訪問者
燦
表
車に積んできた荷物は、数回の移動で全て部屋に運び入れることができた。
ふう、と一息ついた由香は、三角座りの状態から腕だけを伸ばして手近な段ボールを引き寄せた。梱包の際に何も書かずに封をしてしまったので、割れ物以外は何がどの箱に入っているか分からなかった。とりあえず片っ端から開けてみるしかない。
箱の側面、ぎざぎざしたガムテープの端に爪を当てる。そろそろ親指の爪切らなきゃ——カリカリとひっかく指先を眺めながら、数秒後には忘れることを考えていた。
執拗に爪を立てた割には、ガムテープは少ししか剥がせなかった。仕方なく浮いた部分だけを引っ張ろうと試みたが、粘着力が強いのか思った以上に剥がれない。さらに力を込めると、びい、と間抜けな音を立てて千切れた。
耳鳴りのしそうな静寂が、ひとりには広いワンルームを支配する。自分の不器用さを笑われている気がして、無性に腹が立ってきた。
床に寝転がって、小さく息を吐く。抑えなきゃ——。
怠い身体を起こしかけたとき、
ピンポーン
突如聞こえた音に、全身が硬直した。
この住所に引っ越したことは誰にも伝えてないはずだし、業者を呼んだ記憶もない。なんでこのタイミングで……?
訝しく思いながらも、おそるおそるインターホンに手を伸ばす。
〈通話〉のボタンに触れようとしたとき、
ピンポンピンポンピンポンピンポン
およそ聞いたことのない速度で、インターホンが連打される。
ひっ、と上擦った声が出た。意思より先に後退した踵が、キッチンセットの端にぶつかる。
直後にドンドンとドアを叩く音。
(ねえタクミ、起きてるのー?)
ドア越しに女性の声がする。溶けかけの飴を思わせる、粘着質な声。
弾かれたように美香は部屋の中を振り返った。窓際に寄せた机と椅子、それから綺麗に整えたベッド。大丈夫。散らかった段ボールはとにかく、部屋の内装はちゃんとしている。それで、この人は……?
言いようのない不安を抱えながらボタンを押した。
画面に映っているのは、小柄な女性。大きなリボンのついた、真っ白な帽子を被っている。つばが広いせいで顔はよくわからないが、その下に覗く真っ赤な唇が不気味だった。
なにか返事をしなければと思ったが、女の声のほうが早かった。
(ねえなんで起きてないの? 今日は早くからお出掛けしようって約束したじゃん。また私との約束破るの? おかしいよね、ねえ——)
話すうちに、声が不穏な気配を帯びていく。
このままではまずい。直感的に理解した由香は、取り繕うように言葉を発した。
「あ、あの、私引っ越したばっかで、それで」
(は?)
その簡潔な返答はあまりにも冷え切っていて、舌を引っこ抜かれたように何も喋れなくなる。背中を嫌な汗が伝っていった。
(女? は? 誰? なに? なんでタクミの部屋に女がいんの? なにそれ? ていうかお前誰?)
女の唇が歪む。白い歯が剥き出しになる。
(とりあえず開けろよ、ここ。早く。開けろっつってんだろ)
ガチャガチャとノブが捻られる音。荒々しい言葉が、ひび割れた音となって鼓膜を脅かす。
感じたことのない恐怖に、全身から血の気が引いていくようだった。心臓だけがうるさいほどにばくばくと鳴っている。
「あの、違うんです! 私はきょう引っ越してきたばかりで」
うまく舌が回らないが、必死に話し続ける。
「それで、タクミ、さんでしたっけ……と、とにかく、その人のことも知らないんです。きっともう引っ越されたんじゃ——」
(あ? ——あ、そう、そうなんだ)
相手の語気が嘘のように弱まった。
(そっか——うん。そうだよね。あー、ごめん、大声出しちゃって)
納得してもらえたのだろうか。由香はひそかに胸をなでおろした。
モニターの向こうでは帽子を外した女が、額に手を当てている。無防備に薄く開いた唇からは小振りな舌が覗いていた。あまりの変わりように由香は呆然としつつも、あざとい仕草だな、と場違いなことを考える。
(引いたよね。私、情緒ヤバいんだ。友達からもよく指摘されるんだけど、嫌なことがあるとすぐに切れちゃって)
打って変わって親友に話しかけるような口調。
分かりますよ、と由香は言葉だけで同意してみせた。こういうタイプには、変に反論せず共感だけしておいた方がいい———それが彼女の経験則だった。
「それで、そのタクミさん……っていうのは」
(今までのやり取りで何となくわかったと思うけど、いちおう私のカレ。よくこの部屋で会ってたんだけど、あいつ浮気性でさあ)
「そうなんですね」
由香は大きく頷いた。相手に見えるわけがないのに。
(で、前に問い詰めたときも「もう絶対にしない」って言い張ってたんだけど、なんか信じられなくて……久しぶりに来てみたら女の声がしたから、勘違いしてつい大声出しちゃった。ごめん)
先ほどまでの調子とは打って変わって、しおらしい口調の謝罪で締めくくられた。由香はまた「そうなんですか」と相槌を打ちつつ、まっすぐカメラを見るようになった相手の容姿を観察する。地雷系のメイクに隠れてすぐには気づかなかったが、よく見ると乱暴な物言いに似合わない幼い顔立ちをしている。
(それにしても変だな~)
「変?」
緩みかけた顔が強張る。まだ何か詮索されるのだろうか。
(いや、引っ越すんだったら私に教えてくれたらいいのに、って思って)
「ああ、なるほど」
そんなことか、と安堵する。
由香は少し考え込むような間をとって、「あ」と声を漏らす。
「……もしかして彼氏さん、あなたにサプライズのつもりでそのこと隠してたんじゃないですか?」
(サプライズ?)
呆気にとられたような反応。
「だから、えーっと、例えばの話なんですけど、あなたを喜ばせたくて、新しい部屋に歓迎の飾り付けを進めてる最中、とか……」
語尾がだんだん弱くなっていく。いざ言葉にしてみると、自分で突っ込みたくなるほど馬鹿馬鹿しい仮説だった。案の定、女にも(なわけ)と一蹴されたが、ここまでの会話で警戒心が解れていたせいか、鼻で笑われる程度のリアクションだった。とりあえず怒鳴られなかったことにほっとする。
「で、ですよね」
(ま、アイツのことだから単に忘れてたとかそんな話だと思うけどね。いちおう大家にも聞いて——)
「いや、それよりもっといい提案があります」
食い気味に口を挟む。
「そんな意地悪をする彼氏さんは、逆に焦らしてやったらどうですか」
(焦らす? どういうこと?)
「少しの間、連絡をあえて絶つとか。向こうがあなたのことしか考えられなくなるまで、じっくり待たせちゃえばいいんですよ」
(えー、そんな手に引っかかるかなあ。———でも、いいかも)
悪戯っぽく発した由香の提案に、女はまんざらでもなさそうな微笑みを浮かべる。先程までの言動が信じられなくなるような、かわいらしい笑顔だった。
(もしかしたら私、あんたと気が合うかも)
しばらく会話を交わしたあと、向こうからそう言ってきた。なわけあるか、と内心で舌を出しながら、表面上は穏当でフレンドリーな笑い声を返した。音声だけのやり取りはこういうときに便利だ。
女は再度謝罪の言葉を口にして、モニターの画角から消えた。
由香は〈通話終了〉のボタンを押して、画面が切れたことを念入りに確認する。そのまま、力尽きたように膝から崩れ落ちた。
「……こわ、かっ、たぁぁ」
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