金木犀を辿って

鹽夜亮

金木犀の香りを辿って

「ねぇ、たまには歩こうよ」

 唐突に彼女はそう言った。スマートフォンを見ると、すでに時刻は一時を回っている。幸い、僕らは怠惰のために風呂に入るのを遅らせていた。まだ外着のままだ。肌寒くなったといえども、一枚羽織れば事足りるだろう。

「珍しいね。滅多に歩きたがらないのに。しかもこんな夜中にさ」

 僕の言葉通り、彼女も僕も散歩をする習慣はなかった。県内でも田舎に位置するこの家では、どこに行くにも車だ。電車に乗る習慣もなければ、歩いて五分で辿り着けるコンビニすらない。それに、健康のために散歩をする、などと考え付くならば既に僕らは禁煙でもしているだろう。

「何となくだよ。今日、そんな寒くないし。天気もいいから、たまーにはいいかなって。…あと、ちょうどさっきので煙草切らしちゃったから」

空になったセーラムをふりふりと振りながら、彼女は決まりの悪いような顔をする。

「最近吸いすぎじゃない?前は一日二箱買ってれば大丈夫だったのにさ」

「私も気にしてはいるんだけど。でも減らそうとして減らせるものでもないじゃない?私たちみたいな煙草吸うことくらいしかしたいこともないヘビースモーカーじゃ」

 否定できなかった。僕も煙草を減らせと言われても、減らせる自信はない。

「じゃ、お散歩と行きますか。何か羽織ってね。流石に寒いと思うよ」

「パーカー着てく〜。すぐ行くから先に外出てて」

「はいはい」

 自室へパーカーを取りに行った彼女を横目に、僕はジャケットを羽織り、玄関を出た。

 まだまだ秋口といえど、深夜にもなれば外は肌寒い。静寂が耳を打つ。いや、正確には静寂ではなかった。そこら中で虫が鳴いている。ただ僕が、普段からそれを音と認識していないだけだ。

「お待たせ。あ〜やっぱり羽織らないと肌雑いね。パーカー着て正解。それじゃ、歩こ?」

 そうして、僕達の短い旅が始まった。

 シャリシャリ、コンクリートの上に散らばった砂を踏む二人の足音が聞こえる。虫は相変わらず好き勝手に鳴いている。嫌いではなかった。自然の音は、心地よい。歩を進めるたびにゆるやかな夜風が、頬を撫でていく。

「ねぇ、コンビニまでどのくらいの距離だっけ?普段車でしか行かないから、気にしたことないのよ」

 僕より少しだけ先を歩く彼女は、どこか楽しそうだ。心なしか、僕の心も踊っている。それは幼い頃に感じた行ったことのない場所へ探検に出るような、そんな新鮮な感覚だった。

「距離なら…二キロくらいじゃないか?車で五分もかからない距離だし。歩いてもたぶん三十分くらいじゃないかな」

 脳裏に地図を広げながら、コンビニまでの距離を大雑把に考える。都会の人々なら、この程度の距離を歩くのは日常茶飯事なのだろう。僕達にとっては、一つのイベントですらあるのだが。

「そんなもんか〜。あ、そう、ねぇねぇ、気づいてる?」

 頭の後ろで手を組んで歩きながら、彼女が振り返る。暗闇の中でも、その表情が楽しげに笑っているのがわかる。

「え、何に?」

「秋だよ〜?ほらほら、考えてみなって」

 何故か勝ち誇ったような顔をして、そう言う彼女の横顔が、数少ない街灯に照らされる。こんなに幼かったっけ、と呆けたことを僕は思った。

「秋…秋でしょ。んー月が綺麗」

「それ、あんたにとってどの季節でも口癖みたいなもんじゃない。まぁ確かに綺麗だけど、ほら、もっと秋らしいことだって!」

 中秋の名月、という言葉だけが脳裏に浮かんだが、どうやら見当はずれのようだ。彼女は悪戯を仕掛けた子どものように、鼻歌混じりに歩いている。それに、どこか遠くで鳴いた鹿の声が混ざった。

「わからない」

「えー」

「ええっと…蟋蟀か何かの鳴き声」

「それは毎晩部屋で聞こえるでしょ」

「んー、あ、そこにある栗」

「一昨日近所のおばちゃんに貰って食べたじゃん」

「やっぱわかんない!」

 思いつく限りを羅列してみたが、どうも彼女のお気には召さないようだった。

「風情がないな〜風情が。ふふふ、ほら、匂い嗅いでごらんよ」

「……?」

 言われた通りに、鼻を効かせる。微かに、甘い香りがした。

「え、なに、今日お前めっちゃいい匂いするじゃん」

「私じゃないよ馬鹿。金木犀!金木犀の香り!」

 一瞬立ち止まった彼女は、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。僕もそれを真似る。ああ、確かに、金木犀はこんな香りだったっけ、と朧げな記憶を思い返しながらも、実感はあまり湧かなかった。

「ほらほら、空気に混ざったこの甘ーいほのかな香り。秋って感じするじゃない。あんたは特に普段車ばっかりだから、気付かないのよ」

「気にしたことなかったなぁ…寝る時も窓開けてるけど、なんで気づかなかったんだろ」

 意識を向けてみれば、そのほのかな甘い香りは、次第に際立って鼻腔を刺激した。わざとらしくない、控えめな、どこか優しい香り。懐かしいと言ってもいいのかもしれない。不思議なノスタルジーを僕は感じていた。

「近所に金木犀なんてあったっけ?」

「わからないけど、香りがするってことはどこかにあるんでしょ」

「そりゃそうか」

 再び歩き始めると、気づきもしなかった数分前とは打って変わって、呼吸をするたびに甘い香りを感じる。やはりそれはどこか、優しい。

「煙草臭い部屋よりはよっぽどいいね」

「…それは私もあんたも煙草止めないんだから、仕方ないじゃない。止めてみる?」

「無理」

「でしょ」

 住宅街、といってもまばらだが…を抜けると、道の左右に田園が広がる。この付近に街灯は無く、月明かりの届かない場所は暗いというよりも、黒いと言った方が適切だろう。月がなければ、足元すら見えなかったかもしれない。普段車で走る道がこんなに暗いとは、思ってもみなかった。

「うっわ、暗。なにこれ。一人でなんか歩けないよこんなところ」

「僕も流石に一人は気が引けるなぁ…月が出てるから何とかなるけどさ。もし出てなかったら、懐中電灯でもないと歩けないよね」

 幸い、この辺りは近隣に高速道路が出来たのもあって、道幅も広く舗装もしっかりしている。家を出て歩き始めた頃のシャリシャリと砂を踏む音は鳴りを潜め、代わりにコツコツと靴が路面を叩く硬い音が響く。

「昔さ。この横の川で自殺があったんだって。若い女の人」

 前を歩く彼女は、唐突に不穏なことを口走った。左手の田園奥にある川は、お世辞にも広いとは言えないが、たしかに人目にはつかないだろう。そんなことがあったとしても、おかしくはないのかもしれない。

「なんで急にそんなこと…」

「んー、別に。なんとなく。その人も、こんなふうに夜中ここを歩いたのかなって、そしてどこで終わらせようか、考えてたのかな〜って思ったから」

 前を歩く彼女の横顔が月明かりに照らされている。ぼんやりと浮かぶそれは美しいに違いない。だが、この一瞬だけは捉え難いほどに儚く、消え去ってしまいそうに僕には見えた。

「……そうかもね。でも、僕達は今二人だ」

「…うん」

 そう言って頷いた彼女は、言葉を止めて歩を進めた。田園は次第に数を減らし、コンビニの看板が目に入る。いやに明るく感じた。

「あ、見えた。あっという間だね。何の銘柄にしようかな〜アイスも買っちゃおうかな〜」

「この時間にアイスは太るよ」

「今カロリー消費してるんだからいいじゃない。帰りも同じ道を歩くんだし」

 帰りも、の言葉に何故か安堵を覚える自分がいた。何故かはわからなかった。いや、わかっていたが、認めたくなかった。田園の中で月明かりに照らされた彼女が、一瞬どこかへ消えてしまいそうで不安だったなどと、言えるわけがない。

「まぁたまにはいいんじゃない?」

「やった〜。寝る前に楽しみができた。足取りも軽くなっちゃうよ」

 踊るように歩く彼女は、綺麗だった。近づくコンビニの明かりが、月明かりをかき消していく。まるで夢の中を歩いていたようだ、そんな馬鹿なことを思った。

 コンビニの入り口近くにくると、ふと彼女は足を止めて振り返った。

「ねぇ、そういえば。金木犀の香り、今しないよね?」

「……しないね」

「ちょっと寂しいな」

 そう言って、コンビニへ向かおうとした彼女に、僕は何かを言わなければいけないと思った。何故かは、わからない。

「帰り道、また香るでしょ。同じ道を帰るなら、金木犀は逃げないんだから」

 彼女はもう一度立ち止まった。一瞬の沈黙を経て、振り返ったその表情は、どこか幼い、可愛らしい笑みだった。

「そうだね。うん。帰り道、家の近くまで行けばきっと、またあの甘い香りが迎えてくれるよね」

「僕が気づかなかったら、また教えて」

「次は内緒にしちゃおうかな」

「えー……」

 コンビニの扉を潜る。いらっしゃいませ、の声と共に、僕達は短い旅を終えた。

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