには詳しい話はしていない。俺の前世とか、シャルキュとの関わりとか。

 彼は俺のことを、ユートパクス軍の捕虜になった、ウテナの王子だと思っている。


 いや。

 砂漠を移動する民にとって、国籍や身分などに意味はない。俺が俺である故に、イサクは俺だと認めているに過ぎない。








________________


※お久しぶりのイサク・ベルです。

初出は、Ⅰ章「ヘビのように冷たい目」です

https://kakuyomu.jp/works/16817330665612772654/episodes/16817330665926272237


イサクのシャルワーヌ師団への敗北は、Ⅰ章「砂漠の戦闘」

https://kakuyomu.jp/works/16817330665612772654/episodes/16817330666468575987


Ⅱ章「イサク・ベルとの友情」、シャルワーヌの回想です

https://kakuyomu.jp/works/16817330665612772654/episodes/16817330667138955219







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