依代
シャルワーヌが最初に違和感を感じたのは、ダミヤンから帰還した時だった。
長い昏睡から覚めたジウ王子は、ひどく具合が悪そうだった。
何より驚いたのは、ジウがシャルワーヌのことをすっかり忘れていたことだった。
うぬぼれていたわけではない。しかし、幼い彼の恋心は、シャルワーヌの察するところだった。というか、あれだけ見つめられてわからない方がおかしい。
が、久しぶりでシャルワーヌを見たジウは、あろうことか、誰かと問うた。そのくせ目を眇め、何かを思い出そうとしている。
なんだか性格まで変わったように感じた。体調を気遣えば捕虜の健康を気にかけるのかと突っかかって来るし、ウテナの父王の元へ帰ることを提案すれば、なんと喚き声を上げて拒否してきた。
喚くとは!
今までのジウにはなかったことだ。内気で穏やかな彼は、大声を上げることなどなかった。
違和感は続いた。覇気のないジウが、自ら剣の練習を始めたり、馬に乗りたがったり。果ては、明らかな敵意をシャルワーヌに見せつけてくる。そのくせ、相変わらず熱いまなざしを向けていたりする。
最初は、大病のせいで、人格が変わってしまったのかと危ぶんだ。しかし、アソムは淡々としている。どうやら侍従の前では、今まで通りのジウでいるようだ。
……演じている? 侍従の前では、元の自分を。
その疑念が拭えなかった。
確かにそれは、突拍子もないことだった。ジウの人格が変わってしまったなどと。それも、別の人間と入れ替わってしまった、とは。
だが、シャルワーヌは、ウテナの、ある伝承を聞かされていた。
ソンブル大陸への航海の途中で、オーディン・マークスの遠征軍は、この島を占領した。実際に上陸したのは、シャルワーヌ師団だった。
殆ど攻撃せぬうちに、ウテナは降伏した。さらに数日間、シャルワーヌはウテナに留まり、
戦後処理や諸条約の締結は、占領軍が連れてくる専門家が行う。シャルワーヌは暇だった。それで、島のあちこちを探索して回った。南国の島は美しく、彩り豊かだった。寒い山間の町に生まれたシャルワーヌには珍しいものばかりだ。
ある日、高台で村の古老に会った。覚えたばかりの片言のウテナ語で話を交わすうちに、彼は驚くべきことを教えてくれた。
「ウテナの王族には、
ウテナの伝説や昔話について尋ねたシャルワーヌに向かって、古老は言った。
「よりしろ?」
「さよう。自分の命を全うすることができずに死んだ誰かの魂を、その身に宿す。それが、依代じゃ」
古老の話では、依代に生まれた者は、その死に臨んで、別の人間の魂を招じ入れるのだという。
古老の話は回りくどかった。シャルワーヌのウテナ語も完璧とは言い難い。なんとか汲み取った話によると、依代の死んだ日の近くで死んだ者の魂が、その体に導かれるという。
「体が体であるうちに。焼かれたり、土に返ってしまう前に」
古老はそう言った。
空間の遠近は関係ないという。
「新しい魂が入って、依代は目を覚ます。その時には、全く別の人になっている」
ウテナの王族には、代々突発的に、そうした「依代」体質の子どもが生まれるという。
「依代は、忌み子じゃ。なんといっても、よそ者が王室へ入り込むわけだから」
シャルワーヌの意を迎えようとしたのだろうか。そのように、古老は付け加えた。ちょうど、ウテナ王の息子を捕虜にせよと、
もし万が一、王の息子達の中に依代がいたら、王は簡単に、人質として差し出すだろう、と言っているわけだ。
だが、シャルワーヌは信じなかった。彼は、革命により啓発された国の軍人だ。そのような
ただ、王があっさり長男を差し出した時に、ちらりと古老の話が頭を掠めた。苦笑し、すぐに忘れた。
その後、ソンブル大陸に上陸したシャルワーヌは、上ザイードを平定した。オーディン・マークスが捕虜の受け取りを嫌がったので、ウテナ王子は、ずっとシャルワーヌの庇護下にいる。
ダミヤンへの遠征から帰還して感じたジウの変化は、それからも続いた。
おとなしく内気だった王子に、活気と生き生きとした気力、そして何か強い目的意識が溢れている。
とても懐かしい気配がする。
活動的な陽気さの中で、どこまでのシャルワーヌの存在を許し、包み込んでくれるような……。
それでつい、甘えるような態度を取ってしまった。13歳も年下の、自分が保護すべき異国の少年に。
彼の乗った馬が暴れた時は、本当に肝を冷やした。思わず罵声を浴びせ、彼を自分の馬に引き上げた。馬は止まることができず、門の外に飛び出していった。砂漠で二人きりになれたと気づいた時は、褒美をもらったような気持ちになったものだ。
それで、
彼がムメール族にさらわれた時は、焦りと恐怖で心臓が止まりそうになった。
それまでにもムメール族は、ユートパクス兵士らを攫っては、犯した後、殺していた。砂漠での行軍中、彼らは馬でずっと軍列に付きまとい、列に後れる歩兵がいると、すかさず襲い掛かってきた。特に、オーディン・マークス軍の歩兵が狙われた。素早い動きが身上のオーディン軍は、無理な行軍が多いからだ。
ムメール族は、蛮族なのだ。男も女も関係ない。
もし彼が……。
そう思うと、たまらない気持ちになった。
幸いベリル将軍の協力で事なきを得た。その際、どうもベリルは、シャルワーヌの感情の揺れに勘づいたようだ。しきりと役に立たない助言をしてくるようになった。
無断で門の外へ出た罰として、タルキア語を教えろというのは、これはもうはっきりと口実だった。一緒に過ごしたいだけだ。うっかり眠ってしまって、自分の上にカシミヤが掛けられていたことに気づいた時には、天にも昇る心地だった。
不思議だった。今までまるで意識していなかったウテナの王子に、ここまで心を奪われるとは。
彼は、ウテナ王が差し出した捕虜だ。おとなしくて覇気がなく、いてもいなくても気がつかないような存在だったのに。
シャルワーヌは自分の感情を持て余すばかりだった。
いずれにしろ、弱い立場の捕虜、しかも少年である彼に手を出すなど、論外だった。色恋沙汰に軽はずみでこらえ性がないと言われるシャルワーヌも、ここばかりは境界線を敷いていた。
そこへ、ラルフ・リール、あのアンゲル海軍将校がやってきた。
彼は訃報を齎した。
エドガルド・フェリシンの死だ。
新しい戦闘地へ向かう際に、国境の洞窟で別れてから、その後の彼の消息は知らない。知りようがなかった。
そのエドガルドが、アンゲル将校などと一緒にいたという事実は、シャルワーヌを打ちのめした。しかもラルフは、自分と彼との関係を匂わせた。
彼の死まで続いた、確固たる関係を。
……
……死んだ?
永遠にエドガルドは喪われたのだと、シャルワーヌは悟った。
エドガルドが死んだのは、シャルワーヌが、ダミヤンに向けて上ザイードを出発したばかりの頃だった。
花の月の2日。
奇しくもその日は、ジウ王子が意識を失った日だ。
依代の体は、已の魂と同じ時期に死んだ者の魂を招じ入れるという。
魂を失ったジウの体が、エドガルドの魂を呼んだのだとしたら……?
……ジウ王子がエドガルドだったら!
強くシャルワーヌは念じた。
そしてすぐ、自分を恥じた。
それは、ジウが依代であるように願うこと、即ち、ジウ自身の死を求めることに等しい。
あの穏やかで、優しい少年の。
しかし、舞いながら自分の胸に真剣を突き付けた彼に、シャルワーヌは、紛れもないエドガルドの気迫を感じた。
同時に、今まで信じていたものが音を立てて瓦解していくのを感じた。
王党派のエドガルドと、革命軍のシャルワーヌ。
真逆に分かれ、それでもシャルワーヌは彼を愛していた。全身全霊で。
だが、エドガルドは?
彼はどうだったのか。
エドガルドは一度も、愛を口にしなかった。それどころか、隙を見て逃げ出したことさえあった。毎日のように抱き潰さなかったら、再び脱走を試みたろう。いや、彼を抱き続けたのは、それが目的ではなかったのだけれども。
エドガルドと一緒にいたのは、わずか1ヶ月。それだけだ。
二人の間にあったものは、いったい何だったのだろう。自分の愛は、受け容れられなかったのか。自分はただ、彼を監禁し、凌辱し続けただけなのではないか。
……ジウ王子がエドガルドだったら!
強く、シャルワーヌは希求した。
ジウの体に、エドガルドが転移しているのなら!
そうしたら、二人の関係をやり直すことができる。もう王党派と革命軍に別れてしまうことはない。彼と戦う日は、永遠に来ない。いつだって彼は、自分の近くにいる。
それなのに、最後に会った時、ジウは、アンゲル海軍将校の心配ばかりしていた。あの男を巻き込むことのないようにと、心を砕いていた。しかもあの軽薄な代将を、「ラルフ」と呼んだ。
シャルワーヌの願い通り、ジウがエドガルドだったとしても……、今回の人生もまた、あの男と共に過ごすつもりなのか。
この自分、シャルワーヌとではなく。
怒りが全身を貫いた。
かつて自分があんなにも激しく愛した男。それなのにあっさりとラルフ・リールに奪われてしまった……。
今回また、水色の髪のこの少年は、エドガルドとよく似た気配を宿しつつ、あの軽薄なアンゲル人を選ぶのだろうか。
ここにいるのがジウかエドガルドか、もはやシャルワーヌにはどうでもよかった。
……ダメだ。決して手放さない。
衝動のままにシャルワーヌは、細い腕を捕え……。
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