さよなら、総督
俄かに屋敷の中が慌ただしくなった。
武具を揃える金属音、点呼、号令、馬の嘶き。
「丘の向こうに、ムメール族が戻ってきた」
知らせに来たのは、少年だった。シャルワーヌが買った奴隷、例のハーレムの一人だ。
……ムメール族。
「イサク・ベルが?」
「そうだ」
少年は頷いた。
あのイサク・ベルが戻ってきたとは。今度は一体、何を企んでいるのだろう?
「
棒読みの口調で、少年は言った。タルキア人系の彼は、コーヒー色の肌で、目鼻立ちのはっきりとした美しい顔立ちだ。
彼は武装していた。鎧兜に身を包み、剣を携えている。
「君も戦いに行くのか?」
「当たり前だ。俺はその為にここにいる」
「その為に?」
俺は聞き咎めた。
彼は、戦闘に赴く為にハーレムにいるというのか?
疑問の気配を察したのだろうか。少年は肩を竦めた。
「俺達は訓練を受けてきた。ラクダに乗って、戦えるように」
「ラクダ?」
「馬の数は少ない。
呆れた。
シャルワーヌの図太さに。
首都、即ち司令本部から馬の供給が少ないことは、以前、ベリル将軍も嘆いていた。なぜか
けれど、それに屈するシャルワーヌではなかった。知恵と工夫、それに現地の協力で乗り切ろうとしている。
「君たちは……」
言い澱んだ。
恥ずかしがることではないと思い直し、直球で尋ねた。
「君らは、性奴隷ではなかったの? シャルワーヌ将軍の?」
「馬鹿なことを言うな! 主様は、品位ある侵略者、公正な配分者だ。あの方が集めておられるのは、奴隷などではない。将来の戦士達だ」
「戦士!」
唖然とした。
「そうだ。親を亡くし、あるいは、貧困から売られた子どもたちを、主様は、ここ上ザイードに集めておられる。奴隷となって悲惨な人生を送るはずの俺達を、戦士に鍛え上げる為に。俺達は、この国を変えるのだ」
前に来たオットル族の族長が、シャルワーヌに奴隷を献上しようとしていたことを思い出した。族長の息子は、シャルワーヌには美しい女奴隷ではダメで、少年が良いと言っていた。
その本当の理由は、戦士にするからなのか。
少年は俺を見下ろした。
「お前は間に合わなかった。だから今回は、主様が指揮を執る」
「俺が……間に合わなかった?」
「そうだ。本来なら、ラクダ部隊の指揮官は、お前がなる筈だった。けれどお前はまだ、充分ではない。主様はそうおっしゃった」
――「君はただの捕虜じゃない。もっと重要な存在となり得る」
砂漠へ馬が暴走した時、シャルワーヌはそう、口にした。あれは、俺を指揮官にするという意味だったのか。少年たちの軍を与え、統率を取らせようという。
意外だった。
……俺を買ってくれていたのだ。
ひよわなこの、ウテナの王子を。剣を持っても腰が定まらず、暴れ馬を制することさえできない、この俺を。
いや、彼が買っていたのは、本当にジウ王子なのか?
――「君は、誰だ」
剣舞の最中、真剣を突き付けた俺に、シャルワーヌはそう問うた。彼は何かに感づいたのだろうか。内気なジウとは違う、誰かに
あれから、シャルワーヌには、会っていない。
「まだここにいたか、ラフィー」
部屋の入り口から誰かが呼んだ。人を惹きつけてやまない声だ。思わず体が硬くなった。
「点呼が始まる。急いで練兵場へ行け」
「はい」
ラフィーと呼ばれた少年は、両手を組んで頭を下げるという深い恭順の仕草を見せ、小鳥のように軽々と走り去っていった。
「そういうわけだ。しばらく留守をする」
部屋に入らず、俺を見もせず、一方的にシャルワーヌは告げた。
「ラフィーが言った通りだ。イサク・ベルが戻ってきた。砂漠のどこかで人と武器を調達して。武器といっても、ムメール族のことだ。大したことはない。だが、念の為だ。屋敷から出てはいけない」
言うだけ言うと、踵を返し、そのまま立ち去ろうとする。
「シャルワーヌ将軍!」
思わず呼び止めた。
ぴたりと足が止まった。
「なんだ」
「いえ、」
再び彼が背を向ける。
「待って!」
謝りたいと思った。
彼の「ハーレム」を誤解したことを。
せっかく俺を買ってくれたのに、変に勘ぐっていたことを。
「俺は急ぐのだが」
何か言わねばならないと思った。考え、口をパクパク動かし、ようやく言った。
「気をつけて」
背を向けたまま、シャルワーヌが返した。
「何を気をつけることがある? ムメール族の武器は剣だけだ」
それで、ラクダ部隊を投入しようとしたのだと悟った。剣だけしか武器を持たないムメール族なら、戦闘未経験のラクダ部隊でも、充分戦える。
引っかかりを感じた。
遠くまで張られた、色とりどりのテント。深緑と紺色の布地の間から見えた……、
「違う!」
思わず叫んだ。
「違う?」
「ブドウ弾砲です。ムメール族は、ブドウ弾砲を持っています!」
砲弾が弾けて、たくさんの破片が周囲を壊滅させる大砲だ。
シャルワーヌが振り返った。
「散弾砲だと? ムメール族が?」
「ええ。僕は見ました。以前、彼らに……、さらわれた時」
シャルワーヌの瞳が凄みを増した。
「なぜ砂漠の民が、ウアロジア大陸の大砲を? いったい誰が、彼らにそれを与えたというのか」
はっとしたように、彼はその名を継いだ。
「ラルフ・リールか!」
「違う! ラルフではありません」
「……」
抉るような眼差しで俺を見つめる。
早急だった。俺のミスだ。ラルフはこの件に関係ない。彼を巻き込んだらいけない。
「さっき僕は言いました。ムメール族にさらわれた時に見たと。ラルフが来るずっと前のことです」
「……『ラルフ』」
俺は自分の失敗に気づいた。
「リール代将です」
「なぜラルフ・リールなのだ。君が愛したのは、この俺ではなかったか。なぜ君は、俺を裏切ったのだ」
あまりに唐突だった。混乱し、剣舞の後でラルフに会いにいったことが露見したのかと疑った。
「だが、言ったろう。君には俺を殺せない」
「?」
俺にはシャルワーヌを殺せない? 過去にシャルワーヌ自身がそう言った?
聞いた覚えがない。
何の脈絡もなく、シャルワーヌが両腕を拡げた。
無防備だった俺は、その意外過ぎる動きに、完全に機勢を制されてしまった。逃げることはおろか、防御の姿勢をとるさえ覚束ない。
なすすべもなく両腕で囲われ、抱き締められた。しっかりと抱きかかえられ、足はおろか、指先さえ、動かすことができない。
「俺は、占領国の捕虜に手を出したりはしない。ましてや、ウテナの王子には」
あまりのことに呆然とし、次に激しい怒りが湧いてきた。せっかく彼への誤解を解いたつもりだったのに、間違いだったというのか。
こいつはやっぱり、最低の男だ。
「手を離せ! 不敬だぞ!」
今まで被っていた猫をかなぐり捨て、俺は叫んだ。
低い声でシャルワーヌは笑った。
「本人が望むのなら、話は別だ。合意の上でなら、何の問題もない」
「合意だと? ふざけるな! この腕を離せ! 誰がお前なんかのっ!」
「おや、そうかな? お前はいつも、俺を熱い目で追っていたじゃないか。ほら。その目だ」
「それは俺じゃない!」
髭だらけの口が降ってきた。避ける間もなく、俺の唇は端から端までシャルワーヌの唇で覆われ、塞がれた。
……愛している。
ずっと貴方を愛していました。
待っていました。あなたが振り返ってくれるのを。
ああ、貴方のキス。
乾いた温かい唇。思った通りだ。銃弾に両頬を貫かれ、唇の形も変わってしまったと貴方は気にされていたけど、そんなことは構わない。
なんて優しいキスだろう。
お髭が少し、くすぐったい。
ぬるりと舌が滑り込んできた。
「あ、あ、あ……」
必死で首を左右に振って追い出そうとするのだが、後頭部を鷲掴みにされ、動けない。俺の動きを封じ込め、口づけはより深くなる一方だ。
「うぐっ」
挨拶のように歯列をなぞり、シャルワーヌの舌はおもむろに、口腔内へ忍び込んでくる。頬を探り、上顎を内側から撫でまわし……。
「……あ」
俺の全身から力が抜けた。噛みしめていた奥歯が緩く開き、蹂躙してくる舌を受け容れる。
深いキスのせいで呼吸ができず、意識が間遠になっていく……。
……好き。好き。
貴方が好きです、総督。
始めて、僕を僕として見てくれた。ウテナ王の息子としてではなく。数奇な運命に翻弄された王子としてでもなく。
最初から貴方は、僕を、ジウとして見てくれた。
もっとも、僕のことは少し、苦手だったようですね? 男ばかりの中で生きてきた貴方に、僕という存在は扱いかねたのだろうと、自覚しています。
ごめんなさい。
でも、貴方が好き。
理屈じゃない。
貴方が好きです。
唾液が注ぎ込まれ、自分のそれと混ざり合う。無我夢中で、俺は、男の首筋に両腕を回した。
抱擁がきつくなった。
シャルワーヌのキスは、深く巧みだった。舌が口腔中を這いまわり、翻弄する。
ぽつりと、体の一部に火がついた。
この男に欲望を?
あってはならないことだ。だって自分は、かつてエドガルド・フェリシンだった自分は、この男を殺さなければならないのだから。
……貴方のキスは、本当になんて素敵。
大好きだった人。
貴方はいつだって、軍の先頭にいた。黒髪をなびかせ、首元のスカーフも解けたままに馬を駆り、敵陣に切り込んでいく。
そのお姿は、軍神そのものでした。
でも、気を付けて、総督。
貴方のお命を狙っている者がいます。
それを、この者に伝えることができたならよかったのに。僕の体に宿ったこの者に。
膝から、力が抜けた。崩れ落ちそうになるのを、逞しい腕が支えた。
シャルワーヌの方が背が高い。上を向いている唇の端から涎が溢れる。
破裂音がして、唇が離れた。
「……いい子だ」
低い声が囁いた。
肩で息をし、俺は、声も出せない。長く深いキスは呼吸を詰まらせ、頭がぼおーっとする。まともにものが考えられない。
……いつまでも抱きしめていてほしい。
ずっとお傍にいたかった。何もできず、きっと足手纏いになるだけだろうけれど。
遠くから見ているだけで良かったのに。
でも、もう、行かなくちゃ。
最後に貴方とキスできて嬉しい。
夢でした。貴方に抱かれ、優しく口づけられること。
思った通りのキスでした。
うっとりするほど優しいキス。
情熱的な、心惑わせる……、
……わかってる。
貴方がキスをしたのは、僕であって僕じゃない。
この者が、なぜ、僕の体に宿ったか、ようやくわかった気がします。
それは、二人が同じ思いを抱いていたから。同じ人を、同じくらい深く愛していたから。
すっと指が伸びてきて、口の端を拭った。
「愛して欲しい」
あまりにも唐突だった。
シャルワーヌには、強大な権力がある。奴隷を贖うこともできれば、属国から愛妾を召し出すことだってできる。
それなのに彼は繰り返した。
「俺を愛してくれ。俺のことだけを考えて、俺だけでお前の心を満たすんだ」
切なげな声った。傲慢な男に、全くふさわしくない。心細そうな、寄る辺のない……。
……さようなら、総督。
大好きなシャルワーヌ。
貴方を愛していた。
誰よりも深く、貴方だけを。
________________
※後半は、プロローグの場面です。要所要所でジウ目線を割り込ませました。視点は混乱していませんでしょうか?
いつもお読み下さって、本当にありがとうございます。まだまだ続きますが、どうか気長にお付き合い頂けたら嬉しいです。
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