妹と手鏡

尾八原ジュージ

妹と手鏡

 月の欠片を拾った夜、枯井戸の中で妹が死にかけていたのを、わたしはちっとも知らなかった。生ぬるい夜風に吹かれながら、うっすら光る欠片を持って「これってどこかに届けるべきかしら」などと逡巡していたころ、月本体は深い穴の底に横たわった妹を照らしていた。

 妹には鏡に話しかけるくせがあった。いつも持ち歩いてた手鏡を、警察のひとが妹の遺体といっしょに、枯井戸の中から拾いあげてくれた。井戸の中で妹は血まみれの顔を映しながら「あたし死ぬのかなぁ」とつぶやき、手鏡は「これっぽっちのケガで死ぬもんですか」と答えていたらしい。というのは、その手鏡自身から後で聞いた話だ。

 わたしは妹の形見として、手鏡をもらうことにした。

「姉さん、おはよう」「姉さん、ちょっと顔色が悪いんじゃない?」「姉さんってば」

 わたしの姿を映しているくせに、鏡は妹のふりをして喋る。

 きっと手鏡も妹の死に傷ついているのだろう。わたしはそう思った。こうやって自分を慰めていないと、うっかり割れてしまいそうなのだ。その気持ちがわかるから、わたしはわざと手鏡の嘘に付き合ってやった。妹にするような受け答えをすると、鏡の中のわたしの顔は嬉しそうにほころんだ。


 そうやって日々を過ごすうち、少しばかりおかしなことになってきた。妹のふりをする手鏡と話していると、だんだん(この手鏡に映っているのは、本当は妹なんじゃないかしら)という気がしてくるのだ。そんなときにぱっと顔を上げると、窓ガラスに移った自分の影が、誰のものなのか一瞬わからなくなっていた。

 もしかしたらわたしは、わたしの妹なんじゃないか? 死んだのはわたしで、妹ではなかったんじゃないかしら?

 不安になってきたわたしは、昔書いた日記を読むことにした。自分の神経質そうな文字がみっしり並ぶ日記を読んでいると、当然ながらそれはわたし自身の記憶と合致する。わたしは日記の表紙に書かれた名前こそが自分の名前なのだと再認識し、文字だらけの日記帳のささやかな余白に「わたしはわたし」などと書き込んでみた。そんなことをしてから手鏡を覗き込むと、そこにはわたしの顔が映っていて、そしてやっぱり「姉さん」と話しかけてくる。

「姉さん、あのお月さまの欠片ってまだ光ってるの? あたしにも見せてよ」

 駄目だ。もう、頭がおかしくなりそう。

 わたしは手鏡を手放すことに決めた。妹の墓に行ってその前に手鏡を置き、念入りに手を合わせて背を向けた。

 墓石のほうから「姉さん」「姉さん」と何度か声がした。わたしは走りだした。

 息を切らしながら家に帰った。家中の窓を閉め、カーテンを閉め、これで墓地から声がしたって聞こえないはず、でも胸の中では「姉さん」という手鏡の声が響いてわたしを呼び、わたしは悲しくなってわんわん泣いた。夜になってこっそりと窓を開けると、妹が死んだ夜と同じ生ぬるい風がふんわりと顔に触れた。鏡の声は聞こえず、わたしはほっとため息を吐いてベッドに入った。

 翌朝、泣き過ぎたせいか頭が痛かった。わたしはふらふらと洗面台の前に立った。大きな鏡に映ったわたしは、ずいぶんひどい顔色をしていた。

「死人みたい」

 鏡にむかって呟くと、鏡の中のわたしが勝手に口を動かした。「姉さん、泣いてるの?」

「泣いてないわ」わたしはとっさに答えた。「涙は昨日のうちに全部流して、なくしちゃったの」

 嘘つき。

 鏡の中のわたしはそう言って、さびしそうに笑った。

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妹と手鏡 尾八原ジュージ @zi-yon

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