回想:特別になりたい/イサク・ベルとの友情
リオン号の甲板には、冷たい海風が吹いていた。熱した船室から出てきたシャルワーヌには、潮の匂いが心地よかった。
彼は、ひどく混乱していた。
シャルワーヌは、オーディンに心酔していた。彼と体の関係を持ったのは、純粋に尊敬からだ。ユートパクの政治は、腐りきっていた。大革命は、王族の処刑を経て、陳腐な恐怖政治に成り果てていた。
貴族であるシャルワーヌ自身、何度か、革命政府への謀叛を疑われたことがある。逮捕されかけた彼を守ったのは、麾下の兵士達だった。
……「シャルワーヌ将軍を処刑するなら、今ここであんたらを撃ち殺してやる」
シャルワーヌを逮捕しに来た革命政府の議員らを、兵士達は、文字通り彼の楯となって追い返した。
しかし、いつまでも兵士達に頼っているわけにはいかない。逆だ。指揮官であるシャルワーヌの方が、彼らを守らなければならないというのに。
オーディン・マークスと初めて会った時、シャルワーヌは彼の実力を見抜いた。先を見通す目と、将来へのヴィジョンを知った。この男なら、革命政府と対抗できる……確信した。
彼のより近くに存在したかった。彼の「特別」になりたかった。だから彼と寝た。そしてその栄光が、一筋も余さず、この身に注がれるように願った。
シャルワーヌは、栄光を欲していた。王に従わなかった彼は、国に残った戦えない親族から、臆病者と蔑まれていた。
最初にその言葉で罵ったのは、彼の母親だった。
自分は臆病者などではない。
それを証明する為にも、シャルワーヌは強くあらねばならなかった。彼は、常に危険な前衛軍で勇敢に戦った。
けれど未だに故郷に帰ることができないでいた。
栄光。
それがあれば、胸を張って故郷に帰れるだろう。母も自分を、許してくれるだろう。
そしてその栄光は、オーディン・マークスが与えてくれるはずだった。
だから、オーディンと体の関係を結んだことで、エドガルドに対する罪悪感は、全くなかった。
王の為に戦い続けるエドガルドは、シャルワーヌにとって、ある種の憧れだった。兄や弟、王に従い国を出た一族にも通じる、焦がれるような憧憬だ。
王党派の親族達と、シャルワーヌは決して袂を分かってしまったわけではない。先祖代々の王への忠誠、その義務と職務を担い続ける彼らは立派だと、シャルワーヌは思っている。ただ自分は、その道を選ばなかっただけだ。
エドガルドと再会した時、彼に恥じぬ自分でいたかった。その為にも、是が非でも、栄光は必要だった。
しかし、東の国境で手放してから(*1)、彼とは二度と会うことはなかった。
亡命貴族軍の仕掛けてくるゲリラ戦は激しさを増す一方だった。この分では、自分はいつか、エドガルドと殺し合う羽目になるのではないか。シャルワーヌは恐れた。
そんな彼を救ってくれたのは、やはり、オーディン・マークスだった。彼はシャルワーヌをザイードへの遠征へ誘った。
ソンブル大陸に亡命貴族軍はいない。遠征に参加すれば、万が一にも、エドガルドと戦うことはない。
オーディン・マークスはシャルワーヌの尊敬する上官であり、愛人であり、そしてこの瞬間、彼の恩人となった。
ザイードへ来る途中、シャルワーヌは小さな島国を陥落させた。ウテナ王は長男のジウを捕虜として差し出した。
ウテナの王族には、稀に
島の古老からこの話を聞かされたシャルワーヌは、当初、全く信じなかった。(*2)
おとなしく覇気のなかった少年は、長い病から回復した後、がらりと変わっていた。オーディンの勝利に間に合わなかったダミヤン戦から帰ってくると、消極的だったジウは、強く、無鉄砲になった。
そのさまは、不思議とエドガルドを思い出させた。
そんな折、あの男、アンゲル代将ラルフ・リールが上ザイードにやってきた。
彼は、祖国ユートパクスの苦境について話した後、亡命貴族エドガルド・フェリシンの死を告げた。
晴天の霹靂だった。
敵の前であるにもかかわらず、シャルワーヌは我を失い、茫然とした。
少しして、シャルワーヌは、ラルフ・リールがしきりと、エドガルドのことを話しているのに気がついた。
彼の癖、好み、性格……。
あたかも、彼と特別な関係にあったことを匂わせるかのように。
極めつけは、エドガルドがその死の瞬間まで、彼と行動を共にしていたことだった。
自分には何も言う資格はないと、シャルワーヌは思った。東の国境で、エドガルドを手放したのは、シャルワーヌ自身だ。
彼が生きていてくれればそれでよかった。
それなのにこの男は、エドガルドは死んだと言う……。
慰めを、シャルワーヌは、ウテナの王子、ジウに求めた。
彼の剣舞を所望した。
以前のままのか弱い王子にだったら、シャルワーヌも決して、そんなことはしなかったろう。悲しい知らせに溺れ、ジウのことなど、思い出しもしなかったに違いない。
けれど、長い昏睡から意識を取り戻してからの彼は、全く別人だった。
……エドガルドを失った慰めは、ジウにしか与えられない
ごく自然に、シャルワーヌはそう思った。
小さな希望が生まれた。
……。
それなのにジウもまた、エドガルドと同じく、ラルフ・リールに心を奪われたようだった。
シャルワーヌではなく。
その事実が、彼の心を狂わせた。
ムメール族との戦いに出る前、ジウを引き寄せ、強引にキスを迫った。
だってこれは、エドガルドだ。
ウテナ王から預かった王子、ジウではない。
しかし相手の反応は、思っていたのと違った。エドガルドの積極性など微塵もない。内気で臆病でおどおどしていて……性に物慣れていたエドガルドとは全く違う。強引なシャルワーヌの前で、身も世もあらぬほど、彼は恥ずかしがっているようだった。
これは、エドガルドではない?
シャルワーヌは戸惑った。
彼は、ジウ王子のままなのか。
結論が出ぬまま砂漠の戦いに出掛け、ムメール族に勝利した。(*3)
◇
ムメール族を平らげ、司令部に帰ってみると、ジウの姿は消えていた。
最初、シャルワーヌは、ウテナ国から来た密使の誘拐を疑った。なんにしても、彼はウテナの王子なのだから。
だがジウの侍従、アソムも、途方に暮れていた。違う。ウテナ王国の陰謀ではない。
ムメール族は降伏させたが、砂漠には他にもたくさんの部族がいる。例外なく彼らは、少年が好きだ。美しい王子は、砂漠の民にさらわれたのかもしれないと、シャルワーヌは恐れた。
懊悩するシャルワーヌを見かねたのだろう、ハーレムの女の子の一人が、彼は自分で出て行ったのだと教えてくれた。彼女は、ジウから貰ったという膝掛けを見せた。それは、シャルワーヌがジウに贈ったカシミヤだった。
異論はなかった。ジウは自分から出て行ったのだ。
しかし、あの気弱なウテナ王子ジウが、自分から出て行った? いいや。その積極性は、エドガルドのものだ。やっぱり彼は、ジウの中に蘇ったに違いない!
アソムは、主人の変化に気づいていない。シャルワーヌの考え過ぎなのか。あるいは、エドガルドに転生して欲しいという、シャルワーヌの希望か。もしそうだとしたら自分は最低だとシャルワーヌは思った。それは、ジウの死を意味するからだ。エドガルドの転生を願うとは、即ち、ジウの死を選ぶことに他ならない。
そうこうしているうちに、首都マワジから、知らせが来た。総司令官のオーディン・マークスが、僅かな側近だけを連れ、軍に内緒で帰国したというのだ。
追いかけるように、新総司令官ワイズは、シャルワーヌを首都マワジへ召喚した。
自分がいなくなった後の上ザイード統治を、シャルワーヌは、イサク・ベルに持ち掛けた。
「ああ? なんで俺が? あんたの代わりに?」
自分の代わりに上ザイード総督になれと持ち掛けると、イサク・ベルは目を剥いた。
「俺はムメール族の長だぞ? ユートパクス人ではない。お前らが征服した民族だということを忘れるな」
強い抗議にも、シャルワーヌは動じなかった。
「そうだ。だが、ソンブル大陸の民族であることに変わりはない。ここ、ザイードからみたら、ユートパクスは異国だ。しかも、違う大陸にある。古くからソンブル大陸に根を下ろしてきたお前らの方が、新参者の俺達より、住民の気持ちがよくわかるだろう。違うか?」
「住民は俺を恐れているぞ」
「それはお前らが略奪したり、容赦ない税を取り立てるからだろうが」
ザイードは、タルキア帝国の領土だ。当然、タルキアに税を払わねばならない。
「俺らには、税を取り立てる権利がある。タルキア皇帝が認めてくれたからな」
そしてまた、砂漠を移動して生活しているムメール族もまた、住民から税を取り立てる権利を、タルキア皇帝から慣習的に認められていた。
シャルワーヌはため息をついた。
「住民にしたら、タルキアとムメールへ税の二重払いをしなくちゃならない。しかもお前らは1年に何度も馬や食料を徴収するだろう? もはや略奪と同じだ」
「俺達だって食っていかなくちゃならないからな。
にやりとイサクが笑う。
「1年に何度も税を取られたら、かなわないだろうが。金がないことは、ザイードの発展を妨げる」
「お前が言うと、真実に聞こえるな」
シャルワーヌのみすぼらしい服装を無遠慮に眺め回し、イサクは言った。
「真実だ。住民には金が必要だ。住民達たちが稼いだ金を自分たちの為に使って、何が悪い?」
「……俺にどうしろと?」
「略奪はするな。税は必要なだけ取り立てろ。ただし、住民の為に使え」
イサク・ベルは、正確にシャルワーヌの意図を理解した。ザイードをタルキア帝国の手から解放し、よりよい国にしたいという思いは、この大陸に暮らすムメール族も同じだったのだ。
「住民の為に金を使うとは?」
「橋を造ったり道路を整備したり、他にも学校や病院、あと、法律の整備も必要だな」
「そんな難しいこと、俺にできるか!」
「安心しろ。俺の軍を置いていく。中には、行政法律に詳しい市民もいる」
イサク・ベルは驚いたようだった。
「あんたらは、民間人を連れて遠征に来たのか?」
「そうだ。総司令官オーディン・マークス将軍の発案だ」
その名を口にするとき、シャルワーヌの胸がちくりと痛んだ。彼がその才能を認め、心からの忠誠を誓った男は、シャルワーヌを置いて、国へ帰ってしまった……。
「ふん。あんたの統治がうまくいくわけだ。もともと有能な民間人を連れてきたんだからな」
「そうだ。俺は軍人だからな。軍のこと以外は、まるでわからんよ」
統治を引き受け、住民の福祉にも、イサク・ベルは乗り気だった。
これでやっと、肩の荷が下せる……シャルワーヌはほっとした。彼は軍人だ。統治は専門分野ではない。ただ、みじめな暮らしをしている住民を救いたい一心でここまでやってきた。
「ところで、いつになったら、俺の妾に会わせてくれるのだ?」
イサク・ベルと顔を合わせると、いつも彼はこれを聞く。
その度に、憤然とシャルワーヌは答える。
「彼はお前の妾などではない!」
「妾だ。未来のな」
高い声でイサクは笑った。
「あれは、間違いなく俺を選ぶぞ。お前ではなく。それが怖くて、俺の前から隠しているのだろう?
「違う! 何度も言った。彼は、いなくなったのだ」
「そんなわけがない。かわいそうに、よほど自信がないのだな。お前には、|あれを繋ぎとめておける魅力がないからな」
シャルワーヌは呆れた。
「逆に、お前のその自信はなんなんだ?」
「ああ? 俺はマムルークの
……自分がオーディン・マークスを愛したように?
シャルワーヌは首を横に振った。
今は、考えてはいけない。考えてもどうにもならないことは、考えるべきではない。
「彼が、お前なんかになびくものか!」
アンゲル海軍将校には簡単に靡いてしまったけれども。
やはり彼は、エドガルドだったのか。
自分は、前世の彼を手放すべきではなかったのだ。革命政府から処刑されても、彼と一緒にいるべきだった。
「……聞いているか?」
「は?」
「どこまでヤった?」
「………………」
「なんと! 未だに何もしていないのか。なるほどな」
ひとり、頷いている。
「キ、キスはした!」
思わずシャルワーヌは叫び、すぐに後悔した。なんてことだ。これではイサク・ベルの口車に乗せられたも同じだ。
「キス?」
果たして、嘲るような笑いが浅黒い顔に浮かんだ。
「ユートパクス人は、その程度しかできないのか」
「お前のせいだ!」
もはや冷静さを完全に失い、シャルワーヌは喚いた。
「お前らが変な時に戻って来るから……俺は、戦場に出なければならなかったっ!」
暫くの間、例の無遠慮な眼差しで、イサク・ベルはシャルワーヌを見つめ続けた。
「なるほど。俺の妾は、あんたに愛想を尽かして出奔したというわけか」
ついに彼はこう、つぶやき、シャルワーヌを一層の絶望の淵へと叩き落とした。
「だが、安心しろ。あれは、そこまでお前を嫌っていない。少なくともお前は生きている」
謎かけのような言葉を吐き出す。
「生きてて悪かったな」
なんの慰めにもなっていないと、シャルワーヌは思った。
________________
*1
Ⅰ章「初めて」
https://kakuyomu.jp/works/16817330665612772654/episodes/16817330666467386579
*2
Ⅰ章「依代」
https://kakuyomu.jp/works/16817330665612772654/episodes/16817330666468003871
*3
Ⅰ章「さようなら、総督」
https://kakuyomu.jp/works/16817330665612772654/episodes/16817330666465740118
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