「……こわ、かっ、たぁぁ」

 引っ越して早々、とんだ災難に巻き込まれたものだ。なんとか追い払うことはできたが、どこか薄ら寒い不安を感じてしまう。

「……」

 それにしても———。

 ふうと息を吐いて、由香は身を起こした。

 先程の会話を反芻しながら足元の段ボールに目をやる。無理やりガムテープを剥がそうとして、ぼろぼろになった表面。

 自分が何をしようとしていたか思い出した。それだけじゃない。新しくやらなきゃいけないことが一気に増えてしまった。

「あー、カッターどこだっけ?」

 独り言のように呟いて、立ちあがる。

 いつかの頭痛がぶり返してきて、反射的にこめかみへ中指の骨を当てた。床の感触が覚束ない。

 薄暗い部屋には厚手のカーテンの隙間から細い光が差し込んで、フローリングに生白い線を残していた。その線を綱渡りするように辿って、由香は部屋の隅にある小さな棚に近づく。たしかここが小物入れだったはずだ。

「あの娘、口調は怖かったけど、落ち着いたら結構かわいい感じだったなあ」

 縦に並んだ引き出しを下から開ける。カッターは一番上に入っていた。慣れ親しんだ部屋でも、わからないことはたくさんある。

 人間だってそうだ。

「わかんないもんな、誰と付き合ってるかなんて」

 引き出しを戻す。力を込めたつもりはないのに、中で何かが割れる音がした。

 その音に喚起されたのか、ずきずき痛む頭に「割れ物注意」の表示が浮かんだ。どれもこれも最初からラベルが貼られていたら分かりやすいのに。

 初めて握るカッターの感触を確かめながら、部屋の対角に向かって歩く。と、足裏に不快な粘着質を感じた。ガムテープの切れ端を踏んでしまったようだ。

「じゃまだなあ」

 テープをつまみ上げて、カッターの刃を突き刺す。そのまま端まで破いた。

無理やり剥がそうとすると、壊れるもの。剥がした後に、まとわりついてくるもの。総じて面倒だと思う。

 ざらついた脳内の映像で、サブリミナルのように女の姿が瞬く。

 つばの広い帽子。真っ赤な唇。あとなんだっけ。

 あのときインターホン越しの声に対して抱いていた感情は、ほんとうに恐怖だったのだろうか。異質な存在だったはずの彼女の言動ひとつひとつに、激昂した自分の姿が重なって見える。そして、その向こうで怯えているのは——。

 そうか。そこまで考えて由香はようやく気がついた。

 (もしかしたら私、あんたと気が合うのかも)

 彼女の言う通り、案外似た者どうしなのかもしれない。不器用な人間としても、予期せぬ訪問者としても。

 ああ、これが、自己嫌悪なんだろうか。

 堂々巡りを辿りそうな思考に、絶えず鈍い痛みが加算されていく。息の仕方を忘れたような自分の荒い呼吸だけが耳に届いて、ふらついた拍子に壁にぶつかった。しばらくそのままもたれかかって、鼓動が落ち着くまで待つ。

「だめかあ。やっぱ治らないんだ、全部」

 やっと吐き出した声は、自分のものなのに他人めいた響きを伴って聞こえた。もう戻れないんだ、と漠然と思った。

 ひとりの引っ越しなら、一度の移動で全てを運び込めるはずがない。越してきた直後なら、ベッドに掛け布団が、小棚に物が置かれている訳がない。それにカーテンだって——。

「……だる」

 明白な瑕疵を数えるだけでまた気分が悪くなりそうだった。ずっとそんな人生だ。

 なにはともあれ、不審を覚えた彼女がここに戻ってくるのも時間の問題だろう。

 ならば、いっそ——。

 ベッドの脇に立って、しずかに見下ろした。

全体を覆うように掛けられた布団が、かすかに上下している。

「私にも言ってくれたよね。『浮気はもう絶対にしない』って———」

 布団に手を掛け、力任せに剥ぎ取る。

「嘘じゃん」

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